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2章 異国[羈旅( きりょ)]編

2-22 そこは深い谷

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 空に雲が立ち込めている時は、夜明けを捉えることが難しい。目を覚ますと、辺りはまだ薄闇に包まれ、朝の光が地上に届くまで、いつもより時間がかかりそうだった。

 眠い目をこすりながら隣を見ると、ランドが空を見上げて光の変化をじっと見ていた。天候を読んで、問題なければ出発の準備を始めるつもりだと言う。
 
 やがて雲が晴れてくると、闇を一枚引き剥がして、辺りに光が満ちてくる。森に降る光の雰囲気が変わったのを見逃さず、ランドは体を起こした。

 朝日が昇ると一気に山は明るくなっていく。 
 上空では立ち込めていた雲が流れ、雲間には青空も見え始めた。



『世話になった――俺たちは発とうと思う』

 出発の準備を整えて、昨日の天幕へ立ち寄り、商人たちに声をかけた。

 ランドがそう伝えると、怒りんぼイルㇱカのしかめっ面が苦笑いになる。こちらの警戒がしっかり伝わっているのだろう。男は「まあ、ちょっと待ちな」と言うと、それからほどなくして準備を整えてしまった。

「山の麓に馬と荷車を置いてある。途中まで乗ってきな。昨日の鹿の駄賃だ」
 案の定の引き止めに、ランドが困った顔をしてみせる。 

『…報酬なら、昨日すでにもらっている。これ以上は――』
 ランドが断りを入れる前に、怒りんぼイルㇱカが言葉を強引に遮る。

「まあ、そうつれなくするな。見てから決めろよ」

 山を下りると、二頭の馬が木に繋がれ、大きな荷車は藪の影になるように置かれていた。幌もついた立派な荷車だ。そこに乗せてくれると怒りんぼイルㇱカは言う。

「ちょこっと地図を出してみな」
 その言葉にランドがひるんだ様子を見せると「何も取って食いやしねえよ」と言ってニヤリと笑う。

 昨日はちゃんと見ていなかったが、地図はかなり精巧なものだった。大陸を上から見た図で描かれており、そこに山や谷の地形もしっかり書き込まれている。また国や街の名前、さらに街につながる大きな街道まで記されていた。

 地図を開くと、怒りんぼイルㇱカは横に壁のように連なる山脈から少し西にずれた山を指さし「今、ここだ」と言った。

「この先――ここから一番近い大きな街を目指すなら『ナノヴァ』に向かうといい。で、そこに向かうならこの谷あいの街道を行くのが早い」

 そこまで行って「だが」と言葉を切る。ランドが問うように目を上げると男が言を継いだ。

「この地形を見ると分かるだろうが、この街道は深い谷の間を走る一本道だ――つまり逃げ場がない」
『――それは…盗賊が出る、ということだろうか?』
「常に出るってわけじゃねえ。だが、気をつけるに越したことはねえってことだ」

 情報は貴重だ。そのことを知らないランドではない。
 あえてそれをこうやって無償で差し出すことの意味を、いつまでも知らない振りは出来ない。がらりと男の声音が変わった。

「これが最後の誘いだ。俺たちの仲間にならねえか?――悪いようにはしねえ」

 怒りんぼイルㇱカはそう言うと、静かになった。強い視線がランドを射抜く。長い沈黙が続いた。フェイバリットはちらりと頭巾フードの影からそっと男たちをうかがう。

 半笑いアㇻケミナは相変わらずニヤニヤと、怖がりイシトマは黙々と荷車を藪から引き出したり、馬を荷車につなぎ直したりと忙しく作業している。

 やがて、ランドは首を振り、最後に小さく『すまない』と頭を下げた。



 「――仕方ねえ」

 その言葉を最後に、怒りんぼイルㇱカたちとは、そこで別れることになった。

 彼らもまた『ナノヴァ』に行く予定らしく、そこまで同乗していっても構わないと声をかけられた。

 しかし、振った振られた者同士が顔を突き合わせるのは――とても気まずい。というわけで、そのお誘いは丁重にお断りした。

 最後まで怒りんぼイルㇱカは苦笑しっぱなしだった。

 別れを告げた後、彼らの荷車は土煙をあげて、あっという間に遠ざかって行く。その形が見えなくなるまで見送った後、改めて二人は地図を片手に『ナノヴァ』のある方角へと目を凝らした。

 もちろん目を凝らしても街が見えるわけがない。徒歩で行けば、街はまだここから半月近くかかる場所にあるという。

 だが残る道程が分かれば、距離の遠さはさして気にならなかった。道を探し、あてもなく山野を移動する旅をしていた頃と比べると、なんと大きな前進だろう。

「残りは刻みながらだが、変幻して行こう」

 地図を睨みながら、ランドは言う。どこで水や食材を補給するかは地図から読み取れる。

 効率よくなるべく負担なく進むにはどこで休み、寝泊まりするか。今後の行路をああでもないこうでもないと組み立てるランドの眼差しは、とても真剣だ。

 しかも変幻は例の、尾白鷲が岩燕を咥えて進むという方法にするという。存外、ランドはあの方法が気に入ったらしい。

 もちろんフェイバリットに否やがあろうはずもない。尾白鷲の目線で飛ぶのは楽しいし、何より一緒の速度で空を翔けることが出来るのが――嬉しい。

 それでもフェイバリットの限界を考えると、一日の移動距離は限られてしまう。それらを踏まえても、徒歩の旅の半分でたどり着けそうだと、ランドはどんどんと計画を立てていく。

