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12話

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 仰向けに倒れたままのエアハルトはボロボロにされた身体を動かすことはできずじっとしていた。
 ただ意識は保っている様子。
 瞼は閉じたり開いたりしていたし、眼球も時に動き、小さなものではあるが呼吸音も途切れてはいなかった。

 あまりにも酷い、こんなことは……。

 地面に座った体勢のまま両手のひらを冷たい地面につけて感情の揺れに耐えられず涙をこぼしていると――片頬に何かが触れた感覚があって、現実に引き戻される。

「……ナス、カ」

 濡れた頬に触れた指の主はエアハルトだった。

 まだ潤んだままの眼でそちらを見れば、彼は柔らかく微笑む。

「無事で、良かった」

 彼の口から出る言葉は長くはなくて、けれども、そこには確かに最大の気遣いと思いやりの色が存在している。

「エアハルト……」

 手の甲で目もとを拭う。

「……ごめんなさい、私、貴方を……貴方を、救えなくて」

 それでもまた涙は溢れてくる。

 情けないことだ。
 泣きたいのは彼の方だろうに。

 でも、どうしても、耐えられない。

「……さい、ごめ、んなさ……ごめんなさい……」

 脳内が罪悪感に塗り潰されて、ただ謝罪の言葉を繰り返すことしかできなくなっていると、彼は「ナスカ」と私の名を呼んだ。すぐには反応できなくて、情けなくも涙を流してばかりいて。でもその間も彼は何度も名を呼んでくれていた。肉体こそ弱っているが彼の精神状態は正常。私の名を呼ぶ彼の声は落ち着いたものだった。

 やがて、一つの「ナスカ」で彼の方へ目をやると、一瞬にして二人の視線が重なる。

「大丈夫」

 視線が重なってから、彼はそう言った。

「泣かないで」

 彼は柔らかくも真っ直ぐさのある声でそんな風に言う。
 けれども、そうします、とは言えなかった。
 大切な人が傷ついたまま目の前に倒れているというのに、それを見なかったことになんてできるわけがない。

「エアハルトが酷いことされてた時、私、助けに入れなかった……それが辛いの。悲しくて苦しくて、悔しいの。だって私、一番大切な人を見捨てた……」

 言葉を紡ぐだけでも唇が震える。

「何で? 見捨ててないよ、ナスカは。だって今こうして隣にいてくれてるよね」
「……でも」
「ナスカ、大丈夫。大丈夫だよ。だから、自分を責めないで」

 私は無力だ。
 もうかつてのような戦う力はない。

「……っ、ぅ……ぅっ……」

 でも、それでも、大切な人くらいは護れる私でありたかった。

「僕は死なないから」

 エアハルトは静けさの中で赤くこびりついた唇を動かす。

「君を一人にはしないから」

 ただ、私という人間を励ますために。

「絶対諦めない。君が笑って過ごせる日常を取り戻す」

 人々はエアハルトを『クロレアの閃光』と呼んだ。

 それは偉大な英雄という意味だ。
 でも私はその呼び名をあまり好きになれなかった。

 彼はクロレアの英雄、偉大な軍人、そんなことはよく分かっているけれど。

 ――その生命の煌めきが束の間のものであることを、私はずっと恐れていた。

 この胸の内にある彼への想い、それが膨らむたびに彼を失うことへの恐怖という影も濃くなってゆく。そしてその影はどんな時も消えることはない。楽しい時、幸せな時、そういった時でさえそれはこの身に絡み付く。恐怖という影の前では、逃げ場などありはしないのだ。

「だからさ、ナスカ、希望を抱こう」
「エアハルト……」
「どした?」
「……いいえ、違うの、そうじゃなくて」
「ん?」
「……エアハルトは、私を遺して死なない?」

 すると彼は片腕を伸ばしそっと手を握ってくる。

「うん、死なないよ」

 身体を大きく動かすほどの力は残っていないエアハルトだが、彼なりに懸命に励ましてくれていた。

「愛してる」

 結局その日はそのまま放置されて、朝が来るまで地下室で過ごさなくてはならなかった。

 でも、思いきり泣いたからか、予想していたよりもスムーズに眠気を催して――気づけば意識を手放していた。

 エアハルトの胸に頭を乗せるようにして、眠りの世界へと行く。

 ああ、できるなら、もうずっとこのまま穏やかな眠りの世界にいたい……。

 そんなことを思ったくらいだった。

 ――でもやはりまた夜は明けて。

「おはよう」

 エアハルトの声で目覚める。

 彼に覆い被さるようにして眠ってしまった私の背中を彼は愛しそうに撫でていた。
 顎を引いてこちらへ視線を向けてきている彼は言葉が出なくなるほどに穏やかな顔をしていた。

「よく眠れたみたいで良かった」
「あっ……、ご、ごめんなさい! 重かった!?」

 がばっ、と起き上がると。

「大丈夫だよ」

 彼はそう言って笑う。

 それから片手を伸ばしてくる。何かと思っていたら「手を貸してもらっても?」と言われた。指示された通りに出された手を掴むと、さらに「ちょっと引っ張ってもらってもいいかな」と頼まれて、それに従う。すると引っ張ったその勢いで彼は上半身を起こした。

「座れるの!?」
「うん、一晩寝たからね」
「え、や、ちょ……回復早すぎない!?」
「一秒一秒が身を癒してくれるよ」
「超人……」

 エアハルトはもう笑っている。
 まるで心地よい朝を絵に描いたかのような爽やかな笑みだ。

「って言っても、まだ痛いけどね」

 そんな風に冗談を織り込んでくる彼を見て、安堵する。

「よぉ! 調子はどーだ?」

 朝を迎えて少しして、五十代男が地下室に姿を現す。

 エアハルトは警戒心を隠さず私を後ろへ隠した。

「はは、意外と元気そーじゃねぇか」

 五十代男の後ろには二人の若い男が控えている。昨日エアハルトを拘束していた男たちだ。屈強な男が複数並んでいると何もされておらずとも追い込まれるような圧を感じる。

 だがエアハルトは圧倒されてはいなかった。

「眠れば少しは回復する」
「そーかよ」

 傷つけられた記憶は残っているはずなのに、怖さだってあるはずなのに、エアハルトは少しも躊躇うことなく男に向き合っていた。

「彼女だけでいい、解放してやってほしい」
「そりゃ無理だ」
「彼女はもう一般人だ、こんなことすべきじゃない」

 五十代男は不機嫌になり「知らねぇよ!」と叫んでエアハルトの脇腹を蹴る。

 だがそれでもエアハルトの凛とした表情は崩れない。

「うるせぇよ、奴隷のくせに」

 男はそう吐き捨てて。

「ま、いーや。じゃ、飯にしようぜ」

 そんな風に続ける。

 意外な展開に戸惑っていると、男は部下の男に「あれ持ってこい」と命じる。
 すると若い男の一人が一旦部屋を出ていって、それから少しして銀のバケツのようなものを持って帰ってきた。
 そしてそれは五十代男へ渡される。
 五十代男はおたまで銀のバケツの中に入っている何か――液体をすくいあげると、地面に撒いた。

 出汁のような匂いがする……もしかして、汁物?

「さぁアードラー、食え」

 五十代男はそう言ってからにやりと片側の口角を持ち上げた。
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