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第十八話 マグカップの行方
しおりを挟む「ふぅ・・」
大きな深呼吸をして、鍵を開ける。林田は久しぶりに鬼崎の家に足を踏み入れた。鬼崎が帰宅する前の誰もいない静かな玄関、その先に入るのを躊躇う。決心がつくまでには二十分かかった。家の前をバイクや車が通るたびに、ドアが今にでも開けられるのではと緊張して身体を固くした。
よく考えれば男は電車通勤だと後から思い出し、一人でに恥ずかしくなり奥歯を噛み締めた。少し冷静になると、ようやく靴を脱いで玄関を上がる。姿見にうつる首輪のない自分にぎこちなく微笑み、「ただいま」と呟いた。
廊下を進み、リビングのドアに手をかけて気が付く。懐かしい匂いが微妙に違っている。その違いの正体が分からぬまま、中へ入り驚いた。あの綺麗好きで几帳面な男の家とは思えないほどに散らかり乱れた室内。空の缶と瓶が床に転がり、脱ぎっぱなしのシャツが無造作に放ってある。
泥棒でも入ったのではと疑いたくなるような有り様。キッチンの流し台には汚れた食器が放置され、その中には自分があげた紺色のマグカップも含まれていた。
林田は戸棚に近づき、あれと思う。ペアで買った自分のマグカップが無い。置いて行ってしまったから、きっといらないと思われたのだ・・片方だけになったマグカップをあの男は一人で寂しく使い続けていたんだろうか。
「ん?てことは」
もしかして首輪も捨てられてしまったのではと思い立ち、胸がざわついた。
林田はドアを開けて安堵する。二階の自分の部屋は手付かずのまま、出て行った時と変わらない。机の上の首輪もちゃんとそこに置いてあった。「良かった」と溢して、手に取った。迷わずに首に付ける。
こんなの絶対に変なのにしっくりくる、それがたまらなく嬉しくて、「へへ」と笑った。
「さて・・」
林田は腰に手を当てて唸った。サビに「さっさと戻って仲直りしろ」と急かされて、動物病院から真っ直ぐ来てしまったけれど、これからどうしよう。バイト先二箇所には病欠の連絡済みだ、今日はもう何も予定は無い。
でも勝手に出て行ったくせに、また勝手に上がり込んで、さすがにあの男も怒るのではないか。悩んでいるうちに何か物音が聞こえた。
「えっ、なに⁉︎」
それは幾度か鳴った。黙って耳を澄ますと、何かが壁や床にぶつかるような音のような気がした。
まさか本当に泥棒・・、自室の中で武器になりそうな物は見当たらない。ボストンバッグを探り、整髪用のスプレー缶を手に取る。使えそうな物はこれくらい。大きく息を吐いてから、足を忍ばせて部屋の前へ出た。物音が聞こえた方向へゆっくりと進む。
おかしいなと感じた。この奥は何もないはず・・・あの男の部屋以外は。物音は先ほどから止んでいる。下へ降りるには自分の部屋の前を通る必要があるが、そんな足音はしなかった。つまり、男の部屋の中に泥棒が居る。ごくりと唾を飲み込んだ。
スプレーのキャップを外して右手に構えた。出来る限り音を立てないようにドアノブを捻る。恐ろしくて足元に視線を落としながら、少しずつドアを開けた。
だが中に人影は見当たらない。窓も開いていない。男の部屋には初めて入った、隠れられる場所など無さそうな部屋だった。唯一考えられそうなクローゼットは開けっ放しで、スーツのジャケットが横一列に並んでいる。
ほっと胸を撫で下ろし、振り向いて仰天した。大声を上げそうになるのを、口をとっさに押さえてなんとか耐えた。
「・・・誰か寝てる?」
男のベッドの上はこんもりと山が出来ていた。明らかに人が居ると分かる大きな盛り上がり。誰かなんて考えなくても一人しかいない。ベッドの主は真冬でもないのに、掛け布団と毛布を重ね掛けして細かく震えている。
近くに寄ると酷く酒臭かった。わずかに見えている男の額に手を当てた。熱い、熱があるのに酒を飲んだんだろうか、そもそもいつから飲んでいたのか。仕事はどうしたんだろうか。ぐるぐると色んな疑問が巡り、男の枕元に腰を下ろす。苦しそうな寝息が聞こえて、胸が締め付けられた。
「俺が居なくなったからこんなになっちゃったの?」
林田は鬼崎の前髪を撫で、そっと問いかけた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない・・でも今はそういうことにしておこう。
男の布団に潜り込む。震えるその身体に身を寄せて、胸に抱えるように抱き締めた。
「こうすると、あったかくて安心するでしょ。俺も熱が出て倒れたばっかりなんだ。一緒だね俺達・・」
林田の口から「うっうっ」と嗚咽が漏れる。男の身体があまりにも熱いから、釣られるように熱が上がった。同じ温度の肌と肌がぴったりと溶け合って、一つになったみたいに錯覚する。
気持ちがよくなりそのまま微睡んだ。何だろう・・二人の体温よりも少しだけ低い、ツルツルしたものに触れた。鬼崎の指に引っかかっている。手を伸ばしてそれを取った。
「ああ、もうっ、何でこんな物を手に持って寝てるんだよ」
林田の中に今までで一番強い感情が湧き起こった。
酔っ払った人間のやる事など本気にすべきじゃない。でも、落ち着きがあって大人で、隙のない男のくせに、実は寂しがり屋で意地らしい、そんなこの男が愛おしい。死んじゃうくらいに愛おしい。
林田は汗で張り付いた鬼崎の前髪を優しくかきあげ、額にキスをする。
「鬼崎さん、一人にしてごめんね」
目を覚ましたら気持ちを伝えたい、瞼を閉じながら固く誓った。
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