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第2章 幼少期~現在と過去編~
15 わたしと救済案
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「ふ~ふふふ~ん、ふふ~ん」
幼い鼻歌が聞こえる。
少女は腕に温かな宝石を抱き、宥めるようにゆらゆらと身体を左右に揺らしていた。
その部屋は狭くてみすぼらしく、天井や壁には穴が、ベッドのシーツは使い込まれてボロボロで茶色く汚れている。柔らかで真っ白な絹に包まれた少女の腕の中のものは明らかにこの部屋と不釣りあいだった。
腕の中の宝石はすやすやと寝息を立て、その寝顔はまるで天使のようだ。
少女は嬉しそうに頬を撫でる。
(ああ、わたしの可愛い可愛い真珠ちゃん。ゆっくりぐっすりおやすみなさい。)
少女はその見た目にそぐわぬ母性溢れる微笑みを零すと、また鼻歌を奏でる。
その部屋には少女の声だけが響いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
熱が身体を包み、瞼を開けさせないようにと何かがのしかかっているようだった。
だが、全く不安はなかった。体が揺れて逆に懐かしく、安心する感覚を覚える。ああ、この中なら安全だなという根拠のない確信が頭の中にあふれていた。
しかし、その安心は突然なくなる。待って、行かないでと手を伸ばしても届かない。自分の身体が小さいことがこんなに悔しい、自分はこんなにも無力だなんてと泣き喚いてもそれは戻ってきてくれなかった。
だから、もう失いたくなかった。ティファニアはめいいっぱい腕を伸ばした。今度こそ一緒に居られるように、と。
「お嬢様!」
不意に名前を呼ばれ、ティファニアは重い瞼をこじ開けた。
「あ、ありっさ?」
目の前にはアリッサがおり、ティファニアが空を掴むようにあげていた手を心配そうに握っていた。
「うなされておりましたが、大丈夫ですか?」
どうやらティファニアはベッドの上でうなされていたようで、息が少し乱れ、服がしっとりと汗で濡れていた。
ティファニアは何か辛い夢を見ていたのはわかったが、内容が全く思い出せなかった。しかし、心に小さな穴がぽっかり空いたのだけはわかった。
「ちょっと、かなしいゆめ、みただけ。」
ティファニアは心臓の部分を握った。無性に苦しかったのだ。その苦しさから逃れるようにきつく歯を食いしばった。
そんな悲痛な顔をしたティファニアをみたアリッサは優しくティファニアを抱き締めた。
「お嬢様、悲しい時は泣いていいのですよ。」
ティファニアはうんとだけ言って、柔らかなアリッサの胸で心を落ち着けるために少しだけ涙を流した。
涙が止まると、ティファニアは自分が意識を失う直前のことを思い出す。
(……確かアドリエンヌ様が『まじない』をかけられたはずだよね。やっぱり『まじない』って温かくて好きだな。そういえば、わたしが倒れてからーー…。)
どれくらい経ったのだろうとティファニアは思い、ばっと顔を上げた。
「アリッサ!ティーがたおれてから何日たった!?」
「えっ、5日ですわ。いつもより少し長くて心配いたしましたよ。」
「5日も!?」
ティファニアははぁと深い深いため息をついた。そんなに日数が経ってしまったということは、みんなと過ごせる時間がそれだけ減ったしまったということだ。
やりたいことがいっぱいあったのになと自分の横を見ると、布団がもっこり膨らんでいた。何だろうと良く見ると、茶色いふわふわした髪が覗いている。ティファニアがうふふと笑ってゆっくり布団を持ち上げると、そこには可愛い天使がすやすやティファニアの服の裾を掴みながら寝ていた。茶色いまつ毛は長く、遠くから見てもきれいにカーブしているのがわかる。少し開いた唇はぷるぷると潤う桜色、頬は桃のようにきめ細やかなで少し紅がかかっているのが可愛らしい。ティファニアはティリアの寝顔が可愛いのでとりあえず頭を優しく撫でた。
「お嬢様がずっと寝込んでいらしたのでティリア様は毎日お見舞いに来ていらしたのですわ。一昨日部屋を月の階に移動し終えましたので、それからずっとお嬢様の側に寄り添っていたのです。お嬢様の服を掴んで離しませんでしたので、こちらで少し眠って頂くことにしたのですわ。」
