143 / 147
episode.142 カレーが美味しすぎたせい
しおりを挟む
目の前に置かれた、カレーとご飯が乗った皿。焦げ茶色のカレーと白色の米、という色みが、いかにも美味しそうだ。それに加えて、立ち上るコクのある香りがこれまた美味しそうで、食欲をそそる。
朝からカレーなんて。
そんな風に思っていた心は、一瞬にして吹き飛んでいってしまった。
今はただ、目の前に出されたものを食べたい、という欲に満ちている。目と鼻からの情報だけでも、絶対に美味しいと確信が持てるほどのカレーだ。食べたくならないわけがない。
「マレイちゃん、どうかしたのっ?」
カレーの乗った皿を凝視しているのを不思議に思ったらしく、フランシスカが尋ねてきた。眉をひそめ、怪訝な顔をしている。
「あ、いえ。何でもないわ」
「本当にっ?」
一応答えはしたのだが、フランシスカは「信じられない」といった顔をしたままである。
確かに、仲間が周囲にいるにもかかわらず皿だけを凝視している人なんて、明らかにおかしな人だ。そう考えると、フランシスカが訝しむような顔をするのも無理はないのかもしれない。
「えぇ、本当よ」
私がもう一度答えると、鍋の前に立っていたゼーレが口を挟んでくる。
「……カトレアはカレーに夢中なのでしょう」
ゼーレの発言に、フランシスカはその愛らしい顔を持ち上げ、「あ、そうなの?」と返す。彼女が目をぱちぱちさせると、丸い瞳を彩る睫毛が大きく動いて、とても華やかだ。
「えぇ……恐らく」
ゼーレは呟くような小さな声で述べ、それから、私の方へと視線を向ける。そして、ニヤリと笑った。マスクを装着しているため口元を視認はできないのだが、それでも彼の表情が変わったことは、容易く分かった。
「……でしょう? カトレア」
馬鹿にされている感が否めない。
だが、露骨に無視するのもどうかと思ったため、仕方なく答える。
「そうよ。美味しそうだったんだもの、仕方ないじゃない」
するとゼーレは軽く目を伏せる。
「……やはり。そんなことだろうと思いました」
そう言ってから、ゼーレは一人、「ふふ」と笑みをこぼしていた。彼が笑うなんて、不気味だ。
「やはり食欲に敵うものはありませんねぇ……」
「な、何よ! 食い意地が張っているみたいに言わないでちょうだい!」
「……何を必死になっているのです? カトレア。食欲旺盛なのを悪いことだと言ってはいませんが」
ひよこ柄の水色のエプロンを着ているが、やはり、ゼーレはゼーレだった。根っこの性格というものは、服装くらいで変わるものではないらしい。
そんな風に言葉を交わしながらのんびりと過ごしていると、それまで黙っていたトリスタンが、突然口を開いた。
「ところでマレイちゃん。ゼーレと一緒に行くって、本当?」
えええっ!?
どうしてトリスタンが知ってるの!?
