王太子殿下の執事様

萩 葵

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やっぱり、現実は小説よりも奇なり

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「あ、あの、離してください…」

引きつった顔でルーカスは、頬を染めたチェチェーリオを、その腕の中で見上げた。
自分が思ったより、弱々しい声が出て、ルーカスは舌打ちしたい気分になる。
そんなルーカスを見つめて、チェチェーリオは声を上げる。

「ああ!なんて美しい瞳だ!アメジストの中で、光の妖精が躍っているかのようだ!これこそ、美の結晶!人類の至宝!…あぁ、まさしくここが、天国への入り口のようです」

(是非そのまま、召されてください)

早く離せ、と自分を抱いているチェチェーリオの腕を振り払おうとするが、瞬きもせずにルーカスの瞳を見つめてくるチェチェーリオは、微動だにしない。

「チェチェーリオ!」

後ろからベオルグ医師が、チェチェーリオの肩をグイっと引き戻した。

「気軽に触れていい方ではない。離れなさい」

その厳しいベオルグ医師の言い方に、ルーカスは目を見開き、ビクリと体を揺らす。
しかし言われた張本人は、夢から覚めたように、フラフラとルーカスから体を離した。

やっと離れた、とルーカスはホッとして、ローテーブルの上を見た。
もうスープに、全く食指しょくしが動かない。
ルーカスは、奇跡的に零こぼれていなかったグラスを見て安心した。

「…は、申し訳ありません。… …しかし流石、王太子殿下でございますね。このように可憐かれんうるわしく、心まで清らかなルーカス様を唯一の従僕とされるとは。従僕を付ける事を、あれだけいとうておられたのは、このような方を知っておられたからでしょう」

夢見るように語るチェチェーリオを見て、ベオルグ医師は苦々しい顔をした。

「お前のその悪癖あくへきを治さねば、いつまでも一人前と認められん。自分が美しいと思うものがあると、はなった矢のように飛んでいくのはやめなさい」

「ですが、師よ。美しいモノを美しいと認めているだけです。それがそんなに罪な事でしょうか?現に、美しい従僕はそれだけで、その家の財産ではありませんか」

ベオルグ医師は、そのチェチェーリオの言葉を聞いて、渋い顔をした。

前世の記憶があるルーカスも驚いたのだが、この世界の従僕は、顔で選ばれる。
現代の日本だったら、炎上必至の雇用条件である。

だがこの世界は、いっそ清々しい程に、顔が良ければ価値が高くなり、当たり前のように、いい就職先に付ける。
美しい従僕を飾り立て、いかに沢山雇い入れるか。
それが、貴族たちの見栄であり、従僕の見た目そのものが財産になる。
その人の能力や地位等は、従僕には関係ないのだ。

ただし、専属執事は別である。

専属執事とは、主人のその日のスケジュール、食事の好みや服装など、全てを把握し、常に付き添っている執事の事だ。
やっている事は、そんなに従僕と大差はないが、把握する域は膨大であり、深くなる。
そんな専属執事は、男性の上級貴族しか持つことが出来ない。

何故なら、専属執事は上級貴族の三男以下がなる職業だからだ。
主人が、その専属執事より地位が低かったら、笑い者にされる。
顔が良く、知識が豊富な、地位の高い専属執事を付ける事が、男性貴族のステータスにそのまま繋がるのだ。

だいたい従僕の中から選ばれ、主人が15歳になると専属執事に指名される。
そして、主人が成人する18歳で、生涯仕える専属執事と決められる。

そんな専属執事は、その主人と遜色ない権力を、握る事となる。

王太子殿下の専属執事が、たった1人の従僕で、公爵家出身であるルーカスになると予測するのは、誰にでも容易たやすい事であった。

「ルーカス様が王太子殿下の専属執事に指名されるまで、後1年もありません。王太子殿下へおこなう閨の指導は、是非、このチェチェーリオをご指名下さいませ。初々しいルーカス様の前で言うのははばかられますが、とても気持ちよくなれると、貴族の皆様にもご好評頂いております」

全く憚っていないチェチェーリオの言葉に、ルーカスは困惑する。

「閨?気持ちよく?」

不穏な言葉に、ルーカスは不安になる。

「チェチェーリオ、いい加減にしなさい。そのようなことは、ランセント公爵家の方がお決めになることだ。余計な口出しは、命取りになることを、肝に銘じなさい」

毅然としたベオルグ医師の言葉に、あのチェチェーリオが黙り込んだ。

「ルーカス様、本当に申し訳ございません。このようなお話では、食指が動かないのも、無理はございません。また後ほど、新しいものを持って来させましょう」

ベオルグ医師はそう言うと、チェチェーリオにローテーブルを持つよう言い、ルーカスに寝るよう促して、足元にあった柔らかな布団をかける。
そして追い立てるように、チェチェーリオを部屋から追い出し、自分も退出の挨拶を丁寧にして、姿を消した。

嵐のようなチェチェーリオとベオルグ医師が消えて、部屋が静かになると、ルーカスはやっと人心地ついた。

目覚めて今まで、怒涛のような情報が降って来たのだ。
疲れた頭で、布団の中へと潜り込んだ。

ふかふかの布団の中で、ルーカスは胎児の形をとって、微睡まどろむ。
その浅い眠りの中で、レイモンドを思い出した。

(あぁ、レイモンド様とはもう二度と、リアムとして会う事はないんだな…)

知らない間に、涙は枕へこぼれ落ちていた。

辛い事や悲しい事は色々あったが、それでもレイモンドと笑い合った日々も、確かにソコにあったのだ。

そして遠い日の、家族の面影。

リアムがルーカスとして生きて行くためには、その全てを捨てなければならない。

いつしか微睡みは消えて、ルーカスは本格的に泣き出した。
音を消すために、枕へ顔を埋める。

グズグズと肩を揺らしながら泣くルーカスの頭を、大きな手が優しく撫でる。

その手に驚いてルーカスが見ると、横にはオリバーによく似た顔立ちの青年が、膝を屈めて手を伸ばしていた。

「何を泣いている?」

その低く心を落ち着けるような声に、ルーカスはまた泣き出す。

「ほら、泣くな。いい子だ」

その大きく優しい手に撫でられながら、ルーカスは思うまま泣き、そしていつしか眠りの海へと漕ぎ出した。
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