ショコラ・ノワール

西崎 仁

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第9章

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「俺は君を助けたわけじゃない。そうじゃなく、全部自分のためにやった。目の前で人が傷つけられるところも、だれかが人を傷つけるところも見たくなかった。店で働きはじめた君のことも、いまから思えば、無意識のうちに教え子の姿を重ねていたのかもしれない」
 こんな言いかたは、葵を傷つける。わかっていても、言葉は止まらなかった。
「これ以上ないほど打ちのめされてた君が、少しずつ元気を取り戻して立ちなおっていく姿に救われた。だけどそのくせ、いざ自分に余裕がなくなったら、途端にあんなふうに君を撥ねつけるような態度を取って傷つけるような真似をした。君にはなにひとつ、非はなかったというのに」
「たった一度きりです。あのとき以外ずっと、鳴海さんは理性的に接してくれました」
 葵の言葉に、鳴海は己の言動を否定するようにかぶりを振った。
「俺は臆病で、そのくせ利己的な人間だ。この五年、俺は被害者の遺族という立場を楯に、教え子と正面から向き合うことを拒んで彼女の声に耳を塞ぎつづけてきた。それなのに、その教え子を勝手に君に重ねて、楽しそうに働く姿に満足してた。おなじような心理状態に陥りながら、しっかり踏みとどまって罪に手を汚さず、まえを向く姿に自分自身が救われたような気になってた。君が笑ってくれたら、それだけで許されたような気がしてた。妻も娘も俺のせいで殺されて、もう二度と、帰ってくることはできないというのに――」
 そうだ、この手で守ってやることのできなかったかけがえのないふたりは、永久にこの世界から失われてしまった。自分は、夫としても父親としても、最低限の役目さえ果たすことができなかったのだ。
 加害者である教え子を許すことは決してできない。だがそれ以上に、無力をさらけ出し、事なかれ主義を通そうとした自分が許せなかった。そしてそんな教え子の姿を葵に重ねたことで、ただ一度きりとはいえ、あんなふうに葵に対し、剥き出しの感情を向けたことも。
 それもすべて、己の心に蓋をして、向き合うことを避けつづけてきたがゆえのひずみであり、弱さの現れだった。
 教え子の自分への気持ちには気づいていた。それでもナーバスな心境に陥りやすい時期であったからこそ、殊更深刻に受け止めることはしなかった。受験が終わって向かうべき進路が定まれば、淡い恋心もすぐに消えてなくなる。自分が既婚者であることも、充分な予防線になると思っていた。軽くとらえて高を括り、少しも真剣に取り合おうとはしなかった。彼女にかぎらず、教え子たちから向けられるさまざまな感情や期待に、いちいち振りまわされていてはキリがなかったからだ。
 自分は講師として、彼らが受験に立ち向かえるだけの学力を身につけさせるべく、そのノウハウを示していけばいい。そう思っていた。
 鳴海の立場はどこまで行っても一講師にすぎず、だれか特定のひとりと、とりわけ密接に関わるようなことはなかった。それゆえ、そこまで深く思いつめ、執着される立場にはないと考えていた。まさかその鉾先が、自分ではなく、まったく無関係の家族に向かおうとは夢にも思いもしなかった。
 問題を軽視しすぎた自分を、どれほど悔やんだかわからない。悔やみ、憤り、血を吐くほどに運命を呪い、己を憎んだ。自分で自分を殺してやりたいと、失意の底でのたうちまわった。
 何度妻と娘のあとを追おうと思ったかわからない。それを引き留め、いまの仕事と巡り合わせてくれたのは――
 鳴海は思って、視線を窓のほうへ向ける。建物の外に表示された店の名前、『ル・シエル・エトワール』――『星空』。
 ――小夜さよ……。
 気がつけば、目の前に葵が立っていた。わずかに手を伸ばせば触れ合える距離。
 一方的な告解に耳を傾けながら、葵はじっと鳴海を見上げていた。その口唇が、ゆっくりと開く。
「……よかった。あたしも少し、鳴海さんのお役に立てたんですね」
 囁くような声で言って、かすかに笑った。その目から、涙が溢れ落ちた。
「だけど、ごめんなさい。こんなふうにやっぱり、鳴海さんにつらい言葉、言わせちゃってる。悲しい過去を、思い出させちゃってる」
 先程までとは意味合いの異なる、悔し涙。
「もっと大人になりたいです。もっと強くなりたい。自分のことばっかりじゃなくて、相手の気持ちも思いやれるだけの余裕を持てる人になりたい。好きだって言いながら、自分の気持ちばっかり押しつけて、自分のつらさから逃げるだけで精一杯なんて、そんなのひどすぎる。最低。あたしやっぱり、いまの自分、嫌いです。すごく嫌い。だって、あたしなんかより遙かに深く傷ついてる鳴海さんを、まるごと包みこめるだけの度量も大きさもない。全然たりない。最初からずっと、鳴海さんに助けられてばかり。加奈子さんみたいな大人の女性だったらよかった。鳴海さんより多く人生経験を積んでる人間だったらよかった。いまのあたしじゃ全然追いつけない。こんなときに気の利いた言葉ひとつ思い浮かばない」
 ごめんなさい。もう一度囁いた葵は、鳴海の頭を引き寄せて掻き抱いた。
「あたしは子供で、どうしようもないくらい弱くて未熟な人間だけど、でも鳴海さん、これだけはわかります。鳴海さんは、なにも悪くないです。もう自分を責めないで。どうか自分を許してあげて。それからもっともっと、自分を大切にしてあげてください。それが、奥様の願いです」
 揺るぎない口調で断言されて、鳴海はわずかに目を瞠った。
「奥様は鳴海さんの幸せをだれより深く願ってる。間違いないです。おなじ女だから、わかります」
 子供だ、未熟だと言いながら、葵の声は穏やかに鳴海を包んだ。
「鳴海さんに笑っていてほしい。自分のせいで苦しんだり傷ついたりしてほしくない。鳴海さんが自分で自分を責めるようなことも望まない。奥様は、鳴海さんにただ幸せでいてほしいんです。大好きだから。大切だから。心からそう願わずにいられない。あたしにはわかります。だって、あたしも鳴海さんのことが大好きで、大切だから」
 言われた途端、鳴海は反射的に葵の躰を抱き返していた。葵は一瞬、驚いたように全身を硬張らせる。だが直後に、力を抜いて鳴海に身を任せた。
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