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第一部

番外編 ルネ・マリオールの失恋 前②

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 私は周囲の令嬢達と同じように、まだ呆気に取られていた。
 そして彼女がグウェンドルフ様の顔見知りだったと知って驚いていた。彼は女性の噂は何一つ聞かない方だったのに、彼女は何なのだろう。もしかしてグウェンドルフ様は、可愛いというよりも、ああいうシックで落ち着いた雰囲気の女性がタイプなのかしら。

 でも、私だって負けられない。

 グウェンドルフ様にお会いしたくて今日だって社交パーティーに参加していたのだ。ちゃんとお話しして私のことを分かってもらえれば、きっと私の魅力に気付いてくれるはず。
 だからグウェンドルフ様があの女性とどういう関係なのか、まずしっかり把握しなければ。
 私は自分に気合を入れて、扉に向かうと二人の後を追いかけた。




 人気のない長い廊下の隅。
 片側に大きな出窓が沢山並んだ洒落たデザインの大理石の廊下は、ところどころに庭に出るためのガラスの扉が造られている。賑やかな会場から離れると灯りも少なく、外からの月明かりが差し込むだけで夜は薄暗い。

 ホールからだいぶ離れて庭の方まで回り込んだ廊下の端まで、私はグウェンドルフ様を追って行った。
 彼の背中が見えるまで追いつくと、グウェンドルフ様は既に帽子の彼女を捕まえていて、その廊下の出窓に面した壁際に彼女を追い込むところだった。静かな廊下に二人の足音が響く。
 私は足音を立てないようにそっと靴を脱ぐと、遠くから摺り足で二人に近づき、途中でちょうど開いたままのリネン室の扉を見つけてその暗い部屋の中に滑り込んだ。半分くらい外開きに開いた扉に隠れてそっと顔だけ出すと、二人の様子が横から見える。二人ともお互いに注目していて、多分私には気づいていない。
 グウェンドルフ様は無造作に靴を投げ捨てると、いささか乱暴な手つきで彼女の大きな黒い帽子を取り払った。
 帽子の下から現れたのは綺麗な顔だった。どこか中性的な、女性にしては少し切長な目の。

「君は、本当にこんなところで何をしている」
「いや、あの、ちょっと待って。俺お前に会うのとか想定外で」

 俺?

 やたら声が低いと思った。そうやって見ると、確かに彼女は男だった。二人ともそんなに大きな声量ではないけれど、静かな廊下には響いて私がいるところにも声が聞こえた。
 困り顔の彼はグウェンドルフ様が取った帽子を取り返して顔を埋めた。

「帰ったら説明するから今は見逃して。ほんと恥ずかしいから、ほんとに見ないで」

 耳まで赤くなった彼が帽子に隠れると、グウェンドルフ様は眉間に皺を寄せてまたその帽子を奪い取って床に投げた。

「ちょっ、返して」

 拾おうと手を伸ばした彼の二の腕を掴み、グウェンドルフ様は彼を後ろの壁に押しつけた。もう片方の手で彼の顎を掴み、口が触れてしまいそうなほど顔を近付ける。腰に膨らみがあるドレスのせいで、壁に背中がついた彼の方はのけぞるような体勢になっていた。

「う……これキツ」
「何をしているのか、話しなさい」
「……あう……」

 情けなく眉尻を下げた彼が、空中に眼を泳がせて伏せる。

「ルウェインとソフィアちゃんの商会の新商品の宣伝活動で……」
「なぜこんな格好で」
「……オルタンシアに魔道機関車のときの賠償責任だって。ラケイン卿って人に試供品渡して話題を作って来いって」

 ぼそぼそと言う彼を至近距離で見つめるグウェンドルフ様は、それを聞いて眉間に皺を寄せたまま大きくため息をついた。そして次の瞬間そのまま唇で彼の口を塞いだ。

「んっ」

 驚いた彼が掴まれていない方の腕を伸ばしたが、グウェンドルフ様は顎から離した手でその手首を掴むと壁に押し付けた。
 彼がグウェンドルフ様にキスされているのを、私は目を見開いて呆然と見ていた。

「んっ、んん」

 彼は最初抵抗してグウェンドルフ様の手から腕を引き抜こうとしていたが、しばらく攻防した後敵わないと諦めたのかキスを受け入れて身体から力を抜いた。私が身を潜めたところにまで、深く舌を合わせるような二人の息づかいが聞こえてくる。
 私は呆然としたまま自分の顔が熱くなってくるのを感じた。

「ん……あっ」

 壁に押し付けられた彼の背中がずる、と滑って下がる。グウェンドルフ様は掴んでいた二の腕から手を離して彼の腰に腕を回した。彼も解放された腕をグウェンドルフ様の広い背中に回してしがみつく。壁に押さえつけられていた彼のもう一方の手は、まだ壁についたままだったがいつの間にか指同士が絡み合って握り合わさっていた。

「ん……ふ、グウェン」

 長く時間が経ってから彼はようやく唇を解放された。
 ふらつく彼の腰を支えて、グウェンドルフ様が彼を見下ろし少し強めの口調で声を出す。

「君はもう帰るんだ」
「……」
「真っ直ぐ、寄り道せずに」
「……」

 グウェンドルフ様は息を荒げて黙り込んだ彼が壁にもたれると手を離し、唇についた口紅の感触が気になったのか上着のポケットからハンカチを出して口を拭った。その後同じハンカチで彼の唇も軽く拭ってはみ出したルージュを拭き取る。
 ハンカチをしまうと床に屈んで帽子を拾い、まだ軽く息を上げて壁にもたれている彼に深く被せた。
 それでも黙ったままの彼を見下ろして、グウェンドルフ様は突然その腰を掴んで抱え上げた。

「うわっ」

 担がれて驚いた彼が慌ててグウェンドルフ様の肩に手を置く。

「ちょっとグウェン!」

 先程床に投げ捨てた靴を拾ってから、無言で庭に繋がる大きなガラス扉のステップに彼を座らせて、グウェンドルフ様は彼の足元に膝をつくとその裸足の足を取った。丁寧に足の裏に傷がないか確認して、彼の足に靴を履かせる。
 
「帰ったら詳しく聞くが、今は帰りなさい。私も魔石の売人に関する調査を終えたらすぐに帰る」
「……うん」

 先ほどより優しいトーンになったグウェンドルフ様の声を聞いて、彼が顔を帽子で隠すように俯いた。

「帰りの馬車は呼べるか」
「うん。オルタンシアのところのが迎えに来る」
「すぐに呼んで、そのままでいいから私の屋敷に入っていなさい」
「うん」

 彼が返事をしたのを確認してから、グウェンドルフ様はもう一度彼の帽子が深く被さるように角度を調節した。それからすっと立ち上がり、ガラスの扉を背にして座ったままの彼を残し、来た道を戻って歩き出した。
 私は慌てて部屋の中に引っ込み、ドレスのスカートをぎゅっと丸めて押さえつけ、見つからないように息を殺した。
 そのまま声をかけることも出来ずに、グウェンドルフ様がホールの方へ歩き去るのを扉の陰から見送った。ちらりと見えたグウェンドルフ様の顔の、彼の唇の端に赤い色がまだ少しだけ残っていた。

 月明かりに照らされた赤いルージュの掠れた跡を見て、ついさっきまでグウェンドルフ様が黒い帽子の彼にキスしていたのをまざまざと思い出す。その光景を鮮明に思い出した時、私は自分が失恋したことを思い知った。
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