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第三部

二十五話 迷子のお知らせ 後

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 地面が沈んだような感覚の後、一瞬の浮遊感。
 次の瞬間、森の外れの原っぱが見えたと思ったら、再度転移したのはそこではなくどこかの森の中だった。禁域の森ではないかもしれない、と思ったのはすぐ目と鼻の先に獰猛な顔をしたフオルンがいたからだ。いつかルウェインと一緒に倒した記憶がある、巨大な木の魔物。  
 
 あのクソ神、眠くて機嫌が悪いのか知らねぇが、魔物の前に俺を転移させるなんていい度胸じゃねーか。そっちがやる気なら、こっちにだって考えがあるからな。

 そう頭の中で蛇神に悪態をついた俺は、魔物の前で杖を構える。俺に向かって唸り声をあげながら、魔物は太い枝のような腕を振り回してきた。フオルンの攻撃を避けて横に跳び、しゃがんで地面に手をつく。
 土魔法で魔物の動きを止めようと思ったとき、突然フオルンの周りにブン、と白い光の壁が現れた。それは木の魔物を瞬く間に囲い込み、四角い箱のような形になると魔物を中に閉じ込めてしまった。フオルンは猛烈に暴れているが、箱を壊せずに中から猛った唸り声を上げている。

「え?」

 地面にしゃがんだまま辺りを見回すと、背後にあった木々の間から、一人の男性が現れた。

「大丈夫ですか」

 落ち着いた低い声音でそう声をかけてきたのは、長く編んだ金髪に蜂蜜のような艶のある茶色の瞳を持つ、綺麗な容貌の細身の男性だった。俺よりも一回りは年上に見えるその人の顔に覚えはない。
 魔物を前にしても全く焦らずに穏やかな表情で歩み寄ってくる彼は、近くで見ると彫刻のように整った顔をしていた。均整がとれた顔というなら、グウェンだって相当な男前だが、グウェンの場合は戦士とか英雄のような雄々しい面立ちをしている。対して目の前の男性は、言うならば天使か詩人と表現されそうな、柔らかな線の美形だった。

「お怪我は」
「あ……ないです。ありがとうございました」

 突然現れた謎の男性に呆気に取られながらもお礼を言うと、彼は形のいい唇を品よく緩めて微笑んだ。
 俺は目の前に立つイケメンの姿を観察する。
 明るい金髪を緩く編んで左肩に垂らし、神官の法衣のような服を着ている。真珠色で光沢のある衣装は、裾や袖にひらひらした装飾と刺繍がついていて、帝国の神官たちが着ているシンプルな法衣ではない。襟元に金色の小さな記章がついている。彼は自分の背丈と同じくらいの長さがある銀色の細い錫杖を手に携えていた。

 誰なんだ。
 見た限り神官っぽいけど、もしかしたら帝国の人間じゃないかもしれない。

 俺がじっと見つめていると、男性は小さく首を傾げた。

「今、魔物の前に突然現れたように見えましたが、失礼ですが、あなたは?」

 その問いに俺はハッとして、不躾な視線を送っていたことを誤魔化すように慌てて頭を下げた。

「ちょっとした手違いで転移してきたんです。驚かせてしまいすみません。私は南領を治めるエリス公爵家のレイナルドと申します」

 着ているものからしても、この男性は明らかに身分が高いだろう。
 ちゃんと名乗って自分の身分を明かすと、彼は俺を見下ろして目元に柔らかな皺を寄せ微笑んだ。

「はじめまして、レイナルド様。私はシスト・フィオーリと申します。ナミア教国の司教です」
「ナミア教国……?」

 そう言われて驚いた。

 見覚えのない衣装だと思ったら、外国の司教だったのか。
 よく見ると襟元についた記章には、小さな三角形が頂点同士を合わせたような紋様が描かれている。昔本で見た気がするが、あれは確かにナミア教国の教会の紋章を簡略化した記号だったな。

 ナミア教国といえば、大陸における各国の教会の総本山である。
 女神信仰が一般的なこの世界の人々が信仰する神は、この世を創造した女神様だけだ。前世のように色んな宗教が乱立していたり、国によって宗教が違うなんていうことはない。
 だからわざわざ宗教に名前はない。あえて言うなら、総本山であるナミア教国から名前をとってナミア教ということになるのかもしれないが、デルトフィアの人々はそこの体裁はあまり気にしていない。

 そもそもデルトフィアではどちらかというと、帝国に封印結界を作り悪魔を退けた大聖女様の方に、人々の尊敬と信仰心が集まっている。女神様よりも身近に感じて祈りやすいのか、教会にいる神官達すらみんな聖女様贔屓だ。
 その状況は多分、ラムル神聖帝国も同じで、あそこは魔の虚を封じた初代皇帝に国民からの尊崇が寄せられている。

 つまり、帝国においては教会の総本山であるナミア教国の影は薄い。デルトフィアからだと北領のフォンフリーゼ公爵領の最北に位置する山脈を越えて、さらに北に進まなければたどり着かない遠い国だしな。
 とは言っても総本山の司教が来るということは、デルトフィアの教会としては稀な事態であるはずだし、神官長たちは丁重にもてなしていることだろう。

