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第九章
閑話 転移前 ――長井編――
しおりを挟む長井道子は赤ん坊の頃、親の手が余りかからない子であった。
もちろん赤ん坊なので、おむつの世話などはされていたが、夜泣きもせず、余り感情をむき出しにして泣くこともなかったため、親としては負担も少なかった。
ただ、余りに泣き叫ぶことがなかったため、逆に何か問題があるのではないかと親に心配される程、長井は大人しい子だと思われていた。
この頃の事は、流石に長井本人もほとんど記憶には残っていなかったが、その後の時代。
幼稚園に通い始めた頃の事は鮮明に記憶していた。なぜなら、それがその後の『長井』という人物を形成していくための最初の一歩であったからだ。
▽△▽
「みーちゃん。人のものを勝手に使ってはダメなのよ」
実の母親にそう諭された時、長井はショックを感じていた。
それは精神的にダメージを受けたという意味でのショックではなく、当然だと思っていたものがそうではないと知った時の、驚きによるショックに近かった。
これまでの経験から、無条件で自分の望みを叶えてくれる、助けになってくれると思っていた母親に、到底納得できない事を言われた事が、長井にとってはショックだったのだ。
事はどこででも見かけるような些細なものだった。
幼稚園のお絵かきの時間に、長井は自分のクレヨンではなく他の子のクレヨンを勝手に使った挙句、ポキッとそのクレヨンを折ってしまう。
そのクレヨンの持ち主の女の子は、その事で大いに泣きじゃくり、先生も何事かと駆け寄ってくる。
泣きじゃくる女の子から事情を聞いた先生は、長井に「どうして~ちゃんのクレヨンを折ったの?」と尋ねるが、長井は「別に折るつもりはなかった」と言うだけで、まったく反省の色が見えない。
実際長井は、まだほとんど未使用だった自分のその色のクレヨンを使うのが嫌で、代わりに他の子のクレヨンを使っただけという認識だった。
折れてしまったのは使い方が悪かっただけの事であり、故意にやったつもりはなかった。
そうした長井の態度は、泣きじゃくるだけだった女の子にも、反骨心のような者を芽生えさせ、女の子は後に親へとこの事を告げ口する。
性質の悪い事に、その親が口うるさいタイプであったため、直接長井の親の元にまで直談判をしにやってきて、長々と「お宅の娘は教育がなってない」だのと喚き散らした。
長井の母も、娘がやった事は認識していたので、強く反論する事もなく半ば聞き流すようにして、この親子をやり過ごした。
その様子を背後から見ていた長井は、その時点で「何故あそこまで言われっぱなしなのか」という疑問と共に、強い感情の動きを感じていた。
幼いその身では処理できなかったその感情は、屈辱を端とする強い憤りだ。
それは、女の子の親が帰った後、母親から説教を受けた際に更に強まっていった。
だが長井はそうした感情を表に出すことはなかった。
すでに幼心に、この人は味方ではない、とインプットされてしまったからだ。
味方ではない者に頼ったり、弱みをみせたりという事が、長井の考えの中には存在していなかった。
長井は幼い頃のこの小さな事件をきっかけに、どのように振舞えば自分の思い描く通りの生活を送れるのか、追求を続けていくことになる。
それには徒党を組み、なおかつ自分がその絶対的なリーダーであったり、強い影響力を持つ立場である必要がある、という事を学んでいく。
そして自分たちの思い通りにするために、時には影でこっそりと暴力を振るったり、嫌がらせを重ねるなどして相手の心を折っていく。
こうして長井は、悪い意味でのカリスマの発揮の仕方を、幼い頃から自然と身に着けはじめていった。
この頃が長井の日本における人生の中で、一番充実していた頃と言えるだろう。
その充実した生活に陰りが見えてきたのは、高校生活も半分を過ぎた辺りだった。
それまで通り、気に入らない奴を裏で粛清したりと幅を利かせていた長井のグループであったが、肥大していく長井の横暴っぷりに、周囲の取り巻き達も流石についていけなくなっていたのだ。
長井も持ち前の恐怖政治でもって、グループを維持しようと試みたが、脱退者は増えていく一方。
挙句に長井が見せしめとして、メンバーの一人の女子にした仕打ちが決定打となって、長井のグループは崩壊する。
