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第二部

六十二話 二人の舞姫の物語 前③

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 彼女のため息に同調して俺も大きく息を吐いた。
 もう夜も遅くなってしまった。ポケットから懐中時計を取り出して時間を確かめる。
 俺の家の懐中時計の方は残念ながら池の水に浸かったせいで止まってしまったので、取り出したのはグウェンからもらった方だ。

「あ、かわいいですね。犬?」
「狼だよ」

 時計についた狼のチャームを見てライラが顔を綻ばせる。

「見てもいいですか? 私そういうの好きなんです」
「うん、もちろん」

 ライラに時計を差し出して手を前に出した時、頭の上でメルが小さく「ぴっ」と鳴いた。

 どうした? と思った時には、後ろから素早く飛んできた何かに手に持っていた時計を掠め取られていた。

「え?!」
「きゃっ」

 ライラも驚いて水路の脇に降り立った小柄な動物を見る。

 あの猿だった。
 昨日下の宮殿で俺の時計を盗んだ。

「あっこらお前また!」

 猿は俺から盗った懐中時計を手に持ってカチャカチャ振っている。
 俺はそれを見て頭から血の気が引いた。

「ちょっと、それは本当に困る! 返して!」

 慌てて猿に手を伸ばすと、子猿は俺の手を掻い潜ってぴょーんと飛び上がる。
 そのまま水路の反対側に降り立つと、俺の方を見て首を傾げた。

「キ?」
「キ? じゃなくて、お願いだから返して!」

 俺の家の懐中時計もまずいが、グウェンの家の時計は余計にまずい。あれにはフォンフリーゼ公爵邸に転移する魔法陣も描かれている。なによりあれがあるから俺はまだグウェンのところに帰れると自分に言い聞かせているのに、盗られたら困る。

 子猿はじっと俺の顔を見ていたが、俺の懇願する声を聞いたあとで尻尾をゆらゆらと振った。
 まるでまたね、と言うみたいに。

「ちょっと!」
「キキー!」

 そう鳴くと、猿はまたぴょーんと飛び上がって木の上に乗り、そのまま夜の闇の中にガサッと消えてしまった。

「嘘だろ?! 泥棒!!」

 驚愕した俺は叫び声をあげる。

 あれが無くなるなんてヤバすぎる。
 グウェンになんて言って謝ったらいいんだ。

「追いかけましょう」

 俺の悲痛な声を聞いたライラがすぐさま立ち上がり、水路に沿って猿が消えた方へ駆け出した。俺もすぐに彼女の後を追う。


 子猿の木を伝う音はすぐに聞こえなくなってしまい、俺とライラはあっという間に猿を見失ってしまった。

「どこに行っちゃったんでしょう。なんでこんなところに猿が?」
「多分、あれはイラムの下層にいる猿だよ。誰かが飼ってるんだと思う。……どこに持っていったんだろう。ヤバいな」

 また昨日と同じようにあの変な宝物庫に持っていかれたら厄介だ。昨日の鏡のある廊下への道はもう覚えていない。
 
 うう、グウェンに怒られるネタが着実に増えてる……。

「下にいた猿って、でもどうやってここに来たんでしょうか」

 ライラが最もな疑問を口にして、俺もそういえばそうだなと思った。

 マスルールがわざわざ猿を鈴園に持ち込むはずがないし、アシュラフ皇帝はもっとないだろう。
 それならば、一体誰が?

 そう思った時、果樹園の中から小さな声が聞こえた。
 ライラと共にその声の方を振り返る。少し怯えたライラを身体の後ろに隠して、草を踏む軽い足音に耳をすませた。

「……キール? シャキール、どこ?」

 そう言って小さな高い声が聞こえた後で、その声の主はゆっくり木々の間から姿を現した。

「あれ?」

 小さなその身体が俺とライラを見つけてびくっと硬直する。

「ひゃっ、ごめんなさい!」
「あっちょっと待って! 逃げないで! 君あの猿の飼い主?」 

 慌てて後ろに下がって隠れようとした小さな男の子を呼び止めた。

 その子は俺の声にびくっとしながらも動きを止める。
 月明かりでしか見えないが、白っぽい髪の毛に大きな目をした整った顔立ちの美少年だ。歳は多分ウィルと同じくらいか少し下だろう。ゆったりした民族衣装は寝巻きなのか生地が薄そうだったが光沢のある絹で、かなり質は良さそうだった。
 イラムの中にいて、しかも鈴園にまで入り込んでいるということは、この少年の正体は考えられる限り一人しかいない。

