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1章はじまりの場所[ヘイルの里]編

17 別離1

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 その日の朝はいつもとは違い、居間にリヴィエラの姿がなかった。代わりにリヴィエラが作ったらしい握り飯と、置き手紙があった。

 手紙には『起きたらこの場所に来るように』と書かれてあり、場所の説明、そして『移動の際、変幻の術を許可します』と締めくくられていた。イレインはそれが今日の学びの場所だと深く考えず、すんなりと受け入れた。
 
 空に駆け上がった岩燕いわつばめは、その場で羽ばたたきながら首を巡らせる。渡り鳥は優れた方向感覚を持つ。人にはない『磁覚じかく』を備えているからだ。

 大地の磁場を感知できる能力を『磁覚』という。
 長距離を移動する渡り鳥が、目印もない海の上を目的の方向に向かって迷わず飛び続けることができるのはこの磁覚のおかげだ。

 ちなみにこの能力は、渡り鳥だけでなくミツバチやサケなど他の生き物にも備わっている。
 イレインは置き手紙に記された場所を脳裡に思い浮かべると、勢いよく空を翔けた。


 変幻を解いて地上に降り立ったイレインは戸惑っていた。そこは、あの洞穴の前だったからだ。学びを共にする同門たちの姿も見当たらない。

 不安な気持ちをなだめながら、イレインはリヴィエラを探して辺りを見回した。そして洞穴から少し離れた木立の間にひっそりと立ち並ぶ大勢の人影に気づいてギョッとする。

 上空からだと気づかなかったが、その人の数と、何よりその出で立ちに、イレインは小さく息を呑んだ。全員が白一色をまとっていた。男は白い三角の紙で顔を覆い、女は白い木綿ゆうの布を頭からかぶっている。そして誰一人として口をひらかない。

 全員が顔を覆っているので、一人一人はっきりと判別がつかないが、おそらく里の民ほぼ全員がここにつどっているのだろう。

 …ずっと小さい頃、こんな風に皆が白い服を着て集まっていたのを見たことがある。その時のことを思い出しかけた時。

「イレイン」
 物思いにふけるイレインの背後から名を呼ばれた。振り返ると。
「リヴィエラ様…」
 そこには、いつもと変わりない純白の長袍ながぎに身を包むリヴィエラが佇んでいた。イレインはその姿に少しホッとする。

「よく眠れましたか?」
「あ、はい、あの」
 どうして皆がここに集まっているのか。これから何が始まるのだろう。落ち着かない様子で周囲を見回すイレインを、リヴィエラが呼んだ。
「イレイン、ここに」
「………はい」

 言われるまま、イレインは師の前に進み出る。
「この場所を覚えていますね?」
 イレインは黙って頷いた。

蛇竜ヴィヴィルは、もう去りました」
 “蛇竜ヴィヴィル”という言葉に心臓が小さく跳ねる。洞穴で味わった恐怖は忘れたくても到底忘れられるものではなかった。今はいないと言われても、勝手に体が強張ってしまう。

「今は、この奥に不思議な力を感じます。イレイン…あなたには、もうわかっているのではないですか?」
 穏やかな蒼い双眸がイレインを問うように見る。イレインは答えなかった。

「いいお天気ですね」そう言ってリヴィエラは目を細めてゆっくりと空を仰ぐ。
 先ほど鳥になって空を舞ったばかりだ。気持ちのいい朝だったのは体が覚えている。
 天を見上げる横顔はどこまでも静かだった。
「リヴィエラ様……?」

 ゆっくりと、横顔がイレインを見た。
「旅立ちの日にふさわしい空です――あなたの旅立ちの日は、晴れた日がいいと思っていましたから」

 唐突によみがえる。皆が着ていた白い服――あれを見たのは里のどこかの家で誰かが亡くなった時だった。幼かった自分は遠くからぼんやりとそれを眺めていた。

 後でリヴィエラからそれが死者を弔うための葬礼――だと教わったのではなかったか。

「八年前のこと、全て思い出しましたか? あれは、あなたをあの場所に呼び寄せ、封じられた記憶を解き放ち、御印みしるしを取り戻させた。…それはつまり、あなたを迎える準備が整ったということです――この先に道が開かれていることに……本当はもう気づいているのでしょう?」
 頭の中が真っ白になった。と同時に、何かが足許に忍び寄ってくるような、どこか落ち着かない気持ちを感じていたことを思い出す。

 『にえ
 頭の中にその言葉が突然、浮かんだ。封じが解かれたせいか、こうやって昔の記憶が不意によみがえることに戸惑いを隠せない。

「………“にえの娘”……だから?」
 里で初めてその言葉を聞いた。あれはいつだったのか、誰が言ったかも覚えていないが、はっきりと聞こえた。あの時は、その言葉の意味も分からず、それが自分に向けられたものだとも思わなかった。

 そこでピタリと思考が止まった――ああ、そうか。目の中に涙が盛り上がるのが分かった。顔色を失って俯くイレインにリヴィエラがきっぱりと首を振ってみせる。
「あなたは贄などではありません」

「…じゃあ、どうして…ですか?」
「あなたは蛇竜ビィビィルの――唯一無二。そう生まれてきたのです」
「は…? そんなわけないじゃないですか? 私ですよ?」
 そんなことあり得ない。自分はただの里人だ。いいやそれどころか孤児だ。呪術もろくに出来ない落ちこぼれ。神の唯一無二など――何かの間違いだ。否、間違いであって欲しい。

 イレインの心を読んだように、リヴィエラが苦し気に目を歪める。
「あなたは親に捨てられた可哀そうな子どもなんかじゃない……私があなたの記憶を封じてしまったばかりに…ツラい想いをさせてしまいましたね」

 ”絶えずの風穴”の風が止まった時、里は大騒ぎになった。山の禁に触れた者がいる。だから神の怒りに触れたのだと言い出す者さえいたとも。イレインもそのことを後になってリヴィエラから聞かされた。

「でも…この不吉な痣は…」
 イレインは知らず知らずのうちに左腕を押さえていた。涙をにじませるその瞳には到底納得できないという色がはっきりと浮かんでいる。

「あなたの御印みしるしは、罪人が負う刻印とは全く別物です。もちろん呪いなどでもありません」
 「けして」と強くリヴィエラは断じた。

 イレインは途方に暮れた。行きたくない。嘘だと叫んでしまいたい。つい昨日まで自分は皆と同じただの里の民の一人だったのに。

 なのにここに着いてからイレインの足許で感じるこの風は? 足を引きずるような強さで洞穴に向かって逆巻さかまくこの風は…? 皆は気づかないのだろうか?
 とうに退路は塞がれている。イレインに許されるのは洞穴の中に進むことだけ――分かっていて。けれど、気づきたくなかった。

 朝日が眩しく差し込むあの家で、リヴィエラと共に食事をした昨日の朝が。
 一緒に食べた今年初のモミジイチゴが。
 盤上遊戯ゲームをして夜更かししたあの夜も。

 あれが最後だなんて――思いたくなかった。
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