暁のカトレア

四季

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episode.56 妥協点を探しつつ

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 目の前には大蛇の化け物。
 頭部を勇ましく持ち上げたそれは、高さが二メートルくらいありそうだ。胴は太く、私よりも高い位置に頭がある。一般人が目にすれば、パニックになるか硬直するかの二択だろう。

 それでも、あの夜私の生まれた村を焼いた巨大蜘蛛の化け物に比べれば、まだ小さい。この程度の大きさなら、何とかならないこともなさそうである。

「駄目だよ! マレイちゃん!」

 背中側から聞こえてくるのはトリスタンの声。
 焦ったような声色だ。

「君一人じゃあれには勝てない! 勝てるわけがない!」
「それでも、ここでやられるわけにはいかないでしょ!?」

 私は鋭い言い方をしてしまった。

 心から尊敬するトリスタンに、鋭い調子で物を言うなど、本来ありえないことだ。けれど、その「本来ありえないこと」をしてしまった。それは、危機的状況にあったからだと思う。

 ……言い訳だと思われるかもしれないが。

「マレイちゃん、僕が!」
「動いちゃ駄目よ。トリスタンは無理しないで」
「僕は平気……っ」

 トリスタンは大きな声を出しながら、立ち上がろうとして、すぐに膝を折った。手で右足首を掴み、顔をしかめている。どうやら右足首が痛むようだ。どこからどう見ても平気そうではない。

 私は彼に駆け寄りたい衝動に駆られた。

 痛みに苦しむトリスタンを一人にしておきたくない。せめて、傍にいて励ましてあげたい。

 だが、そんな呑気なことをしている暇などない。
 今は大蛇の化け物を倒すことに集中しなくては。

「トリスタンはそこにいて」

 座り込んでしまっている彼を一瞥し、柔らかな微笑みを浮かべる。
 少しでも安心してほしい。そんな思いからだった。

 そしていよいよ、大蛇の化け物へ視線を向ける。大蛇の化け物もこちらを見ていたらしく、視線が交わった。背筋を冷たいものが駆け抜ける。

 化け物と直接対決をするのは怖い。寒気がするほどに、恐ろしい。
 けれども、今さら退くことなんて不可能だ。既に引き返せないところまで来てしまっているからである。ここまで来てしまったら、戦い、倒すなり何なりするしかない。

 私は大蛇の化け物へ、腕時計を装着した右腕を向ける。戦いの幕開けだ。

「はぁっ!」

 赤い光球を撃ち出す時、気合いのこもった声が自然に出た。
 確かに私なのに、私ではないみたいな声だ。まったく別の誰かに操られているかのような、不思議な感覚である。

 腕時計から放たれたいくつもの光球。それらは、大蛇の化け物に向かって、一斉に飛んでいく。

 数秒後、私が放った赤い光球は、大蛇の化け物へ命中した。

 ドドッ、という低音が響く。

 これだけ浴びせれば、それなりのダメージは与えられただろう。もしかしたら虫の息にまで追い込めたかもしれない、とさえ思った。


 その時。

「危ないっ!!」

 耳に飛び込んできたのは、トリスタンの鋭い声。
 私は咄嗟に身構える。

 刹那、大蛇の化け物の尾が迫ってくるのが見えた。

 ——避けないと。

 本能的にそう感じた。

 あの太いものを叩きつけられては、間違いなく怪我をする。それも、大怪我になることだろう。そんな目に遭うのは嫌だ。

 私はその場から離れようと試みる——より一瞬早く、トリスタンが私の体を抱いていた。彼はその体勢のまま、飛び退く。抱き締められているせいでトリスタンの白い衣装しか見えない。だが、衝撃がこなかったことを考えると、恐らく、尾はかわせたのだろう。

「大丈夫?」

 床を転がり、その勢いに乗って中腰になると、彼は尋ねてきた。

「え、えぇ。平気よ。トリスタンは?」
「大丈夫だよ」

 トリスタンは、こちらへ視線を向けて、優しく微笑む。
 リュビエに連れ去られる前と変わらない、ふんわりとした笑みだった。眺めているだけで穏やかな気持ちになってくるのだから、凄いことである。

「やっぱり、マレイちゃんにはまだ無理だよ。ここからは僕が」
「いいえ。まだ戦えるわ」
「いや、後は僕がやる。君にこれ以上無理はさせられないからね」
「それはこっちの言葉よ」

 私とトリスタンは、大蛇の化け物の動きが止まっている間、そんな細やかな言い合いをした。

 こうして近くにいられること。触れ、言葉を交わせること。

 一見当たり前のようだが、今はそれが、心臓が大きく鳴るほどに嬉しい。上手く言葉にはできないが、とにかく喜ばしくて仕方ないのだ。

「いいから、僕に任せて」
「嫌よ。私も役に立ちたいの」

 こんなことをしている場合ではない。それは十分理解している。にもかかわらず、こんな無意味な言い合いを続けてしまうのは、トリスタンが近くにいるという安心感ゆえだろうか。

「とにかく、私も戦うから!」
「……そっか。そこまで言うなら仕方ないね」

 トリスタンは、じゃあ、と続ける。

「二人で!」

 それが彼の出した提案だった。

 私はその提案に、首を縦に振る。
 トリスタン一人に戦わせて私は何もしない、というのはもう嫌だ。私だって化け物狩り部隊の一員だもの、無力な存在ではありたくない。

 けれど、二人で、というのは良いと思う。
 二人で戦うのなら、トリスタンの負担を軽くするよう努められる。そして、私一人で戦うよりも、敗北するリスクは低い。お互いフォローしあえるというのは魅力的だ。

「そうね。そうしましょう」
「決まりだね」

 二人で戦う、に決定。

 しかし、次の疑問が生まれてくる。

「トリスタン武器は? 素手はさすがにまずいわよ」

 すると彼は、どこからともなく、ナイフを取り出してきた。

「これを使うよ」

 装飾のない、短めのナイフだ。刃の部分に紫の粘液がこびりついているところを見ると、既に、化け物と戦うのに使用したものと思われる。

「それでいいの?」
「うん。マレイちゃんの援護があれば、これで十分」

 トリスタンの均整のとれた顔には、余裕の色がはっきりと浮かんでいた。自身に満ちた口元と、凛々しさのある目つきが、印象的だ。

 それから彼は、ナイフを持ち、構えをとる。

 先ほど痛そうにしていた右足首が問題ないのか、少々気になるところではある。だが、今の彼を見ている分には、問題なさそうだ。だから、「大丈夫なのだろう」と前向きに考えるように心がけた。

 今、二人の見つめるものは同じ。

 目の前にいる大蛇の化け物を倒す——ただそれだけだ。
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