暁のカトレア

四季

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episode.9 罪悪感

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 ゼーレが去った後、トリスタンは剣をしまい、話しかけてくる。

「マレイちゃん、怪我はない?」
「えぇ。おかげさまで無事よ」

 こちらへ歩いてくるトリスタンは、今朝の怪我など微塵も感じさせない。巨大蜘蛛の化け物に抉られた傷はまだ治っていないはずなのだが、傷を庇っている感じはなかった。

「それよりトリスタン、今朝の傷は平気なの?」
「あぁ、うん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「もちろん。気を遣ってくれて、ありがとう」

 トリスタンは穢れのない柔らかな笑みを浮かべる。

 こんな笑みは向けられては、さすがの私もときめいてしまいそうだ。私でこれなのだから、彼を恋愛対象として見ている女性なら惚れないはずがない。

「戻ろうか、マレイちゃん」

 木々が夜風に揺られ、ガサガサと音を立てていた。

 ——夜の闇は嫌いだ。
 母親を亡くしたあの瞬間を、すべてを失ったあの夜を、思い出してしまうから。

「……っ」

 涙が浮かぶ。
 泣くつもりはなかったのだが、気づけば瞳は湿っていた。溢れ出した涙は頬を濡らし、やがて顎からぽつりと落ちる。

 なぜ涙が出るのかは、よく分からない。

 今の私に分かるのは、恐怖と悲しみが混ざったような得体の知れない感情が、胸を満たしているという事実だけだ。

「マレイちゃん、大丈夫?」

 目からこぼれ落ちる涙を手で拭っていると、トリスタンが声をかけてきた。静かだが戸惑いも感じられる声色だ。

「……っ。ごめん、なさい……」
「謝らなくていいよ。こちらこそ、怖い目に遭わせてしまってごめんね」
「トリスタンは悪くない……」

 悪いのは私だ。

 夜に一人で飛び出したりしたから、危険な目に遭った。
 自業自得である。

「私が……勝手なことしたのが……」
「違うよ」

 トリスタンはキッパリと言い、私の手をそっと握った。
 彼の手は大きい。しかし繊細で、優しさが感じられた。目鼻立ちと同じく、中性的な雰囲気が漂っている。

「マレイちゃんは悪くない。今も、昔も」

 ——昔も?
 脳内に疑問符が浮かぶ。

 今は分かる。だが「昔も」という部分には違和感を感じずにはいられない。
 だって私たちは、今朝知り合ったばかりだもの。

「昔も、って、どういうこと?」

 睫毛についた涙の粒を腕で拭い、目を開いて、トリスタンへ視線を向ける。そうして視界に入った彼の顔は、真剣な表情だった。凛々しく整った、トリスタンの顔である。

 場は暫し沈黙に包まれた。夜の闇は肌を刺すように冷たい。

 それから少しして、彼はゆっくりと口を開く。

「……ごめんね」

 唐突に謝罪したトリスタンの瞳は、雨降りの空みたいだった。暗い表情が彼の美しさを引き立てているのだから、皮肉なものである。

「え?」
「君の村が滅んだ、あの夜」
「あの夜のことを知っているの?」

 怪訝な顔になりつつ私は尋ねる。

 今朝出会ったばかりだと思っていた。当たり前のように、そう思っていたのだ。
 だが、もしかしたら違うのかもしれない——そんな考えが、この時、初めて脳裏をよぎった。

 トリスタンは以前から私を知っていたのだろうか。それなら、出会ったばかりなのに優しくしてくれたのも、納得がいく。ありえない話ではない。

「そうなんだ。僕はあの夜、化け物出現の連絡を受けて、マレイちゃんの故郷の村へ向かった。でも遅かったんだ。僕が着いた時には、村は既に、ほとんど壊滅状態だった」

 冷たい風が髪を揺らす。暗闇の中でこうして話していると、まるで世界に私たち二人しかいなくなってしまったかのような、そんな気すらする。

「そんな時だったかな、逃げ遅れた親子を発見してね。急行したものの、結局、子の方しか助けられなかった」

 彼の言葉を聞いた時、一瞬にして目の前が開けた気がした。
 私の目の前に存在する、薄暗くもやのかかった、数歩先さえ確かではないような道。そこへ一筋の光が差し込み、私に「進め」と言っているような、そんな感覚。

「じゃあ、あの夜私を助けてくれたのは貴方だったの?」

 なぜ考えてみなかったのだろう——トリスタンと私が知り合いであった可能性を。

「そうなるね。ただ、僕は君だけしか救えなかった。だから……ごめん」

 トリスタンはそう言うと、僅かに俯き、憂いの色を浮かべる。

 彼に罪はない。あるわけがないではないか、私の命を救ってくれたのだから。
 しかし彼は罪悪感を抱いている様子だ。だから私は、いつもより明るい調子で、大きめの声を出す。

「トリスタンは悪くないわ!」

 驚いたような顔でこちらを見るトリスタン。

「あの時助けてくれた人、貴方だったのね! 助けてくれて、ありがとう!」

 私は、彼に絡みつく鎖ではありたくない。
 だから、いつもより明るく振る舞う。

「でもトリスタン、最初から分かっていたの?」
「ううん」
「なら、いつ気がついたの?」

 すると彼は、少し間を空けてから、小さな声で述べる。

「名前を聞いた時だよ」

 トリスタンは、答えてから気まずそうな顔をする。私の顔色を窺っているような表情だ。
 自分は助けた側だというのに、感謝を求めることはせず、それどころか罪悪感を抱く。彼の心は謎だらけである。同じ人間だとは、どうも考え難い。

「もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「勇気がなくて、なかなか言い出せなかったんだ。ごめんね」
「別に、謝らなくていいわ」

 まるで私が謝らせているみたいで、少々悪い気がするのだ。

「あ……うん、ごめんね」
「ほら! また謝った!」
「ごめん。これから気をつけるよ」
「ほら! また!」
「あ。ごめ……いや、違っ。わ、分かったよ」

 やたらと「ごめん」ばかり言ってしまい狼狽えるトリスタンは、愛らしい。上手く言葉にできないが、とにかく愛らしかった。

「よし、取り敢えず戻ろうか。アニタさんが心配するから」
「……嫌よ。怒られるわ」

 制止するのも聞かず飛び出してきてしまったのだ、間違いなく怒られることだろう。アニタに叱られるところなど、想像するだけで気分が悪くなる。

「大丈夫。事情は僕がちゃんと説明するから」

 歩き出すのを渋る私に、トリスタンは微笑みながら言う。
 彼の微笑みからは、純真さが滲み出ていて、凄く綺麗だった。まるで天使のよう。

「でも、アニタは聞いてくれないかもしれないわよ?」
「なんとか頑張るよ。だから、マレイちゃんは心配しないで」
「そう言われても、心配しかないわ……」

 トリスタンがアニタに押し勝てるとは思えない。

「え、そう? 僕あまり信頼されてないのかな?」

 言い終わってから、彼は深海のような青い瞳で、私をじっと見つめてきた。吸い込まれそうになる瞳だ。

「けど、本当に問題ないよ。話は僕がつけるから」

 真っ直ぐな視線に戸惑っていると、彼は再び笑みをこぼす。

「さ、宿に帰ろう」
「……えぇ」

 私は彼を直視できず、やや俯いて返事をした。


 この時、私の心は既に決まっていた。トリスタンについていこう、と。

 二度、三度、彼は私を救ってくれた。これもきっと、何かの縁なのだろう。それなら、彼についてまだ見ぬ地へ飛び出すというのも、悪くはない——今は、そんな気がするのだ。
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