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裏地がチェックのダッフルコートに袖を通し、それと同じチェック柄のマフラーを首に巻く。鏡の前で足を止め、体を左右に捻ると、自然と頬が綻んだ。
このコートとマフラーは、数年前の誕生日にお父さんがプレゼントしてくれたものだ。ちゃんとした服屋さんのヤツだから、大切に着なさい。絶対ユキの味方をしてくれるからって。
正直当時は、ぶかぶかのコートより新しいゲームが欲しかった。でも、あの頃より体も大きくなってちゃんと着こなせるようになった今では凄くお気に入り。軽くて温かいし他の子のコートよりデザインがきれいで、これを着ている時の自分は、何だかちょっと、ほんの少しだけ、様になっているような気がするから。
「お母さん、行ってきます」
「ああ、そのコート出してきたんだ。やっぱり似合うね」
「……えへへ」
「行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
玄関の扉を開く。しんとした寒さが頬を刺した。
(気持ちいい)
深呼吸すると、真っ白な息が吐き出される。皆寒い寒いって嫌がるけど、俺は冬が好き。日焼けして痛くならないし、昔から寒いのも得意。息を吸うと、肺が冷たい空気で満たされるのも気持ちいい。俺の名前と同じ雪が降ると、次の日には街並みが白く埋め尽くされていて、朝の光の中でキラキラしている景色がすごく綺麗。
今年初めてのお気に入りのコートを着て、冬の寒さを感じて、この日の俺はいつもより少しだけご機嫌だった。通学路にあるコンビニを横目に見て、帰りに雑誌をチェックしようかななんて考えて、紅のラジオのアーカイブを聞きながら電車に揺られた。
ラジオで好き勝手な事を話す紅は、ステージ上の神様と同一人物だとは思えない。今回はケタケタと笑いながらお酒の失敗談を語っていた。ある一定のライン以上酔うと逆に冷静になるとか、でもそれって結局翌日クるんだよなとか、ちゃんぽんだけはやめとけとか、どんな酔い方をする女の子が可愛いかとか、もうほんとその辺のおじさんでも話さないようなどうでもいい事ばかり。でも、こういう下らない部分が垣間見えると、この人も俺達と同じ人間なんだなって親しみが持てる。安心する。だからラジオは心穏やかに聞く事が出来て、好きなコンテンツの一つだった。
「ねぇ朝のニュース見た?」
「見た見た! いきなり速報入ってきてビックリしたよね!」
「あれ本当なのかな?」
教室に入ると、数名の女子が後ろの方に集まって世間話に花を咲かせていた。朝のニュースで井戸端会議なんて、いかにも女の子って感じだなぁ。そんな事を考えながら自分の席に向かっていく。だけど他人事だったはずの会話が、次の瞬間、俺にとって聞き捨てならない事実を伝えてきた。
「一色紅が引退するって!」
「……!?」
耳から入ってきた文章を脳が処理しきれず、何を言っているのか理解が出来なかった。ただ俺の足は、反射的に女子の輪の中にUターンした。
「ねぇ、今の話ホント!?」
「うわビックリした。ユキ君おはよー」
「ホントかどうかは分かんないけど、今日の朝速報入ってきてたよ」
「でもあんな大々的にニュースになるとか、かなりマジっぽくない?」
「あーん、嘘だって言って欲しい~! あたし紅様大好きなのに~!!」
一人がスマホを取り出して、今朝のニュースのアーカイブ配信を見せてくれた。画面には、おしくらまんじゅうのようにして記者に取り囲まれる紅の姿が映っている。
『引退されるという話は本当でしょうか!?』
『何故この時期にいきなり!?』
『度重なる女性関係のスキャンダルが原因という噂もありますが!?』
『ファンに対して納得のいく説明を!』
ボディーガードが必死に道を作ろうとする中で、それに負けじとボイスレコーダーが差し出され、シャッターが切られ、四方八方から質問が降り注ぐ。
『はいはいは~い。またハッキリお話する場を設けますんでぇ、今日の所はサヨウナラ~』
紅は最後にそれだけ口にして、さっさと車の後部座席に乗り込んだ。遠ざかっていく車体に向けて、記者の怒号が飛ばされた。
「ユキ君も、紅好きなの?」
その言葉にはっとする。慌てて画面から視線を逸らして、動揺を押し殺しながら何てことないフリをした。
