暁のカトレア

四季

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episode.3 巨大蜘蛛との交戦

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 私たちの前に突如現れた、蜘蛛の形をした巨大な化け物。それは、八年前のあの夜、私からすべてを奪った化け物に違いなかった。あの頃の私はまだ幼かったため、いまいちよく分かっていない部分はあったと思う。しかしそれでも、この太くて長い幾本もの脚は、確かに記憶に残っている。これほどはっきり覚えているのは、よほど恐ろしかったからに違いない。

「と、トリスタン。逃げなくちゃ……」
「マレイちゃんは下がっていていいよ」
「……え?」

 トリスタンの顔つきは、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
 もちろん美しい容貌自体は変わらないのだが、放っているオーラがまったく違う。ほんの数分前までの穏やかで柔らかな雰囲気が嘘のようだ。

「療養中なんで、あまりやり合いたくないんだけどな」

 ぼやきながら、トリスタンは、腕時計の文字盤部分に人差し指と中指の先を当てる。すると文字盤が発光し始めた。
 私はその様子をまじまじと見つめる。

「ま、仕方ないね」

 はぁ、と溜め息を漏らすトリスタン。その右手には白銀の剣が握られていた。
 私はそれを見て、「どういう仕組みなのだろう?」と疑問に思ったが、問いかける暇はない。目の前の化け物をどうにかするのが先決である。

「マレイちゃんはそこにいて!」

 トリスタンは背後の私を一瞥し言い放つ。
 目前に敵がいる緊迫した状況というのもあってか、彼の声色は厳しい。しかしどこか柔らかさを帯びてもいる——そんな気がした。

「すぐに終わらせるから!」

 そう宣言し、トリスタンは跳んだ。
 人間離れした跳躍力で巨大蜘蛛の化け物へと接近し、白銀の剣を振り上げる。そして、彼を狙った巨大蜘蛛の脚を、見事に斬った。

 この戦闘力。もはや人間のそれではない。

 巨大蜘蛛は負けじと炎を吐き出す。トリスタンは宙で身を返し、華麗な身のこなしで炎をかわすと、一度退き着地する。

「凄い……」

 私は半ば無意識に漏らしていた。

 彼の動きが、運動神経が良いなどという次元ではないことは、誰の目にも明らかだ。もしこの場に私以外の者がいたとしたら、今の私と同じように戸惑うに違いない。

 そんなことを考えているうちに、トリスタンは次の行動へ移る。
 脚を一本失い動きが鈍った巨大蜘蛛へ走って接近し、白銀の剣で、脚を一本二本と切り落とす。巨大蜘蛛の反撃——脚踏み攻撃を、軽い足取りでよけながら、徐々に胴体へ攻撃を仕掛けていく。

 つい見惚れてしまうくらいに華麗な動作だ。洗濯中の失敗ばかりしていた彼とは大違いである。


 ——刹那。
 巨大蜘蛛の化け物の意識が私へ向いた。

「……あ」

 私は言葉を詰まらせる。
 声が出ない。体が動かない。あの夜の光景が鮮明に蘇り、恐怖が襲ってくる。言葉にならない恐怖が私を満たしていく。

「マレイちゃん!」

 トリスタンの叫び声が聞こえた気がした。けれど私は、恐怖が大きすぎて、何も返せない。

 一本の脚が迫る。
 無防備な状態で攻撃を受ければ怪我することは必至。それも、致命傷に近い重傷を負う可能性が高い。

 私はその場で身を縮める。

 もう駄目かもしれないと思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、宿屋やアニタの光景。特別好きだったわけでもないのに、生きるために仕方なく働いていただけだったのに。ただ、結局私にはそれしかなかったということなのだろう。


 直後、ぶつかるような鈍い音が耳に飛び込んできた。

 私は驚いて瞼を開き、さらに驚く。地面に伏したトリスタンが脇腹を抱えていたからだ。

「と、トリスタン!?」

 すぐに彼の元へ向かう。
 トリスタンは顔をしかめつつ「来ないで!」と鋭く放つ。しかし私はそれを無視して、彼に駆け寄った。

 今日出会ったばかりのほぼ他人ではあるが、それでも、ある程度の時間を共に過ごした仲だ。放っておくわけにはいかない。

「大丈夫っ!?」
「う、うん。たいしたことないよ」

 そう答え、笑みを浮かべるトリスタン。しかしその顔には疲労の色が浮かんでいる。無理しているのがばればれだ。
 彼の脇腹を押さえる手に視線を落とす。すると、白い上衣に赤い染みが滲んでいるのが見えた。巨大蜘蛛の脚にやられたのだろう。傷が見えなくても、結構な深手であると分かる。

「出血しているわ! 早く手当てしなくちゃ」
「少し抉れたくらいだから大丈夫」
「抉れたら大丈夫じゃないと思うけど!?」
「いや、大丈夫。でも……こんなことをしている場合じゃなさそうだね」

 気づいた時には、巨大蜘蛛の意識は私とトリスタンへ向いていた。ただならぬ威圧感を漂わせつつ、ゆっくりと近づいてくる。

 巨大蜘蛛は手負いだ。既に脚を何本も失っている上、胴部分にはトリスタンが剣でつけた傷がたくさん刻まれている。
 しかしそれでも動き生きている。戦えない状態の人間が勝てる相手では到底ない。

 私は焦り、トリスタンへ目をやる。

「どうする!? 逃げる!?」

 すると彼は、赤く染まりつつある上衣のポケットから、腕時計を取り出した。銀の文字盤に皮製ベルト。トリスタンが装着しているものと同じデザインだ。

「これを使って」

 彼の表情は真剣そのものだった。

「でも、どうすれば……」
「文字盤に指二本を当てる。それから、あの化け物を倒す場面を強くイメージする。それだけでいいよ」

 トリスタンの説明は分かった。巨大蜘蛛の化け物と戦う直前に彼がやっていたようにすればいい、ということなのだろう。

 だが、私の脳内は純粋な疑問で満ちていた。私にできるのか? という疑問だ。

 腕時計のことをトリスタンは「仕事道具」と言っていた。ということは、ちゃんとした使い方説明や使用訓練を受けているはず。だからこそ使いこなせるのだろう。訓練を受けていない私がこの腕時計を使ったところで、まともに使いこなせるとは考え難い。

「でも私……」
「大丈夫。マレイちゃんならできる。だから使って」
「でも何が起こるか……」

 なかなか踏み出せない私に、トリスタンは口調を強める。

「いいから、早く!」

 その一言が、腕時計の使用を躊躇っていた私の背を押した。

「……分かった」

 何が起こるか分からない。

 だが。
 このまま二人揃って殺されるくらいなら——やってやる!

 私は歯を食い縛り、人差し指と中指の指先を文字盤へ当てる。それから「死にたくない」と強く念じる。

 巨大蜘蛛の化け物が炎を吐こうと空気を吸い込む。それを横目に見ながら、私は叫んだ。

「来ないで!!」

 この際、何がどうなってもいい。
 私とトリスタンが助かるなら、それで十分だ。
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