ティリアはアドリエンヌが雨の館からいなくなってしまったため、部屋を月の階のティファニアの近くまで移送した。それからずっと時間が許す限りティファニアについていたのだ。しかし、3歳の体力ではそんなに長く持たず、ついついティファニアの横で寝てしまったのである。ティファニアのベッドは大きく、子供二人が寝てもまだ全然余裕があり、たまに昼寝を一緒にするので何の問題もないだろう。
「そっか…。リアにしんぱいかけちゃったな…。」
小さな弟に無理させるくらいかけてしまったことにティファニアはしょぼん気が沈んでしまった。ただでさえ自分が原因で母親を奪ってしまったのだ。尚更申し訳ない。
寝ているティリアに心の中で謝りもう一度柔らかい髪をなでると、ティファニアは紅茶を用意しているアリッサの方を見た。
「ねえ、アリッサ、アドリエンヌ様はもういっちゃった?」
「………はい。既に領地で無期限謹慎となりました。」
「そっか…。」
アリッサはティファニアに紅茶を渡すと、お嬢様が気に病まれることではありませんよとティファニアを慰めた。
「…うん。ありがとう。もう、大丈夫だよ。」
そういってティファニアは詳細はお父様に聞こうと思い、熱い紅茶をふーふーと冷ます。
「……そういえば、アレはもうできたのかな?あとは、清書も終わらせないといけないね。」
「はい、いつでも準備出来ますわ。書類は私が清書してもよかったのですが、やはりお嬢様の案ですので、お嬢様がした方がいいかと思いましてあのまま手を付けておりません。いつ旦那様に提案なさりますか?」
「うーんと、やっぱり早いほうがいいな。いろんなところに話を通さなくちゃいけないし…。」
「かしこまりました。では、旦那様が今日帰ってきてからでどうでしょうか?お嬢様がお起きになったのはすぐに旦那様に伝わりますので、ご夕食の前には戻ってこられますわ。3日後にまた短い出張に行かれるそうですので、早目がよろしいかと思います。」
「うん、わかった!じゃあ、今晩話すね。アレの準備お願いね。」
ティファニアはちょうどいい温度になった紅茶を口に含み、ふーっと息をついた。この半年間、アリッサと一緒に練ってきたスラム救済案だが、領主であるラティスの許可が出ないと何も始まらない。その為、ティファニアは大丈夫だろうかと少し不安になる。
妙に手が汗ばみ、緊張する。ティファニアはそれを振り払うためにアリッサに救済案の清書をする準備をしてもらった。何かしていないとそわそわするのだ。
紅茶を飲み切り、カップをアリッサに渡すと、横で気持ちよさそうに眠るティリアの手を自分の裾から離した。そしてほっぺを少し突いて、布団をかけ直す。ティリアはだいぶ疲れているのか変わらず寝ていた。
ベッドから降りて机に向かおうとしたら、まずは身だしなみからですよとアリッサにお風呂にぽーんと放り込まれてしまった。5日も入っていなかったのだ。タオルなどで拭いてもらっていたとしても、お風呂好きなティファニアには確かに先程までの身体のベタつきはかなり気になるものだった。早く清書を仕上げなきゃと急いていたことにティファニアは少し笑った。
アリッサに上から下まで隅々綺麗に洗われると、ラティスブランドの室内ドレスを着た。ラティスが寒色系が好きなのか、今回の新作も青の動きやすいドレスだ。ティファニアはラティスが作ったものは何でも好きだが、最初のドレスが青だったので青系の色が大好きなのだ。今日のドレスも喜んで着た。
「よし!じゃあ、始めるね!!」
まず最初は、スラムをなくすために領地を富ませることについてだ。
お金を回すために、職を与え、お金を持たせる。今は街道を整備させる職がいいとティファニアは考えている。他にも警備隊を結成して治安維持をする予定なので、そちらにもつけるようする。街道整備完了後は新しい仕事の斡旋も行う予定だ。女性には機織りの工房や農家手伝いなどから一番適した場所を考えている。どの職でも男女問わず低賃金ではないように、無理な労働をさせないようにしないといけない。身体は資本なので、つぶしてしまったら意味がない。ブラック企業にならないようにしたいとティファニアは細かい規定を考えている。前世で友達がブラック企業に勤め、倒れたことがあるからだ。いつかは労働者組合の様なのを作る予定なのだ。