……なんて驚いたのは隠し、まるで平静を保てているかのように振る舞いつつ返す。
「その話、どこで聞いたの?」
まだトリスタンには話していなかったはずなのに。
一体どんな経路で情報を入手したのやら……。
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「そ、そうね……」
こんな時に限ってトリスタンは厳しい。
「本当なのかな?」
トリスタンの青い双眸から放たれた視線は、まるで胸を貫くかのように、真っ直ぐ向かってきている。彼に真剣な眼差しを向けられると、ごまかせる気がしない。
「えぇ……本当よ」
非常に言いにくいが、嘘をつくわけにもいかない。
今私は、ただ、真実を述べるしかなかった。それ以外に選ぶことのできる道など、存在しなかったのだ。
私の返答に、トリスタンは微かに俯く。
辺りの空気が一気に冷えた気がした。
「……そっか」
私はゼーレを選んだ。彼と生きる道を選んだ。だからもう引き返せはしない。それに、もし仮に引き返せるとしても、そちらを選択することはないと思う。
トリスタンには、ずっと世話になってきた。だから、こんな形で彼を傷つけてしまうのは、心苦しいものがある。
でも——。
もし今ここで、私が、曖昧な態度をとったら。
彼に希望の欠片を残すような態度をとったとしたら。
余計にトリスタンを傷つけてしまうことは、間違いない。
選んだ道を告げることは辛くて、罪悪感もある。
けれど、はっきりと告げるのが、一番トリスタンのためになるだろう。
だから私は正直に告げたのだ。
「それが君の、マレイちゃんの、選んだ道なんだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。君は、君が望む人生をゆけばいいんだから」
トリスタンは優しかった。
彼の優しさに、何度も救われてきた。
「僕はマレイちゃんに幸せになってほしい」
そして今も、私は、その優しさに救われている。
切なげに伏せられた青を見ると胸が痛くなるけれど、トリスタンが私の選んだ人生を受け入れようとしてくれていることは、純粋に嬉しく思う。
「だから、謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
今は、躊躇いなく、感謝を述べることができた。
トリスタンが温かく受け止めてくれたからだ。
「さ! カレー食べよっか!」
私とトリスタンの会話が一段落する時を見計らっていたのか、言葉が途切れるなりフランシスカが言った。彼女らしい、はつらつとした声色だ。
「そうだな。美味しそうなカレーだ」
「いっただっきまーすっ!!」
グレイブとフランシスカがそれぞれ述べていた。
私は、スプーンに山盛りになるくらいがっつりすくったカレーを、一気に口に含む。重い気分を振り払うかのように。
濃厚な汁と甘みのあるご飯が、絶妙の組み合わせだ。にゅるりととろける玉ねぎ、ほくっとしたジャガイモ、そして柔らかくてほろりと崩れる肉。
ゼーレのカレーは美味だった。
「へぇー、案外美味しいね……って、マレイちゃん!?」
「え?」
フランシスカは私の皿を見て、何やら驚いている。
「食べるの早くないっ!?」
「そう?」
まだ半分くらい食べただけなのだが……。
「早いよ! 早すぎだよっ!」
なぜ、と思ったが、周囲の皿を見て納得した。確かに、みんなはまだ半分も食べていない。ということは、フランシスカが言う通り、私は食べるのが早いのだろう。
だがそれは、私が食い意地が張っているからではない。カレーが美味しすぎたのが原因だ。
朝からカレーなんて。
そんな風に思っていた心は、一瞬にして吹き飛んでいってしまった。
今はただ、目の前に出されたものを食べたい、という欲に満ちている。目と鼻からの情報だけでも、絶対に美味しいと確信が持てるほどのカレーだ。食べたくならないわけがない。
「マレイちゃん、どうかしたのっ?」
カレーの乗った皿を凝視しているのを不思議に思ったらしく、フランシスカが尋ねてきた。眉をひそめ、怪訝な顔をしている。
「あ、いえ。何でもないわ」
「本当にっ?」
一応答えはしたのだが、フランシスカは「信じられない」といった顔をしたままである。
確かに、仲間が周囲にいるにもかかわらず皿だけを凝視している人なんて、明らかにおかしな人だ。そう考えると、フランシスカが訝しむような顔をするのも無理はないのかもしれない。
「えぇ、本当よ」
私がもう一度答えると、鍋の前に立っていたゼーレが口を挟んでくる。
「……カトレアはカレーに夢中なのでしょう」
ゼーレの発言に、フランシスカはその愛らしい顔を持ち上げ、「あ、そうなの?」と返す。彼女が目をぱちぱちさせると、丸い瞳を彩る睫毛が大きく動いて、とても華やかだ。
「えぇ……恐らく」
ゼーレは呟くような小さな声で述べ、それから、私の方へと視線を向ける。そして、ニヤリと笑った。マスクを装着しているため口元を視認はできないのだが、それでも彼の表情が変わったことは、容易く分かった。
「……でしょう? カトレア」
馬鹿にされている感が否めない。
だが、露骨に無視するのもどうかと思ったため、仕方なく答える。
「そうよ。美味しそうだったんだもの、仕方ないじゃない」
するとゼーレは軽く目を伏せる。
「……やはり。そんなことだろうと思いました」
そう言ってから、ゼーレは一人、「ふふ」と笑みをこぼしていた。彼が笑うなんて、不気味だ。
「やはり食欲に敵うものはありませんねぇ……」
「な、何よ! 食い意地が張っているみたいに言わないでちょうだい!」
「……何を必死になっているのです? カトレア。食欲旺盛なのを悪いことだと言ってはいませんが」
ひよこ柄の水色のエプロンを着ているが、やはり、ゼーレはゼーレだった。根っこの性格というものは、服装くらいで変わるものではないらしい。
そんな風に言葉を交わしながらのんびりと過ごしていると、それまで黙っていたトリスタンが、突然口を開いた。
「ところでマレイちゃん。ゼーレと一緒に行くって、本当?」
えええっ!?