「ナミア教国から、司教様がわざわざお見えになっているんですね」
「招魂祭の季節ですから、祈りを捧げるために視察を兼ねて訪問しております」
「あ、なるほど、招魂祭で。でもこれまでナミア教国から司教様が直接お越しになっていた覚えはないのですが」

 今度は俺が首を傾けた。
 イケメン司教の立ち振る舞いはどこかの上級神官とは違い、いたって穏やかだからつい俺も気安く話しかけてしまう。彼は俺の疑問に微笑んで答えてくれた。

「いえ、今年は特別なんです。先日、帝国において封印結界が襲撃される事件があったと聞きました。しかもその首謀者は四大公爵のお一人であったとか。教皇さまからデルトフィアの様子を見てくるようにと申し渡されまして、今回私が参ったという次第です」

 俺が公爵家の人間だと明かしたからか、シスト司教は包み隠さず話してくれる。

「帝国の封印結界が破られると大陸の国々はあまねく危険にさらされますから、防衛は万全なのかと教皇さまが心配されておりまして」
「ああ、そういうことですね」

 納得して頷いた。
 ルロイ神官長がどの程度詳しく報告したのかはわからないが、事件の後バレンダール公爵が逃走したという事実もあったから、さすがにあの件を国内でもみ消したりはしなかったようだ。王宮の悪魔については報告したかどうか怪しいが、俺が何か言って藪蛇になってもいけないのでそれに関しては知らないフリをしよう。
 少なくとも封印結界が襲撃された、という事実はナミア教国に報告されたようだ。不安を感じた総本山の教国から司教が様子を見に来たということらしい。

「たまたま手が空いていた私に行ってくるようにと命が与えられたのですが、以前からデルトフィアには一度来てみたいと思っていたので幸運でした」

 微笑んだシスト司教に相槌を打とうとしたとき、さっき彼が現れた方向から何人かの神官がバタバタと走ってきた。

「フィオーリ司教様! 森の中は危険ですから、お一人で出歩かれないでください!」

 先頭にいた神官がシスト司教の姿を見つけて大声を上げた。後に続いてくる数人も、皆見慣れたデルトフィアの神官服を着ている。

「ああ、すみません。森を視察していたら魔物の声が聞こえたので様子を見に来てしまいました。トロンの森は神殿の近くですが、本当に魔物がまだ多くいるんですね。驚きました」
「これでも一時期よりは随分少なくなっております。近衛騎士団も定期的に巡回しておりますから、ご心配には及びません。さぁ神殿にお戻りください」
「わかりました。そんなにご心配いただなくとも、私も司教の端くれですから、結界術は心得ておりますよ。しかし皆さんに心配をかけてしまったのでしたら、申し訳ないことをしました」

 すまなそうな顔になったシスト司教が上級神官に促されるままに神官たちに歩み寄っていく。話の流れでわかったが、ここはトロンの森だったらしい。どおりでフオルンが出たと思った。
 神官達は俺の傍で巨大な魔物が結界に捕われているのを見て驚いていたが、すぐに顔を顰めて司教の周りに集まった。

「これは私たちが駆除いたしますから、司教様はお戻りを」
「ええ。そうしましょう」

 苦笑いしながら頷いたシスト司教は、去り際に俺を振り返った。

「それではレイナルド様、私はこれで失礼します」
「はい。助けていただいてありがとうございました。えっと、必要はないと思いますが、デルトフィアで私にできることがあればお声かけください」

 一応助けてもらったし、相手は他国の司教だしと思って社交辞令のつもりで声をかけたら、彼は嬉しそうに口元を綻ばせた。

「それはありがたいです。帝国に来るのは初めてなので、右も左もわからないものですから。今度南領を訪ねるときはご連絡いたします」
「あ、はい」

 柔和な顔で微笑んだ彼に俺は少し面食らいながら首肯した。司教も社交辞令だとは思うが、もし連絡が来たら街の案内くらいは引き受けよう。
 ルロイ公爵領の神官たちの中では、俺は過去にシスター向けの膝サポーターを売り捌いたエリス公爵家の問題児として名を馳せている。彼らからは『この男がなぜここに?』という目で見られたが、俺はお得意のへらっとした笑みを浮かべて首を傾げておいた。

 シスト司教が神官達と一緒に去ってから、俺はどうやって実家に戻るかと考えて、グウェンの懐中時計で彼の屋敷に転移することを思いついた。ちょうどそろそろ会いに行こうと思っていた。グウェンの様子を見てから実家に帰ろう。
 彼が既に騎士団の仕事を再開しているなら、まだ昼だから屋敷にはいないかもしれないけど、と思いながら上着の内ポケットから時計を出したとき、ふと頭上に気配がした。見上げると手紙蝶が一通飛んでくる。

 あれは、ウィルの手紙蝶だな。
 色は赤。特急便だ。

「どうしたんだろう」

 俺の手元にひゅーんと飛んできた蝶を掴まえて、中を開く。内容を確認した瞬間、ハッとした。

『マーサさんからご連絡がありました。グウェンドルフ様の魔力暴走が始まったようです』

 ウィルの几帳面な字で走り書きされたそれを読んで、俺はぎゅっと唇を噛んだ。

 あいつ。
 だから魔力暴走が始まったら、呼べって言ったのに。

 右耳のピアスについた結晶石からは何の反応もない。
 俺は取り出した懐中時計に迷わず精霊力を込め、フォンフリーゼ公爵邸に転移した。
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