「一人で勝手に決めてしまってすまない」とランドからは謝られたが、むしろフェイバリットの方が「全部任せてしまってご免なさい」だ。

 申し訳ないが、地図を読めないフェイバリットには彼の考えに乗っかるしかなかった。本当に役に立たない。

 せめてもと、フェイバリットは岩燕に変幻した時は、少しでも疲れを癒やしてもらうべく――実際、そのくらいしか出来ることがない――その小さな黒い頭を差し出すのだった。

 幸いランドには、とても喜ばれた。内心、とても複雑なフェイバリットである。そして指で思う存分、愛でられるたびに、色々なもの――人の尊厳とか――ががっつりと目に見えて失われるような気がして、ほんの少し溜め息がこぼれた。

 何度かの行程を経て、ようやく二人はにたどり着いた。

 怒りんぼイルㇱカが”深い谷の間を走る一本道”と称した街道は、地図で見ると『赤い崖』という名前がついていた。この谷を抜ければ、いよいよナノヴァはすぐそこと言えるほどに近くなる。

 実際にその場所を目にして、二人はひと目でその名前の由来を理解した。

「――。本当に真っ赤だ!」
「だな」

 目の前には向かい合うようにそびえ立つ、巨大な絶壁に挟まれた大峡谷がある。
 その大きさもさることながら、思わず息を飲んだのは――岩肌の色。

 青い空に映える、血のように赤い絶壁は、見る者の視線を釘つけにして離さないほど鮮やかで、フェイバリットはしばし言葉を失って、その風景に見入ってしまう。

 辺りの静けさとも相まって、この世のものではないような風景が、二人の目の前に広がっていた。

 てっぺんを見上げると、首がのけぞってしまう。ずれかけた外套を、背後からランドがそっと、かぶせ直してくれた。

「誰もいないみたいだが、気をつけてくれ」
「う、うん…ごめんね。ありがとう」
「あと――口、き過ぎだぞ…いちおうなんだから」

 そっと耳打ちする。耳をかすめる男の息がくすぐったくて、思わず身をすくめてしまう。耳を押さえながらフェイバリットは横目でランドを軽く睨む。

 改めて前方を見ると、この場所を抜けるには、道は一つだけ。つまり、切り立った二つの崖の間に細長く伸びる谷底を歩いて行くしかない。

 二つの絶壁の間の道――峡谷の底は、ほぼ平坦な砂地だった。道自体は歩きやすそうだ。幅は怒りんぼイルㇱカたちの荷車だと二台がすれ違うのはかなり厳しい広さだろう。

 両側から迫る岩の壁は空に向かうほど狭くなっている。きっと見上げれば、岩の形に切り取られたいびつな形の空が頭上に見えるに違いない。

―――この街道は深い谷の間を走る一本道だ――つまり逃げ場がない

 怒りんぼイルㇱカの助言が脳裡によみがえる。
 脇道のない一本道は、前後を塞がれればどこにも逃げられない。

 変幻すれば縦、つまり空へと逃れることも出来そうだが、その手段がない者にとっては盗賊に遭わない幸運を願いながらの道のりになるに違いない。

 進む道はひとつだが、ランドとフェイバリットには変幻という移動手段がある。乾燥した大地での変幻は呪力をかなり消耗するが、無理をすれば変幻して一気にこの谷を越えることもできる。

 呪力の多いランドにはさしたる問題ではないが、問題はフェイバリットの方だった。陸路、はたまた空路―――どちらを選ぶべきか。

「どうする?」

 フェイバリットは隣のランドを見上げて言った。ちらりと視線を返すだけで、ランドは答えない。彼もまた迷っているようだった。

 盗賊と鉢合わせすることを回避するなら、変幻して一気にこの場所を越えた方がよっぽど安全に違いない。

 これまでも何度となく大きな川や谷をこの翼で越えてきた――だからと言って今回もそれが正解だとは限らない。

 きつく眉根を寄せて考え込むランドに、フェイバリットは小さく「ランド」と呼びかける。我に返ったランドが目を向ける。

「一緒に行くことしか出来ないけど、ランドと一緒なら怖くないから」

 何も出来ない自分には、そう言うのが精いっぱい。自分の選択を重く感じて欲しくない。これは二人の意思なのだと伝わって欲しかった。

 励ますつもりで手を伸ばし、ランドのそれに重ね合わせると、きゅっと力を入れて握り込む。

 恥ずかしいのを誤魔化して、ふふっと意味もなく笑う。ランドが驚いたように何度も目をまたたかせて――その後、ふわりと笑った。

 リヴィエラの、人外の美貌を見慣れ過ぎていて意識しなかったが、ランドの男らしいながらも甘さを残した顔もかなり整っている。

 今さらながらにそのことに気づいて、フェイバリットは頬にほんのりと熱が帯びるのを感じた。

「うん―― 一緒に行こう」

 繋いだ手が、フェイバリットの手を力強く握り返した。
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