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第5話 清輝
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阿門とめぐみは連れ立って部屋を出た。一階のロビーでは若い夫婦と息子の親子連れが一組、ちょうどチェックインをしているところだった。
靴を履いて外に出ると、綿菓子を千切ったような雲がちらほら見える、気持ちのいい青空が広がっていた。二人は鐘楼湖沿いの道を南の方角へ向けて歩き、旅館のパンフレットを片手に近辺の飲食店を探してみる。
「『清輝』という寿司屋があるみたいだね。そこにしようか」
「いいですね。先生、ごちそうさまです」
「……ここは折半ということにしてくれないか? 何せ金欠で……」
「はいはい。先生の懐事情はよーくわかってますよ」
寿司屋「清輝」は、実にこじんまりとした外観で、雰囲気といい看板といい、隠れた名店といったオーラを感じさせる。
「いらっしゃい」
阿門が引き戸をカラカラ開けると、カウンターの内側で寿司を握っている店主が声をかけた。パンフレットによれば、地元で長年親しまれ、一人で店を切り盛りしているという。
「今日のおすすめをお願いします」
「はいよ」
カウンター席に並んで座り、二人はおしぼりで手を拭いた。おそらく地元の人と思われる客の男は、それからまもなく、勘定を済ませて出ていった。
「はいどうぞ」
店主が翡翠色の皿に盛りつけたにぎりは、うに、いくら、甘えび、はまち、いか、サーモン、まぐろ。
新鮮なネタを前に二人は目を輝かせた。
「いただきます!」
手を合わせていただく。小皿にしょうゆ、わさびを溶き入れ、阿門ははまちからいった。
「……ウム」
口福に満たされた阿門は思わず唸る。噛みしめるほどに口福。とろけるようなネタ。ほどよく後を引く酢飯の味……。
(あぁ……生きていてよかった……)
これまで何度も挫折を経験してきた阿門の身に沁みた。
「あっ……おいひぃ」
隣でめぐみも幸せを噛みしめている。めぐみはうにからいき、目をうるうるさせて今にも泣き出しそうである。
「お二人さんはどちらから? 東京?」
二人の様子を見て笑いながら店主が訊いた。
「ええ、そうです」
阿門が答える。
「そうですか。それは遠路はるばる」
「このお店はずいぶん親しまれているそうですね」
「いえいえ。長いことやっているというだけが取り柄でして」
阿門は湯飲みのお茶に口をつけた。
「ここは良いところですね。鐘楼湖を望む景色が最高です」
「ええ。変わった伝説もありますし」
阿門とめぐみの手がぴたりと止まった。
「伝説、といいますと」
「あれ、お二人ともそれでお越しになられたんじゃない? まあ、伝説ブームも今は昔の話ですし……」
「伝説というのは、お坊さんと女性の話でしょうか」
めぐみが訊ねた。
「何だ、やっぱりご存じだったんですね。そうです、若い女子おなごに懸想した坊主が、ある嵐の夜、鐘とその女子とともに湖底深くに沈んだという話です」
旅館「てる」の女将とほぼ同じ内容だ。
「先ほど、伝説ブームとおっしゃっていましたが」
気になる部分を阿門は訊ねた。
「もう二十年以上も前になりますか、地方の知られざる伝説を発掘するとか何とかいって、テレビが取材にきましてね。当時、町おこしの一環として、鐘楼を建て直したくらいで」
「あの湖にですか?」
「ええ。でもブームはすぐに去ってしまって、残った負の遺産の鐘楼も、一昨年上陸した台風で跡形もなく消えてしまいました」
何だか寒気がした。
「……しかしそれでは、まるで先ほどの伝説みたいですね。嵐の夜に鐘が沈むところが」
「きっと湖の底に鐘は沈んでいるんでしょうけど、誰も引き揚げようなんて考えもしません。鐘楼自体、ブームが去った後は誰にも顧みられず、古くなる一方で危ないあぶないと皆思っていたんですよ」
「では、嵐がきてラッキーだった?」
「まあ、本音はそうですね」
店主は頷いていた。
「清輝」を後にした二人は口福を感じつつも、一方では体にまとわりつく悪寒を振り解けないでいた。
「まさか、あんな話を聞けるとは思ってもいなかったな」
旅館の部屋に帰った二人は、電気ケトルで沸かしたお湯で淹れたコーヒーを飲んでいた。
「本当に鐘が沈んでいるんだとしたら、何だか気味が悪いですね」
「おや、めぐみ君は怖いのは苦手だったかな」
「そんなんじゃないですけど」
夕刻になるまで、阿門はノートPCに向かっていたものの、やはり筆の進み具合は悪かった。めぐみも読書に集中できないらしく、かといって外に出るのも億劫なので、眼鏡を外して籐椅子に座って仮眠を取っていた。
「……めぐみ君」
午後六時を回った時、阿門はノートPCを閉じ、めぐみの肩を揺すった。
「あっ、すみませんわたし寝てました」
「いいんだよ。お風呂が先かい」
「はい。あの……」
髪の毛をいじりながら、めぐみはいう。
「先生も先にお風呂にしませんか? できれば一緒に食べたいので」
「わかった、そうしよう」
阿門とめぐみは大浴場にいき、男湯と女湯に分かれて入った。阿門は気を使って烏の行水並みに手早く体を洗い、湯船に浸かって上がったが、ロビーで先に待っていたのはめぐみの方だった。