「す……好きっていうか……結構有名な人だから、ビックリしちゃって……」
「だよね~。あたしもビックリしたんだけど、それ以上にウチお姉ちゃんが大ファンだからさ。すごいショック受けてた」
「ぁ……そうなんだ……。ごめん、いきなり会話割り込んじゃって」
「全然いいよー」
困惑したまま、女の子達から離れる。
(嘘、だよね)
席につくとすぐに紅のSNSをチェックした。引退報道に関しては特に言及されておらず、三日前の夜気まぐれに投稿されたお休みの挨拶で相変わらず投稿は止まっている。引退が明言されていない事にひとまずホッとしたような、でも早く真実が知りたいような、複雑な気持ちだった。頼むから「引退しない」って言って欲しい。「テレビ局が勝手に騒いでるだけ」って。そんな想いで頭がいっぱいになった。明るかったはずの心の中が、一気に暗雲に埋め尽くされていく。
しかし俺の希望的観測空しく、この日から数日後の記者会見にて、本人の口からハッキリと引退の事実が告げられた。
『もうやる事はやったんで、普通の男の子に戻りま~す♡』冗談めかしてそう言った紅の口から、明確な引退理由は明かされなかった。
それ以降、ファンクラブやWebサイト、各種SNSも次々とサービスを終了。今後手に入らなくなっていくグッズ類も飛ぶように売り切れていき、たまに在庫があったとしても、プレミアがついてとても手が出せない価格にまで跳ね上がっていった。
これからもずっと存在してくれるものだと、当然のようにそう思っていた。
そのうち気が向いたらライブに行けばいい。そのうち本当に欲しくなったらグッズを買えばいい。だって別にそこまで好きなわけじゃないし。ちょっと面白いなって思ってるくらいだし。そんな、ライブとか行く程のもんじゃないし。
だから、そのうち。そのうち。そのうち。そう思っていた。
でも、そうやって俺が面倒くさいこじらせファンをやっている間に、「そのうち」は、もう二度と訪れなくなった。
何ですぐに行かなかったんだろう。何ですぐに買わなかったんだろう。何で素直にあの人のファンですって認めなかったんだろう。後悔の念は後を絶たなかった。でも今更後悔した所でどうにもならない。何もかもが後の祭りだ。
神様は、あまりにも突然に、そして呆気なく、俺の世界から姿を消した。
このコートとマフラーは、数年前の誕生日にお父さんがプレゼントしてくれたものだ。ちゃんとした服屋さんのヤツだから、大切に着なさい。絶対ユキの味方をしてくれるからって。
正直当時は、ぶかぶかのコートより新しいゲームが欲しかった。でも、あの頃より体も大きくなってちゃんと着こなせるようになった今では凄くお気に入り。軽くて温かいし他の子のコートよりデザインがきれいで、これを着ている時の自分は、何だかちょっと、ほんの少しだけ、様になっているような気がするから。
「お母さん、行ってきます」
「ああ、そのコート出してきたんだ。やっぱり似合うね」
「……えへへ」
「行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
玄関の扉を開く。しんとした寒さが頬を刺した。
(気持ちいい)
深呼吸すると、真っ白な息が吐き出される。皆寒い寒いって嫌がるけど、俺は冬が好き。日焼けして痛くならないし、昔から寒いのも得意。息を吸うと、肺が冷たい空気で満たされるのも気持ちいい。俺の名前と同じ雪が降ると、次の日には街並みが白く埋め尽くされていて、朝の光の中でキラキラしている景色がすごく綺麗。
今年初めてのお気に入りのコートを着て、冬の寒さを感じて、この日の俺はいつもより少しだけご機嫌だった。通学路にあるコンビニを横目に見て、帰りに雑誌をチェックしようかななんて考えて、紅のラジオのアーカイブを聞きながら電車に揺られた。
ラジオで好き勝手な事を話す紅は、ステージ上の神様と同一人物だとは思えない。今回はケタケタと笑いながらお酒の失敗談を語っていた。ある一定のライン以上酔うと逆に冷静になるとか、でもそれって結局翌日クるんだよなとか、ちゃんぽんだけはやめとけとか、どんな酔い方をする女の子が可愛いかとか、もうほんとその辺のおじさんでも話さないようなどうでもいい事ばかり。でも、こういう下らない部分が垣間見えると、この人も俺達と同じ人間なんだなって親しみが持てる。安心する。だからラジオは心穏やかに聞く事が出来て、好きなコンテンツの一つだった。
