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飛竜と海竜は惹かれ合う
第十九話 月夜の口づけ 前
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リアンが思案していると、船長が立ち上がり、寝台の方に歩いていった。なんだろうと目で追うと、そっと布団をめくった中にふかふかの獣が丸くなって寝ている。
「え?」
生き物? と思って眼を凝らすと、薄い茶色の毛で大きな耳がある、顔は狐のような小動物が穏やかな寝顔を見せていた。彼は健やかに寝ているその生き物を確認すると、またそっと布団をかぶせて口元を緩めた。
「フェネックという動物なんだ。普段は砂漠に住むような生き物なんだがね、こんな海の上なんて場違いな場所でも逞しく生きてるんだよ。そこが気に入っている」
確かに狐の顔はかわいかったが、隻腕の船長が小動物を飼っているというのが意外で面食らった。
「人間もそうだ。この場所でしか生きられないなんてことはない。こうしようと思った自分の気持ち次第で、いくらでも幸福は掴める」
そう呟くように言った船長はリアンに顔を向けた。
それ以上何も言わない朽ち葉という海賊を見つめて、なんとなく、励まされているような気持ちになった。リアンの事情は知らないはずだが、彼の穏やかで落ち着いた声を聞いていると、不思議と心が穏やかになるような気がした。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、彼は口の端を微かに上げた。
明日の段取りを考えなければならないと立ち上がり、早々に船長の部屋から退室することにした。扉までリアンを見送ろうと歩いてきた船長は、黒い色眼鏡で視界が不良だったのか、途中何かに躓いて床に膝をついて転んだ。
「大丈夫ですか⁈」
駆け寄って彼に手を貸そうと右手を伸ばす。リアンの手を見てハッとした顔になった彼は「触るな」と鋭い声を出して制した。驚いて固まると、船長は慌てたように立ち上がって、リアンから少し距離を取る。
「いや、すまない。大丈夫だ。ありがとう」
取り繕う船長の態度を訝しみながらも、彼は隻腕だし、人から利き手を触られるのは警戒するのかもしれないと思い至った。
少し変な空気になってしまったが、別に怒っているような雰囲気ではない。バツが悪そうな船長に内心で首を傾げながらリアンはもう一度お礼を言って、部屋から通路に出た。
その夜、リアンは船室で自分の軍服を寝台の上に広げていた。
海から落ちたときに着ていた軍服は、この船に拾われた当初トマが洗って乾かしてくれていた。祖父に左肩を撃ち抜かれたときの穴が空いたままの白い軍服をじっと見下ろす。
リアンがこれを着て燕に戻っても、もう空軍に自分の場所はない。しかし自分が飛竜である以上は、これを着て空に戻るべきだろう。飛んでいくつもりだから武器は多く携行できないが、持っていた拳銃一つでは心許ない。ウミガラスから武器を借りて行こうと思い立ち、部屋から出た。
寝静まって静かになった船内を歩いてこっそり武器庫に入り、いくつか小銃とサーベルを確認した。朝船から発つときに少しの間借用できないかガウスに頼んでみるつもりだった。
頭の中で明日の動きを想定していたら、ふと気づく。燕に無事下り立つことができればいいが、最悪の場合リアンは攻撃されるだろう。もし空から狙撃されたら、燕に接近するまでの間攻撃を回避して対抗する武器が必要になる。
そう考えて、今日の昼間にシーサーペントを始末したときに使用した擲弾発射器のことを思い出した。あれは肩に担げてちょうどいい大きさだった。充填する擲弾がまだ残っていれば、あれを借りるのがいいかもしれない。
船内の通路を抜けて、甲板に出る扉を開いた。デッキには誰もいない。夜の闇と月の光に照らされた黒い波が綺麗だった。思わず、しばらく甲板の柵に近寄って静かに流れる海の景色に見とれた。
夜、燕のデッキから見る月が綺麗だと思っていた。空の上で雲の隙間から見える月がこの世で一番綺麗だと思っていたのに、自分が海の上で波に映る月を綺麗だと思う日が来るなんて思ってもいなかった。そんな感慨にふけってしまい、少し苦笑した。