どうしてトリスタンが知ってるの!?
……なんて驚いたのは隠し、まるで平静を保てているかのように振る舞いつつ返す。
「その話、どこで聞いたの?」
まだトリスタンには話していなかったはずなのに。
一体どんな経路で情報を入手したのやら……。
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「そ、そうね……」
こんな時に限ってトリスタンは厳しい。
「本当なのかな?」
トリスタンの青い双眸から放たれた視線は、まるで胸を貫くかのように、真っ直ぐ向かってきている。彼に真剣な眼差しを向けられると、ごまかせる気がしない。
「えぇ……本当よ」
非常に言いにくいが、嘘をつくわけにもいかない。
今私は、ただ、真実を述べるしかなかった。それ以外に選ぶことのできる道など、存在しなかったのだ。
私の返答に、トリスタンは微かに俯く。
辺りの空気が一気に冷えた気がした。
「……そっか」
私はゼーレを選んだ。彼と生きる道を選んだ。だからもう引き返せはしない。それに、もし仮に引き返せるとしても、そちらを選択することはないと思う。
トリスタンには、ずっと世話になってきた。だから、こんな形で彼を傷つけてしまうのは、心苦しいものがある。
でも——。
もし今ここで、私が、曖昧な態度をとったら。
彼に希望の欠片を残すような態度をとったとしたら。
余計にトリスタンを傷つけてしまうことは、間違いない。
選んだ道を告げることは辛くて、罪悪感もある。
けれど、はっきりと告げるのが、一番トリスタンのためになるだろう。
だから私は正直に告げたのだ。
「それが君の、マレイちゃんの、選んだ道なんだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。君は、君が望む人生をゆけばいいんだから」
トリスタンは優しかった。
彼の優しさに、何度も救われてきた。
「僕はマレイちゃんに幸せになってほしい」
そして今も、私は、その優しさに救われている。
切なげに伏せられた青を見ると胸が痛くなるけれど、トリスタンが私の選んだ人生を受け入れようとしてくれていることは、純粋に嬉しく思う。
「だから、謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
今は、躊躇いなく、感謝を述べることができた。
トリスタンが温かく受け止めてくれたからだ。
「さ! カレー食べよっか!」
私とトリスタンの会話が一段落する時を見計らっていたのか、言葉が途切れるなりフランシスカが言った。彼女らしい、はつらつとした声色だ。
「そうだな。美味しそうなカレーだ」
「いっただっきまーすっ!!」
グレイブとフランシスカがそれぞれ述べていた。
私は、スプーンに山盛りになるくらいがっつりすくったカレーを、一気に口に含む。重い気分を振り払うかのように。
濃厚な汁と甘みのあるご飯が、絶妙の組み合わせだ。にゅるりととろける玉ねぎ、ほくっとしたジャガイモ、そして柔らかくてほろりと崩れる肉。
ゼーレのカレーは美味だった。
「へぇー、案外美味しいね……って、マレイちゃん!?」
「え?」
フランシスカは私の皿を見て、何やら驚いている。
「食べるの早くないっ!?」
「そう?」
まだ半分くらい食べただけなのだが……。
「早いよ! 早すぎだよっ!」
なぜ、と思ったが、周囲の皿を見て納得した。確かに、みんなはまだ半分も食べていない。ということは、フランシスカが言う通り、私は食べるのが早いのだろう。
だがそれは、私が食い意地が張っているからではない。カレーが美味しすぎたのが原因だ。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
殿下には既に奥様がいらっしゃる様なので私は消える事にします
