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律子の無邪気な最期~ベランダで酒に酔って食べ物を粗末にしていた妻が落ちて死んだ件~

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 律子は両手に大きな袋を抱えていた。

「お風呂にするか、ごはんにするか。うん、米は炊かない」

 スーパーのレジ袋の中からその中身を取り出す。
 全てすじこだ。
 目算でも三十パックはあるであろうすじこのパックを抱えてとてとてと僕の前を横切っていく。
 目的地はベランダ。立てかけてあった金盥――二か月前に突然買ってきたものである――を掴むと、その中に買ってきたすじこをぶちまけだした。

「すーじこーすーじこーたーっぷりすーじこーすーじこーすじこすじすじ、すーじこすじこすーじすーじすじこすじっこだーのすじっこだーの、ふじこが来たかと思うべなー♪」

 でたらめな歌を叫びながら凄い勢いですじこを金盥に注ぎこんでいく。それと同時進行で空になったパックをぽいぽいぽいぽい投げ捨てている。

「すーじこすーじこすじこっこー♪」

 全てのすじこを金盥に移し終ると、その中に飛び込んだ。
 その勢いでベランダのガラス戸にすじこの粒が飛び散っては落ちていく。

「あーるこーっる、あーるーこーっ、あーーーるぅぅこーっ、あーーるっこぉぉぉー、あーーーるーーこーー、あーーーーーーーーーーーるーーーーーーーーーこーーーーーーーっ」

 僕の方を向いてすじこだらけの金盥のなかで思いっきり足踏みをする律子の目は焦点が合っていない。

「あーーるーーこーー、あーるぅぅぅぅこっこー、あるーこーーーーーーーーー、あっるっこー、あーーるーーーーーーこーーーーーーーーー、あーるーーーーーーーーこーーー、あーるぅこーーーーーーーーーーーーーーーーーーーる!!」

 ガラス戸をばんばん叩きながら律子は奇声を上げ、足踏みを続けている。
 僕は立ち上がって、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開けて白ワインを取り出すと、ラベルを剥がしてフタを開ける。栓抜きなんか要らない、コンビニで買ってきた安い、ボジョレー・ヌーボーだ。

「あるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこあるこ……」

 ワインの瓶を持った僕を見て昂奮したのか、律子は動きを高速化させていた。
 やっぱりそうだ。血走った目はちゃんとボジョレー・ヌーボー見ている。ガラス戸を叩く音凄まじく、地震かと錯覚しそうになったほどだ。

「ほらほら、そんなに窓叩いちゃダメでしょ。割れたら危ないだろう?」

 僕がガラス戸に近づくと、律子はそれを叩くのを止め、ただただ犬のように舌を出してすじこを踏みつぶすだけになった。
 着ている薄い黄緑色のワンピースには醤油の染みだらけで、もう外には着ていけないだろう。僕が去年、律子の誕生日に贈ったワンピースだった。
 僕はガラス戸を開けて律子にボジョレー・ヌーボーを渡すと、「あるっ……くほぉーーーーっ!!!」と絶叫してボジョレー・ヌーボーをラッパ飲みし始めた。勿論、その間も足はすじこを踏み潰し続けている。
 律子がこの奇行を行う理由は分からない。何の意味があるのかも分からない。
 ただ、僕はきれいで優しかった律子が窶れ壊れていくのに耐えられなくて、思考を放棄した。つまり、逃げたのだ。
 そして、今もこうして正視に堪えない律子から目を逸らし、子供みたいに体育座りして膝の間に顔を埋めている。

 初めて律子がすじこ潰しを行った二か月前、僕は律子の姿に怯えることしかできなかった。鬼気迫るその様子に圧倒されて、やめさせようという考えは全く浮かばなかった。
 ひとしきりすじこ潰しを行うと、律子はベランダからリビングに上がった。怯える僕の着ていた無地のTシャツに足跡をつけてバスルームに向かい、シャワーを浴び始めた。シャワーの音に交じって彼女の慟哭が聞こえていた。
 二度目には律子にその奇行をやめさせようとしたけれどダメだった。むちゃくちゃに顔を引っかかれてしまった。その時は、貰い物のワインを飲ませたら大人しくなったのだが、回数を重ねるうちに量も増えたし、酒を飲むと更に暴れるようになってしまった。
 今やすじこ潰しを始めると必ずアルコールを要求するようになった。ワイン以外でもいいのかもしれないが、もしも気に障ると怖いのでワインを常備している。