見張りの船員は上の船橋にいると思うが、甲板の上まではきっと暗くて見えないだろう。誰にも断らずに武器庫を開くのは忍びないと思いながら、今日トマが擲弾発射器を取り出していた収納庫に近づき、扉を開いた。
そのとき背後でザバっと音がした。直後に何かが甲板を踏む湿った気配がして、後ろを振り返る。
視線の先に、頭を振って髪をかき上げるヴァルハルトがいた。
「え?」
思わず小さな声が口から漏れた。
その声を聞いたヴァルハルトが顔を上げ、鋭く眇められた海色の目が大きく見開かれる。グラディウス、とその唇が微かに動いたのが見えた。
「オーベル?」
驚いて固まっているリアンに向かって、海竜は脇目も振らずに突進してきた。
立ち尽くしていたらあっという間に目の前に迫った男に腕を取られて強く抱きしめられた。太い腕が背中に回り、びしょ濡れの軍服に押さえつけられる。
途端につんと潮の匂いが香って、目の前にいるのが確かにヴァルハルトだと認識した。
「あんたが死ぬはずがねぇと思ってた」
耳元で掠れた低い声が響く。
ぎゅうぎゅうに抱きしめてくるヴァルハルトの腕の力は緩まない。力のかぎり圧迫されるせいで、治ったばかりの胸が少し痛い。
「よかった……。グラディウスからあんたは海に落ちて事故死したって連絡があったが、俺は絶対に信じねぇと思った」
なぜ、と思ったが声にはならなかった。
まだ目を丸くして固まっているリアンを離さずに、ヴァルハルトがまた苦しげに息を漏らす。顔だけ動かして男を見上げると、月明かりに照らされたヴァルハルトの顔は眉間にきつく皺が寄って、何かを耐えるように唇を噛みしめていた。
二人の間に隙間がないから、濡れた服ごしにだんだん相手の体温を感じとれるようになってくる。抱きしめられていることに、不快な感情を抱かなかった。
むしろ、嬉しいと思った。
リアンが死んでいなかったことにヴァルハルトが心から安堵していることがわかったから、嬉しかった。こんなに自分を案じてくれる人間がいると思っていなかった。力強い腕に締め上げられるように抱きつかれて、男の存在をはっきりと感じ取れることが、不思議なほど心地よかった。
会えてよかった。
昼間は躊躇ってしまったのに、今面と向かって会ったら怖気付いていた気持ちが消えてなくなった。
驚きが去って少し落ち着き、まだリアンを離さないヴァルハルトの横顔を見ながら口を開いた。
「オーベル。なぜ私がここにいるとわかった」
そう聞くと、ヴァルハルトは少しだけ腕の力を緩めてリアンを見下ろした。険しく強張っていた竜の表情は少し和らぎ、青い瞳がリアンを見つめて微かに揺れた。
「今日ウミガラスの奴らがシーサーペントを倒したって聞いて見に来たとき、死骸を見てわかった。あの海獣の頭を吹っ飛ばしたのはあんただろ。船の上から撃っても普通あんな爆ぜ方はしねぇ。空の上から擲弾ぶっ放した奴がいたなと思った」
それを聞いて、なるほどと思った。
「あんたがこの船にいるかもしれないとは勘づいたが、無事なら軍部に連絡を取らない理由がねぇ。ガウスに聞いてもしらばっくれるし、俺を見ても外に出てこねぇなら、多分軍艦を警戒してるってことだろう。だから昼間は一旦帰って夜一人で来ることにした」
「……お前は思ったよりも、頭が回る奴だったんだな」
つい感心した声を出すと、ヴァルハルトは眉間に皺を寄せたまま苦笑した。
「……あんたはこんなときにもそんな間の抜けたこと言ってんなよ」
多少気持ちが緩んだのか、ヴァルハルトはようやくリアンから手を離した。まだすぐに触れるくらいの近さにいる男が、真剣な表情でリアンをのぞき込んでくる。
「何があった。合同演習の日、海蛇に信号を送ってきたのはあんただろう」
リアンが咆哮を使って送った音波は誰かに拾われていたらしい。あれが無駄にならなかったならよかったと思い、リアンは小さく頷いた。
「グートランドからの魚雷は回避できたのか」
「できた。怪しい音波が流れてきたって聞いて、調べたら領海の端でうろついてる戦艦を見つけた。海蛇で接近して、魚雷を発射したら報復するって通達したら奴らはそのまま撤退してった」
「そうか」
それを聞いてほっと胸をなで下ろした。
海蛇は無事だろうと聞いていたから心配はしていなかったが、ヴァルハルトの口から力強い言葉を聞いてようやく安心した。
「あんたが今ヤバい状況になってるなら手を貸す。誰にも見られねぇようにするから、海蛇に来るか」
そう言ったヴァルハルトを思わず見上げた。
