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3章 歓びの里 [鳥の妻恋]編

3-10 舐めんなよ

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「ぬるいな」

 もぐもぐとみながら、ちらりと目を上げると、渋面の美丈夫の険しい眼差しがあった。

 無言で手元の器に目を落とす。
 中身は黄色い色をした粥――言わずもがなキチュリである。

 かれこれ四度目の朝を迎え、コムジたちからそろそろ粥以外はどうかと問われた。が、フェイバリットはいたくこの粥を気に入ってしまった。なので今日も飽きずにキチュリをお願いした。

 今朝は初日に比べると、少ししっかりめの歯ごたえに仕上げてある。その分、食べ応え十分だ。

 フェイバリットはほわりと目を細める。
 風味豊かな香りの後に口の中に広がる、ほのかな米と緑豆の甘み。粥の熱がじんわりと腹に溜まり、多幸感で胸の中まで温かくなる。

 ごくりと飲み下すと、フェイバリットは満足げに吐息する。美味い。

 朝昼夜と衆人環視の生活に強制的に慣らされて、ようやく今朝あたりから人にの食事にも慣れてきた。

 こんなことに慣れてしまっていいものか。ともかくも、気持ちの上ではようやく訪れた心の平穏に感謝である。

 チャンジは「ぬるい」と言ったが温度はちょうどいい。まさに食べ頃と言っていいだろう。

 コムジたちの仕事はいつも完璧だ。心の中でフェイバリットははて、と首をかしげる。

 そんなフェイバリットの心を読んだように、頭上からちっと舌打ちが降ってきた。

「粥の話じゃねえ」

 舌打ちに釣られて、再び視線を上げるとそこには苦々しい顔があった。呆れたように太い息を吐くと、両脇に侍る姉妹をかわるがわる見る。

「コムジよ。女同士がよかろうと娘の世話を任せてしばらく様子を見ていたが、お前たちは手を出し過ぎる。出来るところはなるべく自分でやらせるよう言っただろうが」

 なるほど。ぬるい=過保護という意味だったのか。

 さもありなんと、フェイバリットは心で大きく頷いた。全く同感だったからである。

 二人共、きっともともと世話好きな性分なのだろう。細かいところにまで本当によく気がつく。その仕事ぶりは、まさに痒いところに手が届くと言っても過言ではない。

 もちろんそれに対して、感謝の気持ちが大部分を占めている。しかしおかげでフェイバリットの出番がほとんどないのもまた事実だ。

 もたもたしている間に毎回、洗顔も着替えも歯磨きも終わっているという有り様なのだから。食事だけはなんとか死守しているものの、それ以外の勝率はかなり低いと言っていい。

「ですが兄様。ま・まだ子供ですし、ゆっくりでよろしいじゃありませんか」
「そうですよ。少しぐらい時間をかけても、な・何も問題ないでしょう?」

 つかえながらも、しっかりとコムジが口々に言い返す。そんな二人を、ふんっとチャンジが大きく鼻を鳴らしてあっさり一蹴する。

「馬鹿め。子供だからこそ、問題大ありなんだ」
「「え?」」
「こいつは体を動かせなくなった年寄りとは違う。ずっと体を動かさねえでいたから、あちこちが萎えちまってるだけだ。動かさねえと動くもんも動かねえ。特に折れた骨まわりは早く動かしてやらねえと、固まっちまって余計に長引く。お前らが娘っ子の尻を叩くのに躊躇するっつうんなら――別の誰かが代わりにやるだけだ」

 ちらりとこちらを流し見る。
 魅力たっぷりな流し目なのに、なぜかフェイバリットの体はドキリどころか先ほどから心臓がバクバク言っている。

 つい今しがたまで、呑気にも昨日と同じ穏やかな一日が始まったと思っていた。なのに急にきな臭くなるとは一体全体どういうことだ。

 ひと口分をすくった匙を持ち上げた手は、空中で止まったまま。ふむ、とチャンジが頷いた。

「――俺がやるか」

 瞬間、ボタリと音を立てて卓子テーブルの上に、匙から粥がこぼれ落ちた。
 
 俺がやる? るの間違いではなかろうか。

「……」
「……」
「……」

 汚れた卓子を、全員が無言で見下ろす。
 無意識のうちにフェイバリットは姉妹たちを縋るように見上げた。コムジたちは互いに目を合わせた後、なんとも気の毒そうな顔になる。