 少し静かになったので顔を上げてみた。
 律子はベランダの縁に座り、夕陽を肴にワインをラッパしていた。目を凝らして見れば肩が震えているし、耳を澄ませば微かな嗚咽が聞こえる。
 危険だとは思ったが、あまりに幻想的な光景だったから、つい見惚れてしまった。
 そして、僕はそのうしろ姿にありえたかもしれない未来を重ねた。
 律子のワンピースを汚したのが、すじこを踏み潰した際の醤油跳ねによるものでなかったなら。
 子供と遊んでいて、自分まで泥まみれになった無邪気なうしろ姿であったなら、と。
 気が済んだのか、律子が縁に手をついて足を引き揚げようとしたときだった。

「あ」

 彼女が消えた。
 否。
 落ちた。
 地響きのような音がした。
 目の前で起きたことが整理しきれなくて、僕がガラス戸を開けてベランダに出るまでには数秒を要した。
 縁から身を乗り出してマンションの前の通りを見下ろしたとき、既に律子は血を流していた。

「あ、あああ、あああぁっ!!」

 僕はリビングに戻ると携帯電話を引っ掴み、靴も履かずに飛び出した。
 119をコールするも、うまく状況を説明できない。
 見惚れている場合じゃなかった。
 やはり止めるべきだった。
 何もかもが遅かったのだ。
 僕は、律子が最初にすじこ潰しを始めた時に止めるべきだったのか。そうだ、きっとそうだ。
 僕に勇気がないばかりに、恐怖に負けて彼女を失ってしまった。最愛のひとを。
 流産のショックに打ちひしがれ、狂っていく律子の支えになってやれなかった。夫として、いや、僕は人間として最低だ。生きている価値がない。

 電話で何を言ったか覚えていないが、救急車は来てくれた。
 律子は病院に運ばれたが、その時には死んでいた。
 
 帰宅すると、部屋に誰かの気配がした。
 泥棒かと思って、食器乾燥棚から包丁を取り出した。構えながらリビングに向かう。
 すると、リビングでは一家が団欒していた。どうやら部屋を間違えたらしい。一瞬の沈黙の後、悲鳴と怒号が飛び交ったが、僕は早とちりしたことを土下座して謝罪した。
 その部屋の住人も僕の妻が転落死したことを知っていたようで、許してくれた上にお悔やみの言葉までいただいた。

 今度こそ自分の部屋に帰りつくと、僕は開けっ放しのベランダから、金盥をリビングに運び込んだ。
 律子に踏み潰されてほぼ液体と化したすじこを両手で掬う。血の色をしたそれを口元に運んだ。律子の残してくれたこのすじこを食べずにはいられなかった。身体の震えですじこが手から零れたり、咳き込んだせいで口から出たりもしたが、それらも床に這いつくばって舐めとった。
 半分ほど食べたところで、律子に対する罪の意識に押し潰されてしまい、蹲ってしまった。ごめんな律子。こんなクズで。僕のせいで君を死なせてしまって……。

「負けないで。もう少し」

 よく通る澄んだ声。
 聞き覚えのある優しい、声。
 顔を上げると、そこには律子がしゃがんで僕を見ていた。窶れる前の穏やかな笑顔だった。

「最期まで、食べ続けて」

「り、律子……」

 呆然とする僕を律子は抱きしめる。
 おかしいな、話だと幽霊ってのはすり抜けちまって触れないはずなのに。それに、とても温かかいじゃないか。

「律子、生きていたのか?」

 律子は答えないで僕を押し倒すと、金盥を持ちあげ僕の口に無理矢理宛がい、残りのすじこを流し込んできた。

「最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて、最期まで、食べ続けて……」

 かなり流し込まれているはずなのに、減らないどころかどんどんすじこが増えていく。
 もう限界だ、というところで、律子が欠けた。顔と言わず胸と言わず足と言わず、ぼろぼろぼろぼろ律子が欠け始めた。そして、その欠けた律子の破片はどれもすじこだった。
 すじこでできた律子が一斉に崩壊を始め、ばらばらと床に散らばっていく。
 ばかりか、テレビも照明も本棚もテーブルもカーテンも何もかもがすじこになって部屋を埋め尽くしていく。右も左も上も下も東西南北視界の全てがすじこに変化していく。
 僕は悟った。
 こんなことが現実に起きるはずがない。僕はもうきっと――

 そう思った瞬間、すじこ空間は消え去った。
 代わりに、包丁で自分の腹を裂き、金盥の中のすじこをそこに詰め込んだ僕の死体があるだけだった。
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