暁のカトレア

四季

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episode.81 優しさに触れたら

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 覚悟はできた。たとえどんな目に遭おうとも、私は目の前の敵を倒す。今はただ、それだけだ。

「もう動けないのかなー?」

 クロの爪が迫る。もうまもなく、私の腕に突き刺さるだろう。

 ——だが、そこがチャンスだ。
 距離が近づき、敵も油断している。その瞬間を狙えば、この危機から逃れられる確率は高い。

「ばーいばーいっ」

 至近距離にまで迫ってくるクロに、私は、右手首の腕時計を向ける。

 そして、光線を放った。

 腕時計より溢れた赤い光。それは一筋の太い光線となり、一メートルほどしか離れていないクロの体を貫いた。私がやったとは到底思えぬ、見事な直撃だ。

 クロの小さく軽そうな体は勢いよく吹き飛ぶ。そして壁に激突した。

「よし、当たった……」

 気が緩み、倒れ込みそうになった瞬間、黒いマントがひらめくのが視界の端に入った。

「カトレア!」

 駆けてきたのはゼーレ。
 彼は私のすぐ横へ座り込むと、翡翠のような瞳で見つめてきた。

「無事でしたかねぇ」
「え、えぇ。私は無事よ。ゼーレこそ、大丈夫なの?」

 なぜか私が心配されてしまっているが、本来心配すべきなのはゼーレの方なのだ。ゼーレは既に怪我しているところにこの襲撃。私より彼の方が大変なのは目に見えている。

「私はべつに……何の問題もありません。この身で戦わずとも、蜘蛛を戦わせられますからねぇ」

 そうか。
 確かに、それなら本人が動けずとも戦える。

「まったく、あのトリスタンとかいう馬鹿は……本当に使い物になりませんねぇ。わざわざ来ておきながら……非常時には帰っているなんて」
「ごめんなさい、ゼーレ。私がトリスタンに帰るよういったから……」

 するとゼーレは淡々とした調子で返してくる。

「いえ。べつに貴女を責めているわけではありません」

 彼の声色は静かだ。危機の中にいるとは思えぬほどに落ち着いている。
 だが、それだけではなく、優しさも微かに感じられた。彼は不器用だが、不器用なりに私を思いやってくれているのだろう。

「……優しいのね」

 私は半ば無意識にそんなことを言っていた。
 こんな言葉がするりと出たのは、多分、彼の優しさに触れたからだろう。ゼーレの言動から思いやりを感じられたからこそ、私も素直になれたのである。

「ゼーレ、貴方って本当は優しい人よね」

 すると彼は、頬をほんのり赤らめつつ、ぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやら照れているらしい。少し可愛いと思ってしまった。

「私は優しくなどありません」
「そう?」
「忘れたのですか、カトレア。私は貴女からすべてを奪った人間です」

 彼の発言は間違ってはいない。
 だが、いくら辛いことだったからといって、過去に囚われ続けるのはナンセンスだ。

「貴女は本来……私を憎むべきなのです」

 ゼーレはきっぱりと言った。その言葉と声色は、一切迷いがないように感じさせる。

 しかし、彼が憎まれることを望んでいないということは、表情を見ればすぐに分かった。彼はこんなことを言ってはいるが、実際のところ憎まれ続けたいと思っているわけではないのだと、表情から伝わってくる。

「どうして? 今はもう仲間じゃない」
「……ほう。なるほど。相変わらず、救いようのないお人好しですねぇ」
「何とでも言ってもらって構わないわ」

 仲間なら、ちょっとやそっとの喧嘩くらい、起きたって悪くはない。そうやって仲は深まっていくものなのだから。


 その時。
 壁に激突して動かなくなっていたクロが、その小さな体をむくりと起こした。白い毛に包まれたネコ耳も、ピクピク動いている。

「うぅーん……結構やられちゃーったなー……」

 赤い光線が直撃したのだ、そこそこ大きなダメージを与えられているはずである。しかしクロは呑気な喋り方のまま。ダメージを受けた様子はあまり見受けられない。

「やっぱり、ボスの命令に逆らうようなことをしたらー、痛い目に遭うってこーとかなっ? こわーいなー」

 クロは、雪のように白い髪を風になびかせつつ、ゆっくりと立ち上がる。

「効いていなかったってこと……?」
「効いていないということはないはずですがねぇ」

 至近距離から攻撃を叩き込めば大ダメージを与えられると思っていただけに、少々ショックだ。こんなにあっさり立ち上がってこられるとは、予想していなかった。

「やっぱ目標は、一人に絞ろーっと」

 クロの狙いが再びゼーレに戻ってしまった。
 これでは最初に逆戻りではないか。

「まだ来る気のようですねぇ……仕方ありません」

 ゼーレは呟き、蜘蛛型化け物を自身の前へ呼び集める。
 彼自身は怪我で上手く動けない。だから、蜘蛛型化け物たちに戦わせるつもりなのだろう。

「いきなさい! ただし、火は使わないこと!」

 そう指示が放たれた瞬間、蜘蛛型化け物たちは一斉に動き出す。床を不気味に這いながら、近づいてくるクロを迎え撃つのだ。
 そして、蜘蛛型化け物にクロの相手をさせておきながら、ゼーレは私の方を向く。

「カトレア、ここから出ていって下さい」
「……え? どうして?」

 彼の瞳は真剣な色を湛えていた。

「あれの狙いは私です。貴女を追いかけはしないでしょう」
「待って。どういうことよ」
「先にここから去りなさい、と。そう言っているのです」

 割れた仮面の隙間から覗く翡翠のような瞳。それは、今までで一番美しく、鮮やかな色をしていた。

 なのに、なぜだろう。

 今ここで別れたら、もう会えないような気がした。
 具体的な根拠があるわけではない。会えないような気がする理由もない。ただ、『そんな気がする』というだけのことだ。

 ……でも。

「嫌よ。私、貴方をここに置いてはいけない」

 クロの爪に抉られた脇腹と左腕は、少し時間が経った今でも、じくじくと脈打つように痛む。出血は止まってきているものの、赤いものが流れた跡はくっきりと残っている。

 辛くて、逃げ出してしまいたい。こんな厳しい状況下で戦い続けるなんて嫌だと、そう思う。
 けれども、ゼーレを放って逃げ出すのは、もっと嫌だ。

「私はまだ戦える。だから、今のうちに、早く倒してしまった方がいいわ」

 するとゼーレは呆れたように返してくる。

「強情な女ですねぇ……分かりました」

 珍しく、早く理解してくれた。純粋に嬉しい。

「無理だけはしないで下さいよ」
「えぇ! もちろんよ!」

 体内の血を結構な量失ったからか、なんとなく寒い感じがする。それに加え、脇腹は痛いし、左腕は動きにくいし。これまでに体験したことのない、調子の悪さだ。

 だが、ゼーレが私の意見に賛同してくれたという事実は、弱った体に元気を注ぎ込んでくれた。不思議なことに、胸の奥から力が湧いてくる。

 これなら戦える。

 私は今、一切の迷いなく、そう思えた。
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