「お兄様…。一つお聞きしますが、その役はチュンジ兄様では駄目なのでしょうか?」
「ああ。チュンジの不器用っぷりはお前たちも知ってるだろう? しかも奴は壊滅的に雑だ。だったら俺がやった方がいいだろう」
「まあ――それはそうですが――そのぅ心の問題といいますか――」 
「はあ? 心の問題? 手や足腰を動かすだけだ。別に厳しい鍛錬を受けさせるわけじゃねえだろうが」
「いえ――きっと気持ち的には修行みたいなものだと思いますが――」

 コムジたちは控えめに抗議してくれている。
 じわぁっと滲む視界をぐっとこらえる。危うく飛びかけた意識を懸命に手繰り寄せ、フェイバリットは以前交わした猫との会話を必死で思い出した。

 ――君が自分の気持ちを説明するのをサボった分、あいつらは良かれと思たことをアレコレやっただけ。
 
 そうだ。そう言っていた。きっとこれが彼が導き出したなのだ。だからけして悪意あってのことではない――はずだ。

(あいつらは別に鬼やない)

 うん。この人は鬼じゃない。鬼じゃないはず――。

「…鬼――」

 シンと部屋が静まり返った。
 不思議に思ってフェイバリットはそろりと顔を上げる。そこにはポカンと口を開いたチャンジの顔があった。

 常に鋭い眼差しが、キョトンと真ん丸になっている。ついぞ見たことのない無防備な表情だ。

「おま…『鬼』って…それ、まさか、俺のこと…か?」

 ひょっとして口から洩れてた?? はっとして口もとを押さえる。かえってそれが答えになってしまうとはこの時全く思いもしなかった。

 呆然と棒立ちになるチャンジをよそに、双子の姉妹は無言で袖で顔を押さえる。それだけでは十分ではなかったのだろう。

 さらにそれぞれ明後日の方向に、そっと体ごと向いてしまう。気のせいか、その肩が微妙に震えている。

「ふ……鬼」
「……鬼って…ふ、ふ」

 布ごしに、堪えるような忍び笑いがわずかに漏れ聞こえる。チャンジを見れば、まだ固まったままだ。

 フェイバリットはばつが悪い思いで、ひたすら首を竦めることしか出来なかった。



「でかした――よおうた!」

 まるで我がごとのように誇らしげに、黒猫がえへんと胸を張る。

 相変わらず、黒猫はこうしてフェイバリットの元を訪れて話し相手になってくれる。

 現れるのは決まって誰もいない時だけ。それもほんの少しだけ顔を出し、またどこかに去っていく。

 だがたとえ短い時間でも日に何度となく現れて、あれこれと話して聞かせてくれる。今ではこの猫の訪れを今か今かと心待ちにする自分を、はっきり自覚している。
 
「ほ・褒めないで――そんなつもり、全くなかったのに…」

 結果的に、相手を鬼呼ばわりしたことには違いない。いたたまれず、フェイバリットは寝台で頭を抱えた。

 とりあえず食休みの時間で一度考えてみろと言い残し、チャンジたちは部屋を後にした。その体が斜めにかしいで見えたのは多分、見間違いではない。

「どうしよう…傷つけちゃったかな…」
「ええねんええねん。アイツが独断で事を推し進めようとしたんがそもそも悪いんや。自業自得、気にせんとき。そやけど思いもよらん相手から不意打ち食ろうて…あの取り澄ました顔がどんだけ間抜けヅラになったことやら…さぞ見ものやったやろな――。くくっ、あぁ――胸がすっとするわ」

 黒猫は喉を鳴らして笑う。ご機嫌なのか、ゴロンゴロンという猫特有の低い音が喉の奥から響いてくる。

 足もとで体を伸ばしてくつろぐ黒猫が、ふと思い出したように「そうそう」と顔を上げた。にやりと、目を細める。

「ちなみにあいつ、熊とも素手で戦えるくらいの猛者もさやねんで。そいつを一撃で沈めたんや。そやから君は今日から“竜殺し”ならぬ、“猛者殺しの英雄”っちゅうわけやな」