男の顔面にいつもの不遜な表情はどこにもない。本当にリアンを案じていることがその眼を見てわかった。そしてそれが嘘ではないことを、リアンは素直に信じることができた。
「え?」
生き物? と思って眼を凝らすと、薄い茶色の毛で大きな耳がある、顔は狐のような小動物が穏やかな寝顔を見せていた。彼は健やかに寝ているその生き物を確認すると、またそっと布団をかぶせて口元を緩めた。
「フェネックという動物なんだ。普段は砂漠に住むような生き物なんだがね、こんな海の上なんて場違いな場所でも逞しく生きてるんだよ。そこが気に入っている」
確かに狐の顔はかわいかったが、隻腕の船長が小動物を飼っているというのが意外で面食らった。
「人間もそうだ。この場所でしか生きられないなんてことはない。こうしようと思った自分の気持ち次第で、いくらでも幸福は掴める」
そう呟くように言った船長はリアンに顔を向けた。
それ以上何も言わない朽ち葉という海賊を見つめて、なんとなく、励まされているような気持ちになった。リアンの事情は知らないはずだが、彼の穏やかで落ち着いた声を聞いていると、不思議と心が穏やかになるような気がした。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、彼は口の端を微かに上げた。
明日の段取りを考えなければならないと立ち上がり、早々に船長の部屋から退室することにした。扉までリアンを見送ろうと歩いてきた船長は、黒い色眼鏡で視界が不良だったのか、途中何かに躓いて床に膝をついて転んだ。
「大丈夫ですか⁈」
駆け寄って彼に手を貸そうと右手を伸ばす。リアンの手を見てハッとした顔になった彼は「触るな」と鋭い声を出して制した。驚いて固まると、船長は慌てたように立ち上がって、リアンから少し距離を取る。
「いや、すまない。大丈夫だ。ありがとう」
取り繕う船長の態度を訝しみながらも、彼は隻腕だし、人から利き手を触られるのは警戒するのかもしれないと思い至った。
少し変な空気になってしまったが、別に怒っているような雰囲気ではない。バツが悪そうな船長に内心で首を傾げながらリアンはもう一度お礼を言って、部屋から通路に出た。
その夜、リアンは船室で自分の軍服を寝台の上に広げていた。
海から落ちたときに着ていた軍服は、この船に拾われた当初トマが洗って乾かしてくれていた。祖父に左肩を撃ち抜かれたときの穴が空いたままの白い軍服をじっと見下ろす。
リアンがこれを着て燕に戻っても、もう空軍に自分の場所はない。しかし自分が飛竜である以上は、これを着て空に戻るべきだろう。飛んでいくつもりだから武器は多く携行できないが、持っていた拳銃一つでは心許ない。ウミガラスから武器を借りて行こうと思い立ち、部屋から出た。
寝静まって静かになった船内を歩いてこっそり武器庫に入り、いくつか小銃とサーベルを確認した。朝船から発つときに少しの間借用できないかガウスに頼んでみるつもりだった。
頭の中で明日の動きを想定していたら、ふと気づく。燕に無事下り立つことができればいいが、最悪の場合リアンは攻撃されるだろう。もし空から狙撃されたら、燕に接近するまでの間攻撃を回避して対抗する武器が必要になる。
そう考えて、今日の昼間にシーサーペントを始末したときに使用した擲弾発射器のことを思い出した。あれは肩に担げてちょうどいい大きさだった。充填する擲弾がまだ残っていれば、あれを借りるのがいいかもしれない。
船内の通路を抜けて、甲板に出る扉を開いた。デッキには誰もいない。夜の闇と月の光に照らされた黒い波が綺麗だった。思わず、しばらく甲板の柵に近寄って静かに流れる海の景色に見とれた。
夜、燕のデッキから見る月が綺麗だと思っていた。空の上で雲の隙間から見える月がこの世で一番綺麗だと思っていたのに、自分が海の上で波に映る月を綺麗だと思う日が来るなんて思ってもいなかった。そんな感慨にふけってしまい、少し苦笑した。
見張りの船員は上の船橋にいると思うが、甲板の上まではきっと暗くて見えないだろう。誰にも断らずに武器庫を開くのは忍びないと思いながら、今日トマが擲弾発射器を取り出していた収納庫に近づき、扉を開いた。
そのとき背後でザバっと音がした。直後に何かが甲板を踏む湿った気配がして、後ろを振り返る。
視線の先に、頭を振って髪をかき上げるヴァルハルトがいた。