「しっかり入ったかい? 髪の毛もちゃんと乾かさないと風邪引くよ?」
「大丈夫です。さ、いきましょう」
靴を履いて外に出ると、綿菓子を千切ったような雲がちらほら見える、気持ちのいい青空が広がっていた。二人は鐘楼湖沿いの道を南の方角へ向けて歩き、旅館のパンフレットを片手に近辺の飲食店を探してみる。
「『清輝』という寿司屋があるみたいだね。そこにしようか」
「いいですね。先生、ごちそうさまです」
「……ここは折半ということにしてくれないか? 何せ金欠で……」
「はいはい。先生の懐事情はよーくわかってますよ」
寿司屋「清輝」は、実にこじんまりとした外観で、雰囲気といい看板といい、隠れた名店といったオーラを感じさせる。
「いらっしゃい」
阿門が引き戸をカラカラ開けると、カウンターの内側で寿司を握っている店主が声をかけた。パンフレットによれば、地元で長年親しまれ、一人で店を切り盛りしているという。
「今日のおすすめをお願いします」
「はいよ」
カウンター席に並んで座り、二人はおしぼりで手を拭いた。おそらく地元の人と思われる客の男は、それからまもなく、勘定を済ませて出ていった。
「はいどうぞ」
店主が翡翠色の皿に盛りつけたにぎりは、うに、いくら、甘えび、はまち、いか、サーモン、まぐろ。
新鮮なネタを前に二人は目を輝かせた。
「いただきます!」
手を合わせていただく。小皿にしょうゆ、わさびを溶き入れ、阿門ははまちからいった。
「……ウム」
口福に満たされた阿門は思わず唸る。噛みしめるほどに口福。とろけるようなネタ。ほどよく後を引く酢飯の味……。
(あぁ……生きていてよかった……)
これまで何度も挫折を経験してきた阿門の身に沁みた。
「あっ……おいひぃ」
隣でめぐみも幸せを噛みしめている。めぐみはうにからいき、目をうるうるさせて今にも泣き出しそうである。
「お二人さんはどちらから? 東京?」
二人の様子を見て笑いながら店主が訊いた。
「ええ、そうです」
阿門が答える。
「そうですか。それは遠路はるばる」
「このお店はずいぶん親しまれているそうですね」
「いえいえ。長いことやっているというだけが取り柄でして」
阿門は湯飲みのお茶に口をつけた。
「ここは良いところですね。鐘楼湖を望む景色が最高です」
「ええ。変わった伝説もありますし」
阿門とめぐみの手がぴたりと止まった。
「伝説、といいますと」
「あれ、お二人ともそれでお越しになられたんじゃない? まあ、伝説ブームも今は昔の話ですし……」
「伝説というのは、お坊さんと女性の話でしょうか」
めぐみが訊ねた。
「何だ、やっぱりご存じだったんですね。そうです、若い女子おなごに懸想した坊主が、ある嵐の夜、鐘とその女子とともに湖底深くに沈んだという話です」
旅館「てる」の女将とほぼ同じ内容だ。
「先ほど、伝説ブームとおっしゃっていましたが」
気になる部分を阿門は訊ねた。
「もう二十年以上も前になりますか、地方の知られざる伝説を発掘するとか何とかいって、テレビが取材にきましてね。当時、町おこしの一環として、鐘楼を建て直したくらいで」
「あの湖にですか?」
「ええ。でもブームはすぐに去ってしまって、残った負の遺産の鐘楼も、一昨年上陸した台風で跡形もなく消えてしまいました」
何だか寒気がした。
「……しかしそれでは、まるで先ほどの伝説みたいですね。嵐の夜に鐘が沈むところが」
「きっと湖の底に鐘は沈んでいるんでしょうけど、誰も引き揚げようなんて考えもしません。鐘楼自体、ブームが去った後は誰にも顧みられず、古くなる一方で危ないあぶないと皆思っていたんですよ」
「では、嵐がきてラッキーだった?」
「まあ、本音はそうですね」
店主は頷いていた。
「清輝」を後にした二人は口福を感じつつも、一方では体にまとわりつく悪寒を振り解けないでいた。
「まさか、あんな話を聞けるとは思ってもいなかったな」
旅館の部屋に帰った二人は、電気ケトルで沸かしたお湯で淹れたコーヒーを飲んでいた。
「本当に鐘が沈んでいるんだとしたら、何だか気味が悪いですね」
「おや、めぐみ君は怖いのは苦手だったかな」
「そんなんじゃないですけど」
夕刻になるまで、阿門はノートPCに向かっていたものの、やはり筆の進み具合は悪かった。めぐみも読書に集中できないらしく、かといって外に出るのも億劫なので、眼鏡を外して籐椅子に座って仮眠を取っていた。
「……めぐみ君」
午後六時を回った時、阿門はノートPCを閉じ、めぐみの肩を揺すった。
「あっ、すみませんわたし寝てました」
「いいんだよ。お風呂が先かい」
「はい。あの……」
髪の毛をいじりながら、めぐみはいう。
「先生も先にお風呂にしませんか? できれば一緒に食べたいので」
「わかった、そうしよう」
阿門とめぐみは大浴場にいき、男湯と女湯に分かれて入った。阿門は気を使って烏の行水並みに手早く体を洗い、湯船に浸かって上がったが、ロビーで先に待っていたのはめぐみの方だった。
「しっかり入ったかい? 髪の毛もちゃんと乾かさないと風邪引くよ?」
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