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2章 異国[羈旅( きりょ)]編

2-32 歓びの里

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 ★二章最終話です。
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 反射的にランドは声の方に振り返った。すぐ背後から声がした。

 あり得ない近さだ。先ほど周囲を見回した時には人影も気配もなかった。周囲への警戒も怠らなかったはず。

 ランドは腕の中のフェイバリットを見る。痛みもそろそろ限界なのか、目を瞑ったまま、ぐったりと動かない。

 その体を抱え直して、すぐに体勢を整える。目の前には涼し気な目元をした麗人がたたずんでいた。

 濃灰に強い緑が入り混じった長い髪は、膝裏に届くほどに長い。瞳は若葉を思わせる、淡い緑色をしていた。

 男とも女とも判別のつかないほっそりとした、凹凸のない薄い肢体は、いずれの性をも感じさせなかった。

 澄んだ瞳は目の前のランドを捉えていないようで、どこか焦点が合わず、遠い眼差しをしていた。だがランドが表情を硬くすると、人間離れした美しい顔が、さも可笑し気に微笑んだ。

「――ああ、驚かせてしまったようですね。大変、失礼しました」
 謝罪を口にしているが、悪びれた様子もない。

「私は”エンジュ”と申します。この里の族長を務めています」
「……里?」

 何を言っている。ここはただの草原だ。人里などありはしない。ランドが怪訝そうに眉をひそめた時。言外の言葉をまるで見透かしたように、エンジュがくすりと小さく笑った。

「はい――ここは”歓びの里”」

 そう言った途端、その人を中心に、周囲に別の風景が広がった。
 穏やかな風。雲にけぶる白い連山。その麓には水をたたえた緑の棚田が一面に広がっている。

 棚田に注ぐ水路には、ところどころに水を送り込む水車が置かれ、からからと風に紛れて水車の回る木の音が響いてくる。

 先ほどまで辺りを覆い始めていた薄闇とは一転、春の朝のような、穏やかな日差しが視界に映る全ての緑に降り注いでいる。ランドは戸惑いながら、その風景に見入った。

「この里には”許し”がなければ何人たりとも入ることは叶いません」
「なぜ……」

 なぜ、自分たちは許されたのか。皆まで言うまでもなく、エンジュはくっと笑って言った。

「なぜ? あなた方がとてもお困りのようでしたから――特にお連れの方は」

 ちらりとフェイバリットに目をやると、さらに言を継ぐ。

「お怪我までされて、さぞお辛いでしょう。里には腕のよい治癒師もおります。どうぞ休んでおいきなさい」

 ありがたい申し出だ。この夜をどう乗り切ろうと途方に暮れていた。天の配剤というやつだろうか。

 そう思う反面、ランドは腕の中に抱えた小さな体を人の目から隠すように抱き込んで、辺りに警戒の目を向ける。

 自分の油断が今回の失態を招いた。うかうかと美味い話を鵜吞みにして、またこの娘を危険に晒すわけにはいかない。

 追い立てられて毛を逆立てる獣のように、ランドは厳しい眼差しを周囲に向ける。助けを申し出てくれた人に対して失礼だと、心によぎったものの、もうこれ以上の失態を犯したくない。

 翠玉すいぎょく色の髪を持つ麗人は、そんなランドに不快を示すどころか、好ましいものを見るように優しく眼差しを細めた。

「そう…それが正しい」
「え?」
「それでよいと言ったのです。闇雲に全てを疑ってかかれとは言いませんが、かと言って信じるにも時が必要。常に警戒心を残して置くことは大切なことですよ」

 まるでこれまでのことを見てきたような言葉にランドは困惑を隠せなかった。

「…俺たちに何が起こったのかまるでご存知のように聞こえるのですが…」

 その言葉に、エンジュはゆっくりと首を振った。

「いいえ。やけに小鳥たちが騒ぐので、来てみたらそこにあなた方がいた。それだけです。ともあれ、今のあなた方には休める場所が必要でしょう? 我々はあなた方を喜んで受け入れますよ」

 どうするかはあなた次第。エンジュはその決定をランドに委ねた。ランドはしばし考え込む。

 目の前の人物は疑ってかかるランドを不快に思うどころか、むしろ当然のことと言い切る。その上でさらに歓迎の意を示してくれた。

「…すみません…お願い、します」

 ぎこちなく言葉を紡ぐ。正解かどうかまだ迷いはある。だがランドもギリギリだった。人を一人守ることの重さに心が折れてしまいそうなほど、疲れ果てていた。

 守る相手がただの女の子ではなく、稀有な”白をまとう者”になることで、これほどまでに危険が伴うとは思わなかった。
 
 それが分かるにはランドはまだ若く、欲にまみれた人の心に巣食う、昏い闇を知らなさ過ぎた。

「あなたも、さぞ疲れたでしょう。なんと言ってもまだ若い。大きな悪意に出会ったことなど、これまでなかったのではありませんか?」

 薄い色の瞳がランドの心を探るようにじっと見つめる。少し青みがかった薄緑の瞳を見ていると、その瞳に吸い込まれるような不思議な感覚に襲われた。

 ランドは全てを見透かされてしまいそうで、居心地悪く、視線をさりげなく外した。

「あなたも…それほど年を重ねているように見えませんが」

 思春期の男にとって、若いという言葉は褒め言葉には聞こえない。むしろその逆だ。

 もしかしたら、エンジュはランドの災難をやんわりと慰めたつもりなのかもしれない。

 だがそれをそのまま素直に受け取れるほど、ランドは幼くもなかった。憎まれ口など子供っぽいことは本意ではなかったが、思わずそんなふうに返してしまう。

 それに対し、エンジュは眉ひとつ崩すことなく静かに笑んだまま。相手はこちらの言うことなど、まともに取り合ってはいない。

 それどころか歯牙にもかけていない。そのことに気づくと、ランドは悔しく思うばかりだ。

「見た目よりもずっと年を重ねているのです。あなたの周りにもそういう方がいらしたでしょう?」

 それは暗にリヴィエラのことを指しているようだった。この人はどこまでこちらのことを知っているのだろうか。ランドはわずかに目をみはる。

「それは――失礼をしました」

 ランドは素直に非礼を詫びる。そんなランドに、エンジュは笑み崩れた。その雰囲気もまた、リヴィエラと重なるものがあった。

「長く生きると、半分”人”であることを忘れてしまうのです。なのであなたのように若くまっすぐで、普通の方とお話しするのは、久しぶりに楽しい気分です」

 そう言うと、その形のいい唇にそれは美しい笑みを浮かべた。

「それでは案内しましょうか。ああ。その荷物は重いでしょう? 後で人を寄こすので、それは置いて行っても構いませんよ」

 そう言うと「私についておいでなさい」と麗人はこちらに背を向けた。その前に「そうそう」とその足がぴたりと止まった。

 その後ろ姿を、怪訝な目でランドは見る。エンジュは肩越しにランドを見ながら、浮かべた笑みを深めると、ゆっくりと口をひらいた。

「私の瞳はほぼ見えていません。ぼんやりと形が分かるぐらい―――もちろん。なので、安心なさい」
「―――!!」

 フェイバリットを抱える腕に思わず力が入った。目の前の人は、”白を纏う者神に連なる者”など知らないとそう言ったも同然なのだから。



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 読んでいただき、ありがとうございます。
 三章の前に短めの【歓びの里編】を挟みます。
 少し空きますが4/10に随時アップ予定です。
  
 また、ご訪問いただけますと幸いです。
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