 なんて恐ろしく、不名誉な二つ名だ。抗議の意を込めて半目で軽く睨んでみるものの、黒猫に全くこたえた様子はない。

 再び寝台に突っ伏し、枕を抱えて深い溜め息を落とす。すると、それまで滔々と流れるようにまくし立てていた黒猫の声がぴたりと止んだ。

 耳を澄ませると、あるかなしかの足音と敷布に伝わる振動で、見えなくとも黒猫が近づいてくるのがわかる。

「…怒ったんか?」

 耳のそばで聞こえる少し高い声。
 ――そこだとばかりに片手を動かし、フェイバリットはにあるだろう猫の脚をむんずと掴んだ。

「!」

 ぱっと顔を上げると、驚きで目を真ん丸に見開く猫の顔があった。怪我をさせないよう気をつけながら、えいとその体をひっくり返す。

 思ってもみなかった反撃に、黒猫の体はあっけなく寝台に転がった。足蹴にされないよう十分気をつけて、極上の被毛に顔を寄せる。

「! ――んな?!」

 黒猫から悲鳴に似た小さな声が上がった。が、それもすぐに絶句に変わる。

 フェイバリットが無防備な腹部に顔を埋めて、胸いっぱい息を吸い込んだからだ。『猫吸い』というやつである。

「ふぉ……っ?!」

 直接頬に触れる体から、猫の緊張と共にドッドッドッという激しい鼓動が伝わってくる。お構いなしにすうはあと深呼吸を繰り返すと、思った通りいい匂いがした。

 たっぷり日射しを浴びて、たいていの猫は干したての布団の香りをまとっているものだ。もふもふの毛並みに、うっとりと目を閉じかけた――時。

「き・き・き、君なあ! 男の腹に顔を埋めるなんて…なんちゅう破廉恥な真似……っっ」

 目を上げれば、息も絶え絶えになっている黒猫と目が合う。小さな体に似合わず、どっしりと肝の座ったこの獣の、余裕を失って取り乱す姿をフェイバリットは初めて見た。

「…ええか。悪いことは言わへん。――お・俺の理性が残ってるうちにそこから離れんと…君、火傷やけどすんで…」

 とろけて潤みつつある淡緑の瞳に、羞恥とも怒りともつかないものが浮かぶ。

 あまりにも余裕のないその姿に、してやったりとフェイバリットは思わずうっすらとほくそ笑んだ――それがいけなかった。

 いつのまにか猫の耳がぺったりと後ろに倒れている。ひと目でわかる――猫が怒っているあかしだ。

 (あ、まずい)そう思った瞬間、しっかり押さえ込んだはずの獣の体が手の中でするりと動いた。

 慌てて力を込めようとするも、瞬く間に腕の戒めを抜け出して、そのしなやかな体が自由を取り戻す。

 あまりの素早い動きに目が追いつかない。かと思うと小さな顔がもう眼前に迫っていた。

(引っかかれる?!)
 
 ぎゅっと細めた視界の先に、猫の顔はなかった。直前で猫が軌道を変えたらしい。

 その顔はフェイバリットの耳のすぐそばにあった。ふわふわの被毛の感触が耳朶をくすぐる――そして。

「君、男を舐めすぎ…ほんま悪いコやなあ」

 ふうっと息を吹き込むように、低い声が耳穴に囁く。その途端、熱い吐息にぞわりと背筋を何かが駆け抜けた。

 それだけではない。あろうことか、黒猫の熱い舌が、耳朶をべろりと舐め上げたのである。

 得も言われぬ感触に、声にならない悲鳴を上げる。しかしそれでお終いとはならなかった。

 どうやら本気で黒猫を怒らせてしまったようだ。突如として、ほっそりとした娘の首筋にザラリとした猫の舌が這う。

「!」
「――お仕置きや」

 その後、どれほどフェイバリットが謝ろうと、情け容赦のないこの身繕い攻撃がしばらく続いたことは言うまでもない。
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 読んでいただき、ありがとうございます。

 春休み期間につき執筆時間を制限しておりますm(__)m
 大変申し訳ありませんが、次話の更新(毎週水曜)は一回お休みを挟みます。
 
 次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
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