「え?」
思わず小さな声が口から漏れた。
その声を聞いたヴァルハルトが顔を上げ、鋭く眇められた海色の目が大きく見開かれる。グラディウス、とその唇が微かに動いたのが見えた。
「オーベル?」
驚いて固まっているリアンに向かって、海竜は脇目も振らずに突進してきた。
立ち尽くしていたらあっという間に目の前に迫った男に腕を取られて強く抱きしめられた。太い腕が背中に回り、びしょ濡れの軍服に押さえつけられる。
途端につんと潮の匂いが香って、目の前にいるのが確かにヴァルハルトだと認識した。
「あんたが死ぬはずがねぇと思ってた」
耳元で掠れた低い声が響く。
ぎゅうぎゅうに抱きしめてくるヴァルハルトの腕の力は緩まない。力のかぎり圧迫されるせいで、治ったばかりの胸が少し痛い。
「よかった……。グラディウスからあんたは海に落ちて事故死したって連絡があったが、俺は絶対に信じねぇと思った」
なぜ、と思ったが声にはならなかった。
まだ目を丸くして固まっているリアンを離さずに、ヴァルハルトがまた苦しげに息を漏らす。顔だけ動かして男を見上げると、月明かりに照らされたヴァルハルトの顔は眉間にきつく皺が寄って、何かを耐えるように唇を噛みしめていた。
二人の間に隙間がないから、濡れた服ごしにだんだん相手の体温を感じとれるようになってくる。抱きしめられていることに、不快な感情を抱かなかった。
むしろ、嬉しいと思った。
リアンが死んでいなかったことにヴァルハルトが心から安堵していることがわかったから、嬉しかった。こんなに自分を案じてくれる人間がいると思っていなかった。力強い腕に締め上げられるように抱きつかれて、男の存在をはっきりと感じ取れることが、不思議なほど心地よかった。
会えてよかった。
昼間は躊躇ってしまったのに、今面と向かって会ったら怖気付いていた気持ちが消えてなくなった。
驚きが去って少し落ち着き、まだリアンを離さないヴァルハルトの横顔を見ながら口を開いた。
「オーベル。なぜ私がここにいるとわかった」
そう聞くと、ヴァルハルトは少しだけ腕の力を緩めてリアンを見下ろした。険しく強張っていた竜の表情は少し和らぎ、青い瞳がリアンを見つめて微かに揺れた。
「今日ウミガラスの奴らがシーサーペントを倒したって聞いて見に来たとき、死骸を見てわかった。あの海獣の頭を吹っ飛ばしたのはあんただろ。船の上から撃っても普通あんな爆ぜ方はしねぇ。空の上から擲弾ぶっ放した奴がいたなと思った」
それを聞いて、なるほどと思った。
「あんたがこの船にいるかもしれないとは勘づいたが、無事なら軍部に連絡を取らない理由がねぇ。ガウスに聞いてもしらばっくれるし、俺を見ても外に出てこねぇなら、多分軍艦を警戒してるってことだろう。だから昼間は一旦帰って夜一人で来ることにした」
「……お前は思ったよりも、頭が回る奴だったんだな」
つい感心した声を出すと、ヴァルハルトは眉間に皺を寄せたまま苦笑した。
「……あんたはこんなときにもそんな間の抜けたこと言ってんなよ」
多少気持ちが緩んだのか、ヴァルハルトはようやくリアンから手を離した。まだすぐに触れるくらいの近さにいる男が、真剣な表情でリアンをのぞき込んでくる。
「何があった。合同演習の日、海蛇に信号を送ってきたのはあんただろう」
リアンが咆哮を使って送った音波は誰かに拾われていたらしい。あれが無駄にならなかったならよかったと思い、リアンは小さく頷いた。
「グートランドからの魚雷は回避できたのか」
「できた。怪しい音波が流れてきたって聞いて、調べたら領海の端でうろついてる戦艦を見つけた。海蛇で接近して、魚雷を発射したら報復するって通達したら奴らはそのまま撤退してった」
「そうか」
それを聞いてほっと胸をなで下ろした。
海蛇は無事だろうと聞いていたから心配はしていなかったが、ヴァルハルトの口から力強い言葉を聞いてようやく安心した。
「あんたが今ヤバい状況になってるなら手を貸す。誰にも見られねぇようにするから、海蛇に来るか」
そう言ったヴァルハルトを思わず見上げた。
男の顔面にいつもの不遜な表情はどこにもない。本当にリアンを案じていることがその眼を見てわかった。そしてそれが嘘ではないことを、リアンは素直に信じることができた。
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