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第3章 ダオ編・弐

41 王宮の洗礼——白い花の色①

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「はあ・・・・・・」

 久しぶりにぽっきりと心が折れました。
 近頃は平静を保っていられたのに。
 ですが、これが正しい感情かもしれません。
 ぼくは慣れてしまっていただけです。騙されてはいけない。
 地獄の監禁生活から脱したおかげで、マシな生活だと思わされていただけなのです。ぼくが不自由なのは、目だけのせいじゃない。
 ひとりで椅子に腰掛けていると、官女監視役が戻ってきます。
 ことんと床に置かれたのは桶でしょう。湯が揺れる音が混じっている。

「失礼いたします」

 官女がぼくの脚を持ちます。足袋を脱がされ、素肌に生の空気が触れました。つま先が沈められる前に、脚の甲に湯がかけられ、ぱしゃりと控えめな湯音が鳴ります。
 脚がじんわりと温かくなり、ほんのりと心が和らいだとき、脚元から匂い立ってくる仄かな香りに気がつきました。

「これ・・・・・・」
「ご存じの香りでしたか? 湯の匂いつけに使わせていただきました」

 官女が顔を上げたのでしょうか。小部屋内に声が響きます。

「あ、えーと、知らないんですけれど、なんだか懐かしい気分で」

 しどろもどろなぼくに、官女が微笑んだ気がしました。その後の声色がとても優しかったのです。

「そうですか。気に入っていただけましたか?」
「はい。よい気持ちです。ありがとうございます」
「いいえ、喜んでいただけて何よりでございます」

 官女はそう言って黙りました。もくもくと、僕の脚に湯をかけ続けてくれます。

「あの、もういいです。あとは脚を湯に入れておいてください」
「・・・・・・はい」

 返事をして官女は手を止める。湯の底に脚を置かれ、足首ほどまでが湯に浸かり、ぬるい煮こごりの中を漂っている心地を覚えました。
 手を拭いているのでしょう、数秒待つと、官女が立ち上がる音がした。足音は、ぼくの斜め横方向に移動していきます。

「雪月花の君さま、こちらの引き戸を開けてもよろしいでしょうか?」

 思いがけない問いかけに、ぼくは首をかたむけました。

「引き戸?」
「はい、花見会場である庭の近くに面しておりますので、こちらを開ければ室内から花をお楽しみいただけますよ」
「え・・・・・・」

 言葉に詰まりました。官女はぼくの目のことを聞いていないのです。ざらついた気持ちのせいで、今さら言うのも躊躇われました。
 それに、戸を解放して大丈夫なのでしょうか。
 万が一にぼくが、・・・・・・しょせん無理なのですけれど、外に出てしまう可能性だって皆無じゃないのです。

「雪月花の君さま?」
「ああ、はいっ、ではよろしくお願いします」

 判断がつかず、そう答える他はありません。
 戸が開いたのか、覆面布ベールがさわさわと揺れて顔を撫でました。遮断されていた外の空気が舞い込み、風に乗って、あらゆる場所で話されている会話の声が耳に届いてきます。
(いやだ。聴きたくない・・・・・・ッッ)
 できることなら、耳を塞いでしまいたい。
 賑やかな雰囲気が伝わってくると、疎外感がますます強まりました。

「私はこれにて下がります」

 ご用があれば、なんちゃらかんちゃらと、ぼくは聴いているふりでうなずきます。
 しばらくして「あの」と声をかけましたが、返答はありません。官女は小部屋の外にでて、待機しているようでした。
 取り残されてしまった。
 ふたたびやってくる空白。
 色なんてわからないのに、手脚をもがれて宙吊りにされているみたいな不安定さが、僕の脳裏に空『白』の色をつけた。
 ———雪月花とは、それぞれの季節のなかで、いちばん美しいものを総称する意味をもつ。胸元に差し込まれているのは梅の花です。つまりは今日の主役。
 それはとても皮肉です。もしも、庭中を飾っている白い花びらの色がぼくの感じたとおりの色ならば、ぼくは絶対に好きになれないと思いました。

「たすけて・・・・・・のっぺらぼうのだれかさん」

 実在するかどうかもわからない。ぼくが創り出した、虚像のだれか。ぼくから視界を奪った悪いひと。リュウホンさまは、残虐でひどい怪物のような男だったのだと言いました。けれど、ふとした拍子に浮かんでくる温かい面影が消えない。
 ぼくはいたたまれない気持ちで、胸元に差された白い花を抜き去りました。
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