次に領制度の改正だ。戸籍を作り、土地を正確に測り、税金をきちんと集める。お給料や街道整備などは領庫から出すので、領運営もお金がなくては成り立たない。税金についてはアリッサの案が大きく取り入れられている。今は大人からも子供からも同じ値段の住民税をもらっているが、子供が稼ぐ能力がほとんどないので成人までは親が負担し、減額した値段を払ってもらうようにする。
そして、義務教育導入だ。これからは職の自由化を進めたいと思う。農家は農家に、商人は商人にと親の仕事を継ぐだけが将来ではないのだ。特に次男以下はなにも選択肢がない。そういう子供たちに道を作り、努力すればなんにでもなれるということを知って欲しい。その為にも教育は必須だ。文字が読めるだけで、計算ができるだけで就ける職業の幅が広がる。ティファニアは7歳から6年間を義務教育とした。週に4日、午前中が登校日だ。中学校、高等学校も建設予定だが、こちらは一定成績以上の希望者だけだ。高等学校はいわゆる大学のような専門的なことを学べるようにする。今考えている学科は領官学科、医薬学科、農業学科だ。ウルタリア領は海があり、外交も盛んなのでそのうち外国語学科、他にも経済学科、化学学科などが設立できたらいいと思っている。
他の細かい規定なども書きながら、ティファニアはどうかこの案件が通りますようにと切に願った。そして、少しインクがついた手からペンを降ろす。
「うん、できた!」
出来上がった分厚い資料はティファニアの願いがいっぱい詰まっている。それを一回ぎゅっと抱き締め、インクと羊皮紙の独特な匂いを吸い込むと、うんとティファニアは頷く。
(アレも用意してるからお父様が許してくれるといいな。)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、ラティスは御者を急かして屋敷に戻っていた。お昼にティファニアが5日ぶりに起き、一緒に夕飯を食べたいという可愛い申し出があったからだ。それを断るわけもなく、いつもの倍早く仕事を片付け、急いで馬車に乗ったのだ。
ラティスの手元には事前に読んで欲しいと言われた領内改革案がある。項目ごとに丁寧な字で書かれているそれは分厚く、誰も5歳児が書いたものとは思わないだろう。
ラティスはそれを読んで難しい顔をしていた。しかし、決して内容が悪いからではない。良すぎるのだ。長期的な見通のある実現可能なものだった。最初だけ出費が大きいが、長い目で見れば気にならないものになるだろう。だが、とラティスは思う。
(今までのものとは違いすぎるな。これは、領民が大丈夫じゃないだろう。ティーが急かす理由はわかるが、それとこれは別だろうな…。)
はぁと複雑な顔でため息をつくと、ラティスは窓から外の空を見上げた。
赤みがかった空はどこまでも澄んでいたが、沈む太陽がジリジリと何かを焦がしているように見えた。
ラティスが屋敷に戻ると、玄関にはティファニアとティリアが待っていた。
「お父様、おかえりなさい!!」
「おかえりなさい!!」
ティリアはティファニアに続いて挨拶をし、二人で一緒にラティスの胸に飛び込んだ。
ラティスはスラリとした見た目にそぐわぬ筋力を発揮し、片手に一人ずつ抱き上げた。彼は今まさに両手に華の気分である。
一通りのスキンシップを終えると、二人の子どもに手を引かれて食堂に向かう。
「お父様!今日のりょうりはティーがブルーノといっしょにかんがえたの!とってもおいしくできたんだよ!」
「本当かい?楽しみだなぁ!」
ブルーノと、という部分に少し嫉妬しながら、ティファニアの創作料理が食べれることにラティスは純粋に喜んだ。ここ数か月、ティファニアが出したアイディアをもとに作った料理は格別だったのだ。特に、ラティスはギョーザを気に入っている。ひき肉を用意するのが大変な為、食べれる頻度は高くないが、皮からあふれ出る肉汁が何とも言えないほどおいしいのだ。
今日の料理はどんなのか考えていると、後ろから声がかかった。
「旦那様、その前にお召し替えを。」
幸せな時間をぶつっと切られたことにラティスはジークを睨むが、彼は睨まれると分かっていたのか、何事もなかったように無表情を貫いている。
ラティスははぁとため息をつき、両サイドにいる子供たちに食堂で待っててくれと言って一度私室に戻った。いってらっしゃい、待っていますと言って手を振る天使たちと離れることに後ろ髪を引かれる思いだ。
ラティスが見えなくなると、ティファニアはアリッサの方を見て、グッとこぶしを握った。
「アリッサ!じゃあ、これからのアレを使って何とかお父様の機嫌をよくして、それから救済案の話をしよう!」