それは、どこから連れてきたのか屈強な男共を使って女子を襲わせ、その様子を撮影した映像をメンバーに送り付けるというものであった。
長井自身もその狂態に参加しており、どこで手に入れたのか、鞭を遠慮なく振り回す長井には、参加者の男たちもドン引きしていた程だった。
しかしグループのメンバーからすれば、ドン引きどころではなかった。
これまでも、メンバーになった者には度胸試しという名目で万引きをさせたり、一緒につるんでる男たちと共謀して、美人局で成人男性から金を巻き上げるといった事はしていた。
それでも今回の件は、そんな連中からしても肝が冷えるものだった。
よくあれで死なないものだという位に、徹底的に甚振られたメンバーの様子は、まさに拷問のスペシャリストの手腕のようにさえ見えた。
こうした場面で、長井は致命的な失敗をこれまで回避し続けてきた。
だがこの映像を見てしまっては、この先どうなるか分かったものではない。
「今日は、白昼堂々の無差別殺人をしよう」などと言い出しかねないほど、長井の様子は常軌を逸していた。
これまで何だかんだで色々と悪事を働いていたメンバーであったが、流石にこれ以上長井と付き合っていくいくのはためらわれた。
かといって、下手にグループを脱退するなどと言い出せば、自分の下にもあの屈強な男たちがやってくるかもしれない。
警察に頼ろうにも、これまで散々悪事を働いて警察を疎ましく思っていた自分たちが、今さら頼ることも出来ない。
それは罪悪感とかいったものよりも、単に悪事がバレて捕まってしまう事を恐れたが為だった。
思えばこういう心理になる事を見越して、長井は新入りに"度胸試し"をさせていたのかもしれない。
万引きから入った新入りは、やがて飲酒喫煙、無免許運転など、どんどんそのハードルを上げていかされるのだ。
こうして長井が築いた、長井を中心とする小さな王国は更盛を迎えていたが、それが崩れるのは一瞬の事だった。
その当時、とあるいじめ事件が世間の話題に上っていた。
特にいじめ現場の様子が写された映像は、インターネットを通じて多くの人の目に触れる事になった。
その結果、連日のようにこのニュースは報道され、お茶の間を賑わしていた。
それに触発されたのか、あるいはもう我慢の限界だったのか。
長井のグループの一人が、例のメンバーへの粛清の動画を、同じようにして動画投稿サイトへとアップロードしてしまう。
その動画の中では、一緒に参加している筈の長井だけが小賢しくもカメラアングルから常に外されていた。
更に、どこで入手したのか、ボイスチェンジャーのようなもので声も変えていて、一見してそこに長井が参加しているとは分からない。
この動画がきっかけで、参加者は軒並み暴行の疑いで逮捕されていったのに、その誰もが長井の名を上げる事がなかった。
各人が厳重に、それぞれ別の理由でもって、しっかりと懐柔されていたのだ。
それは動画を投稿したメンバーも同じで、明らかに長井が主犯であると思われるのに、その事を警察に垂れ込むことはなかった。
結果として、長井はお咎めなく無事にこの難局を乗り切ることに成功する。
しかし、代償としてこれまで築いてきた全てがほぼ失われてしまう。
自分の言う事を何でも聞くようになるまで人ひとりを仕上げるのに、かなりの労力をかけてきたのだ。
それらが今回の件で失われてしまったのは、長井にとって大きな痛手だった。
そして、短大を卒業し社会の一部となっていくにつれ、かつてのように自分の王国を作る事が絶望的になっている事を、長井は強く認識する。
それは長井にとっては常にストレスを生み出した。
そのストレスを僅かでも晴らすために、副業でSMクラブの女王様として辣腕を振るい、憂さを晴らしていたりもした。
しかし、その場だけの『女王様』で満足できる長井ではなかった。
日々募るストレスと、解かれる事のない自分の本当の心。
そんな長井の下に訪れた、ひとつの大きな"転機"は、再び長井の野望に火をつける事になる。
しかしその野望は一人の男によって妨害された事によって、方向性を違えていく。
そう。復讐という、激しく強く。甘美で抗いがたい、劇薬へと形を変えて……。
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