「アルフ殿下……?」

 ライラが驚いた顔で俺よりも先にその名前を口に出した。
 そう呼ばれた少年は目を大きく見開いて、おずおずと前に進み出てくる。

 そうだ。確か皇帝の弟はアルフという名前だった。広間に集められた女の子達がそんな名前を口に出していたな。

「僕の名前を知ってるの?」
「アシュラフ陛下の弟様ですよね。どうして鈴園に?」

 歳の近いライラに話しかけられて少しほっとしたのか、美少年はもじもじしてから手を後ろに回して軽く俯いた。

「ごめんなさい。鈴園ってどんなところか気になって、こっそり上がってきちゃったんです」
「あの子猿は殿下のペットですか?」
「うん、シャキールは、叔父様にもらったの。でも悪戯好きでしょっちゅう脱走してる」

 つまり、この子はこっそりイラムの一層から鈴園に上がってきたのか。皇帝の親兄弟なら鐘の魔法陣を起動できるはずだから、一人でここにいてもおかしくはない。
 あの悪魔みたいな皇帝の弟であることが信じられないくらい純朴そうな王弟殿下だ。

「お姉さんとお兄さんは何て名前なんですか」
「俺はレイといいます」
「私はライラです」
「レイさんもライラさんも、兄上の鈴園に入ってるの?」

 ライラのことが気になるのか、恥ずかしそうにちらちらと彼女を見ながらアルフ殿下が首を傾げる。

「そうです」
「じゃあ、二人とも兄上のお嫁さんになるってこと?」
「「なりません」」

 即座に否定する声がライラと被った。

 目をパチパチさせて俺たちを見上げたアルフ殿下を見て、心の中で俺はどう見ても男だろう。そこに違和感はないのか。とツッコミを入れた。
 彼は少し残念そうな顔をしてから、また手を後ろに回して組んだ。

「なんだ。鈴園にいる人はみんなお嫁さんになるんじゃないんだ。僕にも姉上ができるのかと思ったのに」
「殿下はお姉さんがほしいんですか?」

 そう聞くと、アルフ殿下は恥ずかしそうに笑った。

「はい。兄上はすごい方だから、お仕事もいっぱいあって忙しそうだし、姉上ができれば僕と遊んでくれるかなって」

 はにかむような顔になったアルフ殿下を、俺はなんともいえない気持ちで眺めた。
 皇帝を慕っているような言い方をするところを見ると、知らないんだろうか。アシュラフ皇帝が最近人が変わったということを。

「殿下はアシュラフ陛下と最近話をされましたか?」

 俺がそう聞くと、彼はきょとんとした顔をして首を横に振った。

「何故かは分からないけど、少し前からみんな僕に兄上とはしばらく話さないようにって言うんです。確かに兄上は最近ずっとどこかに出掛けていて、僕とは遊んでくれなくなりました。落ち込んでいたら叔父上が寂しくないようにってシャキールをくれたんです」

 やはり、この少年はアシュラフ皇帝とは最近関わっていないらしい。そこは周囲も賢明な判断だったな。あの皇帝は子供相手にも容赦なく平手打ちとかしそうだし。

「僕は最近までずっとお祖父様の実家にいたんだけど、戻ってきたらお祖父様もずっと難しい顔で色んな人と話しこんでいて……兄上に何かあったんですか?」
「いえ……それは俺も知りたいと思ってるんですけど……。アルフ殿下、アシュラフ陛下と話すなと言われ始めたのはいつ頃でしたか」
「ええっと、多分、三、四ヶ月前だったと思います。兄上は、変わっちゃったんですか。あんなにお優しかったのに」

 不安そうな顔をして見上げてくるアルフ殿下に、俺はなんと答えたらいいものかと悩んだ。
 この子は皇族にかけられた呪いのことを既に知っているんだろうか。
 そもそも俺は以前の皇帝の人となりを知らないから、説明しようにも何も語れる内容がないんだよな。話せるのは今日ロシアンルーレットをやらされたことと、池に落とされたことくらいで、そんなのとてもじゃないけどこの純粋そうな子には話せない。

「俺たちもここには来たばかりなので、陛下のことはよく知らないんです。お力になれなくてすいません。あの、さっき子猿に俺の懐中時計を盗られてしまって、返してほしいんですけど呼び戻してもらえますか?」
「え?! シャキールが盗ったの? ごめんなさい」

 誤魔化すみたいで申し訳ないなと思いながらもお茶を濁したような返事をして子猿のことを聞くと、アルフ殿下は慌てて首にかけた小さな笛をピーと鳴らした。しかし、子猿は戻って来ない。

「シャキールは綺麗なものとか、貴金属や宝石が大好きなんです。でもなかなか僕の言うことは聞いてくれなくて……ごめんなさい。きっとそのうち帰ってくるので、必ず返します」

 申し訳なさそうな顔をした少年に文句を言う訳にもいかず、俺はがっくり肩を落として猿が消えた木々の闇を見つめた。
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