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のアナスタシアは、毒を盛られて3年間眠り続けていた。そして3年後目を覚ますと、婚約者で王太子のルイスは親友のマルモットと結婚していた。さらに自分を毒殺した犯人は、家族以上に信頼していた、専属メイドのリーナだと聞かされる。
真実を知ったアナスタシアは、深いショックを受ける。追い打ちをかける様に、家族からは役立たずと罵られ、ルイスからは側室として迎える準備をしていると告げられた。
そして輿入れ前日、マルモットから恐ろしい真実を聞かされたアナスタシアは、生きる希望を失い、着の身着のまま屋敷から逃げ出したのだが…
7万文字くらいのお話です。
よろしくお願いいたしますm(__)m
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完】前世で種を疑われて処刑されたので、今世では全力で回避します。
112
恋愛
エリザベスは皇太子殿下の子を身籠った。産まれてくる我が子を待ち望んだ。だがある時、殿下に他の男と密通したと疑われ、弁解も虚しく即日処刑された。二十歳の春の事だった。
目覚めると、時を遡っていた。時を遡った以上、自分はやり直しの機会を与えられたのだと思った。皇太子殿下の妃に選ばれ、結ばれ、子を宿したのが運の尽きだった。
死にたくない。あんな最期になりたくない。
そんな未来に決してならないように、生きようと心に決めた。
【完結】姉に婚約者を寝取られた私は家出して一人で生きていきます
稲垣桜
恋愛
私の婚約者が、なぜか姉の肩を抱いて私の目の前に座っている。
「すまない、エレミア」
「ごめんなさい、私が悪いの。彼の優しさに甘えてしまって」
私は何を見せられているのだろう。
一瞬、意識がどこかに飛んで行ったのか、それともどこか違う世界に迷い込んだのだろうか。
涙を流す姉をいたわるような視線を向ける婚約者を見て、さっさと理由を話してしまえと暴言を吐きたくなる気持ちを抑える。
「それで、お姉さまたちは私に何を言いたいのですか?お姉さまにはちゃんと婚約者がいらっしゃいますよね。彼は私の婚約者ですけど」
苛立つ心をなんとか押さえ、使用人たちがスッと目をそらす居たたまれなさを感じつつ何とか言葉を吐き出した。
※ゆる~い設定です。
※完結保証。
【完結】愛されなかった私が幸せになるまで 〜旦那様には大切な幼馴染がいる〜
高瀬船
恋愛
2年前に婚約し、婚姻式を終えた夜。
フィファナはドキドキと逸る鼓動を落ち着かせるため、夫婦の寝室で夫を待っていた。
湯上りで温まった体が夜の冷たい空気に冷えて来た頃やってきた夫、ヨードはベッドにぽつりと所在なさげに座り、待っていたフィファナを嫌悪感の籠った瞳で一瞥し呆れたように「まだ起きていたのか」と吐き捨てた。
夫婦になるつもりはないと冷たく告げて寝室を去っていくヨードの後ろ姿を見ながら、フィファナは悲しげに唇を噛み締めたのだった。
【完結】待ってください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ルチアは、誰もいなくなった家の中を見回した。
毎日家族の為に食事を作り、毎日家を清潔に保つ為に掃除をする。
だけど、ルチアを置いて夫は出て行ってしまった。
一枚の離婚届を机の上に置いて。
ルチアの流した涙が床にポタリと落ちた。
もう好きと思えない? ならおしまいにしましょう。あ、一応言っておきますけど。後からやり直したいとか言っても……無駄ですからね?
四季
恋愛
もう好きと思えない? ならおしまいにしましょう。あ、一応言っておきますけど。後からやり直したいとか言っても……無駄ですからね?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる