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本編

3.牙を剥く

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「お姉さ~ん!こっちこっち、早く!」
「う、うん。」

 はしゃいだ声の少年に急かされて、シンシアは小走りで後を追う。

 やがて景色が開け、目の前に広がるのは美しい湖畔。

 出会ってから二日目の午後、二人はあっさりと目的地に到達したのだった。


* * * * *


「ここが…。」

 波紋一つ立たない鏡のような湖面。
 対岸に見える大樹は薄青や薄紫の淡い光を纏って、湖に映し出されるさまはまるで絵画のようだった。

(…いや待って、どう見てもおかしい。)

 シンシアがここへ来るのは初めてではない。
 この森が今ほど物騒でなかった頃には、雇い主に度々素材の採集やら何やらを申し付けられ、半ば強制的に訪れていた。

 しかし、いま目にしている光景は記憶の中のものと大きく異なっている。

 少なくともあの大樹は樹齢を重ねた故の荘厳さはあるものの、単体で光を纏うほどの魔法的素質を宿してなんていなかったし、 湖だって、まるで周辺一体が完全な無風だといわんばかりに凪いではいなかった。

 どこもかしこも、こんな、神秘的とも呼べるほど異常な空間ではなかったはずだ。

 ただ、戸惑っているのはシンシアだけのようで、少年はとても満足そうに笑っている。

「ふふっ、ここまで送ってくれてありがとう。途中で魔物が襲ってきたときはびっくりしちゃったけど…。お姉さん、強いんだね。」
「…私は何も。会ったのは低級の魔物だけだったから。」
「ううん、すっごく格好良くて、ステキだったよ!」
「君の方が余程すごかったよ。あっという間に食糧を見つけてきてくれたでしょう。あれがなかったらこんなに順調に来られなかった。」

 そう、昨日の落ち込みようはどこへやら。

 急に明るく素直になった少年は、シンシアが起きたときには既にたくさんの食べられる木の実や果物を取り揃えて待っていたのだ。
 その時点でシンシアの危惧していた食糧事情がほぼ解決したといっても過言ではない。

 この森での採集は大人でも決して簡単でないはずなのに、一体どうやって集めてきたのか。
 そう疑問を口にすれば、少年は「僕、こういうの得意なんだ。」と胸を張るばかりだった。

 全ての物事が拍子抜けするほどあっさりと進んでいく。…いっそ怖いくらいに。

(でもまあ、これであとはこの子の用事が済めば終わるわけだし。)

「君はここで何を探すつもりなの?ここまで一緒に来た縁だ、私にできることがあるなら手伝うよ。」

 少年の目的について、シンシアにも大体の見当はついていた。
「どうしても必要なものがある」と魔性の森の深部を目指したのなら、十中八九、錬金術や魔法に用いる類の希少素材の採取が目的だろう。
 この辺りはそういったものの宝庫だ。

 予想どおり少年が呪いを受けているのなら、解呪か延命の儀式を行うのに必要だとか、もしくはそれを依頼するための対価として使うとか。
 呪いでなかったとしても、病を治すのに必要だとか、誰かに脅迫まがいの手口で要求されているという線もある。

 いずれにしろ、することは変わらない。

 子供一人では難儀だろうし、今さら見放すつもりがない以上、どうせ無事に連れ帰るまで付き合うしかないのだ。

「本当に?優しいね。…うん、手伝ってほしいこと、あるよ。お姉さんにしかお願いできないこと。」
「…?」

 少年は心底嬉しそうに目元を蕩けさせた。

「じゃあ、いろいろ教えてあげる。まず、この先にあるのはね…。」


「僕の巣だよ。」


「え?」

「手に入れたかったのは、お姉さん。お姉さんは、ここで僕とずーっと一緒に暮らすんだ。」

 刹那。
 少年の背後からぶわっと広がるように伸びた赤く細長い何かが、しゅるしゅるとシンシアの手足に巻き付き、彼女をその場に拘束した。

「なっ、何を!…ひぁっ!」

 突然のことに声を上げるシンシアをよそに、はうぞぞ、と腕に、太ももに絡み付いていく。
 ついには服の隙間から侵入し始めたに背筋をつー、となぞられてしまい、シンシアはぞわりと身震いをした。

 てらてらと光る舌のようなは、じりじりと素肌に到達し、直接、粘着質に舐め始めた。

「いやっ…、なに、これ…っ!触手…!?」

「ああ…綺麗だよ、お姉さん。」

 背後から無数の触手を生やしたまま、うっとりとした表情の少年が少しずつ距離を詰めてくる。

「もがいても無駄だよ。この一帯はぜーんぶ僕の結界内。だからもう、絶対に逃げられない。」

「君は…くぅっ……魔族、だったの…。…っ……じゃあ全部、私を食べるために…?」

 魔族とは、人の身体や生気を喰らって生きる種族。いつだって虎視眈々と人間を狙っている、油断してはならないのだと教えてくれたのは、シンシアの家族だった。

(じゃあ私に話したことも、頼ってみせたのも全部嘘で、私をここに誘い込むための罠だったっていうの。)

 裏切られた。…いや、違う。きっと裏切りですらない。最初から騙されていただけだ。

(私は、私の心は…。)

(利用されたのか。どんな目に遭ったって、自分の信念だけは曲げないって、そう誓って生きてきたのに。結局、馬鹿みたいに騙されて、損をするだけなのか。)

 だからお前は愚かなんだ、そう嘲笑った人の記憶が脳裏に蘇る。
 悔しくて悲しくて、じわりと目頭が熱くなった。

 その様子を見て何を思ったのか、少年はピタリと触手を止めて、シンシアの顔を覗き込んだ。

「ああ、泣かないで。怖がらせちゃった?ごめんね。 …安心して、お姉さんのことはご飯にしたりしないよ。言ったでしょ?ずーっと一緒に暮らすって。」

「……?」

 少年の言っている意味が全く理解できないシンシアは、何も反応を返せなかった。

「食べるため…かぁ。そうだね、確かに今まで僕のを断った人間たちはみーんななったよ。お姉さんのこともしようと思って近づいたから、あの時もし僕のを断っていたら、お姉さんはもうこの世にいなかっただろうねえ。」

「はっ……?なんっ…。」

(私は食事のために誘い込まれたんじゃないの?まんまと誘い込まれたから無事でいる?一体どういう…。)

 ますます訳が分からず、シンシアの頭は混乱するばかりだった。

「何でそんなことって?ここを拠点に決めてから、最初は縄張りを荒らす奴を手当たり次第に食べてたんだけど、段々それだけじゃ飽きてきちゃってさー。
…僕がここへ来るまでに見てきた人間って、どいつもこいつも弱っちくて臆病なくせに欲深くて、 頭が悪いくせに虚栄心は強くって、本当に愚かでみっともない種族だよねえって思ってたんだ。
でもまあ暇だったし、せっかくだから面白そうな個体がいたら生かしておこうかなって。ほら、僕だって全部の人間を見たわけじゃないし、突然変異ってこともあるかもしれないしさ。」

(それじゃ最近行方不明者が増えたのは、この子が元凶ってこと…?)

 そんな存在と早々に出会ってしまった自分の運の無さを呪うことくらいしか、今のシンシアにはできなかった。

「だから試してみたんだ。話しかける口実は何でも良かったんだけどね。僕たち魔族は同胞の子供をけっこう大事にするんだけど、人間はどうなのかなって検証も兼ねてさ。
僕って大人しくしてれば人間の子供に見えるし、必死にお願いしてみたら今までと違う面がみられるかもしれないでしょ?
気に入ったら生気を供給するペットとして飼ってあげようと思ったのに、みーんなこっぴどく断るんだもん。中には僕を殺そうとしたり、良い家の子供と勘違いして売り飛ばそうとする奴もいたし。
人間って薄情だよね。

…ま、とにかく。

そんな奴らと違ってすっごく優しいお姉さんは、僕のを聞いてくれたおかげで、今もこうして生きていられるってこと♡」

 あの時、間違えて食べちゃわなくて本当によかった。

 悪びれもせずそう言い放たれ、シンシアは
戦慄した。

 自分は今、思考があまりにも違う存在を目の当たりにしている。
 そして、彼の言葉が偽りなき本心であるのなら、自分がこれから辿る運命は…。

「生気を吸い続けるために、私を…食糧として飼うつもり…?」

 話の流れからして、当然の結論だ。

 しかし、そんなシンシアの予想に反して、少年は何故か目を丸くして慌て始めた。

「まさか!ああごめん、言葉が足りなかった?違う、違うんだよ、確かに最初はそう思ってたんだけど…。お姉さんが思ったよりずっとずっと優しかったから…僕は、その…えっと…。」
「?」

 急にモジモジと歯切れが悪くなる少年。

 やがてその口から紡ぎ出された言葉は。

「…好きになっちゃった。だから、僕のつがい…お嫁さんにしたいんだ。」
「………は?」

 ぽっ…♡と頬を染め、熱を持った瞳で見つめられ、シンシアはポカンと開いた口を塞ぐことができなかった。

「………誰が…誰を…?」

「僕が、お姉さんを。」

「…嘘……。」

 訳が分からない。こんな展開になる要素が一体どこにあったというのか。

「嘘じゃないよ。自分じゃ気づいてないの?
凛々しくて、そっけなく見えるけど優しいお姉さん。大好き…♡
ねえ、いいでしょ?お姉さんの綺麗な銀色の髪も、僕の黒髪と対になってるみたいでさ、お似合いだと思うなぁ。」

 少年は夢見るような表情で触手を動かし、長い銀髪をするりと持ち上げてみせた。

 全ての言動の、あまりの異常さにぞわりと鳥肌が立つ。

「っ、冗談はやめて!そんなの、ただの独りよがりだ…!」

 吐き捨てるように言っても、少年は楽しそうに微笑むばかり。

「独りよがり?…ふふ、じゃあさ、じゃなくなればいいんでしょ? お姉さんも心から望んでくれるなら問題ないよね。…だから、好きになってもらうために、いーっぱい気持ちよくしてあげる♡」

 そう言って、少年はこれ以上ない笑顔を見せたのだった。
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