「ねぇ朝のニュース見た?」
「見た見た! いきなり速報入ってきてビックリしたよね!」
「あれ本当なのかな?」
教室に入ると、数名の女子が後ろの方に集まって世間話に花を咲かせていた。朝のニュースで井戸端会議なんて、いかにも女の子って感じだなぁ。そんな事を考えながら自分の席に向かっていく。だけど他人事だったはずの会話が、次の瞬間、俺にとって聞き捨てならない事実を伝えてきた。
「一色紅が引退するって!」
「……!?」
耳から入ってきた文章を脳が処理しきれず、何を言っているのか理解が出来なかった。ただ俺の足は、反射的に女子の輪の中にUターンした。
「ねぇ、今の話ホント!?」
「うわビックリした。ユキ君おはよー」
「ホントかどうかは分かんないけど、今日の朝速報入ってきてたよ」
「でもあんな大々的にニュースになるとか、かなりマジっぽくない?」
「あーん、嘘だって言って欲しい~! あたし紅様大好きなのに~!!」
一人がスマホを取り出して、今朝のニュースのアーカイブ配信を見せてくれた。画面には、おしくらまんじゅうのようにして記者に取り囲まれる紅の姿が映っている。
『引退されるという話は本当でしょうか!?』
『何故この時期にいきなり!?』
『度重なる女性関係のスキャンダルが原因という噂もありますが!?』
『ファンに対して納得のいく説明を!』
ボディーガードが必死に道を作ろうとする中で、それに負けじとボイスレコーダーが差し出され、シャッターが切られ、四方八方から質問が降り注ぐ。
『はいはいは~い。またハッキリお話する場を設けますんでぇ、今日の所はサヨウナラ~』
紅は最後にそれだけ口にして、さっさと車の後部座席に乗り込んだ。遠ざかっていく車体に向けて、記者の怒号が飛ばされた。
「ユキ君も、紅好きなの?」
その言葉にはっとする。慌てて画面から視線を逸らして、動揺を押し殺しながら何てことないフリをした。
「す……好きっていうか……結構有名な人だから、ビックリしちゃって……」
「だよね~。あたしもビックリしたんだけど、それ以上にウチお姉ちゃんが大ファンだからさ。すごいショック受けてた」
「ぁ……そうなんだ……。ごめん、いきなり会話割り込んじゃって」
「全然いいよー」
困惑したまま、女の子達から離れる。
(嘘、だよね)
席につくとすぐに紅のSNSをチェックした。引退報道に関しては特に言及されておらず、三日前の夜気まぐれに投稿されたお休みの挨拶で相変わらず投稿は止まっている。引退が明言されていない事にひとまずホッとしたような、でも早く真実が知りたいような、複雑な気持ちだった。頼むから「引退しない」って言って欲しい。「テレビ局が勝手に騒いでるだけ」って。そんな想いで頭がいっぱいになった。明るかったはずの心の中が、一気に暗雲に埋め尽くされていく。
しかし俺の希望的観測空しく、この日から数日後の記者会見にて、本人の口からハッキリと引退の事実が告げられた。
『もうやる事はやったんで、普通の男の子に戻りま~す♡』冗談めかしてそう言った紅の口から、明確な引退理由は明かされなかった。
それ以降、ファンクラブやWebサイト、各種SNSも次々とサービスを終了。今後手に入らなくなっていくグッズ類も飛ぶように売り切れていき、たまに在庫があったとしても、プレミアがついてとても手が出せない価格にまで跳ね上がっていった。
これからもずっと存在してくれるものだと、当然のようにそう思っていた。
そのうち気が向いたらライブに行けばいい。そのうち本当に欲しくなったらグッズを買えばいい。だって別にそこまで好きなわけじゃないし。ちょっと面白いなって思ってるくらいだし。そんな、ライブとか行く程のもんじゃないし。
だから、そのうち。そのうち。そのうち。そう思っていた。
でも、そうやって俺が面倒くさいこじらせファンをやっている間に、「そのうち」は、もう二度と訪れなくなった。
何ですぐに行かなかったんだろう。何ですぐに買わなかったんだろう。何で素直にあの人のファンですって認めなかったんだろう。後悔の念は後を絶たなかった。でも今更後悔した所でどうにもならない。何もかもが後の祭りだ。
神様は、あまりにも突然に、そして呆気なく、俺の世界から姿を消した。
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