そう、ティファニアが言ったアレとは料理のことだ。ティファニアは料理でラティスを歓待するつもりなのだ。そして、ラティスの気分が乗ってきたときに許可をもらう。我ながらいい考えだとティファニアはにやりと笑った。隣にいるアリッサの顔が少しひきつっているのは気のせいではないだろう。
ティリアはティファニアがいつもと様子が少し違うことにきょとんとしていたが、ティファニアは普段の無邪気な笑みに戻る。
「じゃあ、リア、ごはん食べにいこ!」
「うん!!」
ああ、いつもの姉に戻ったとティリアは安心して差し出された手を取り、仲睦まじく食堂に向かった。
食堂で待っていると、直ぐにラティスがやってきた。急いだのか少しだけ髪が乱れていた。
「じゃあ、お父様、食べましょう!」
ラティスが上座に座り、その左右にティファニアとティリアが座る。そして三人で手を繋いでお祈りをすると、料理が出てきた。
まずは前菜に鳥の蒸し肉と野菜のサラダ、ドレッシングはマヨネーズのようなものを作ってもらい、それをかけている。蒸し肉があっさりしているので、少しこってりしたドレッシングととても合うのだ。
スープはティリアが好きなコーンスープである。弱火で長時間煮たそれはなめらかで舌触りがとてもいい。少し甘めになっているのは、ティファニアたち子供のためである。
次はパンだ。ふわふわしたパンがなかったため、ティファニアは酵母作りから始めた。それは失敗続きだった。時間がかかるうえに全然酵母液ができず、一度はティファニアも諦めようと思ったほどだ。しかし、この間ブルーノの弟子の一人がふわふわしたパンができたと報告してきてくれた。これにはティファニアも舞い上がってしまうほど嬉しかった。スープでふやかさないと顎がいたくなるようなパンではなく、何もなくてもおいしいパンが食べてみたかったのだ。今日のパンもふわふわしていて、バターをさっとつけるだけで十分おいしい。
今日のメインはパスタだ。パスタはうどんの材料に卵黄を入れると麺ができる。つまり、配分を間違えなければ結構簡単なのだ。基本的なことを教えてしまったら、あとは料理人たちが和えるものやのせるものを工夫することによって種類をどんどん増やしている。ちなみに、今日はあっさりしたシーフードパスタだ。ウルタリア領が海に面しているので何とか手に入れたものだ。エビがプルプルしていてとてもおいしい。
次にデザートの前だが、餃子を出してもらった。今日はラティスへの接待なのだ。相手の好物を出さない手はないと無理を言って用意してもらったのだ。特に、包む作業をティファニアがやったため、ラティスは大喜びで食べていた。
最後のデザートはフルーツの寒天ゼリーだ。餃子が重いわけではないが、ティファニアやティリアにとっては量が多いだろうとつるんと食べれるものを用意してくれたのだ。
ティファニアは接待だからラティスの好きなティラミスがよかったのにとおそらく勝手に変更したアリッサをじとりと見た。アリッサは少しだけ笑うと、澄ました顔で体調が悪かったお嬢様が優先ですと言った。そんなこというとティファニアも言い返せないので口をとがらせて拗ねた顔をした。
そんな様子を見て、ラティスは上機嫌に笑った。それにつられてティリアも笑い、ティファニアは少し納得がいかなかったが、それでも二人が笑ったのでなぜだか嬉しくなって一緒に笑った。
おなかが膨れると、紅茶を出してもらい、一息をつく。
「お父様、りょうりはおいしかった?」
「ああ、すごくおいしかったよ。ティーは本当に何でもできるなぁ。」
「うふふ、よかった。」
ティファニアは嬉しくなって破顔した。接待なんだと思って気を張っていたが、やっぱりラティスに喜んでもらえるのは純粋にうれしいからだ。
しかし、きゅっと口を結び、まじめな顔になる。ラティスもティファニアの変化を感じ取り、すっと姿勢を正した。
「お父様、先ほどお渡しした資料を読んでいただけましたか?」
「ああ、きちんと全部読ませてもらったよ。」
「それで、実行の許可をいただけますでしょうか?」
ティファニアは真っすぐとラティスを見るが、机の下の手は汗ばんでいることが分かった。目の前のラティスが既に父親としての顔ではなく、領主としての顔であるため、じわりと背中にも汗が伝う。
「まずは、率直な意見を言わせてもらおう。」
ティファニアはこくりと頷いた。
「……素晴らしい改革案だと思う。長期的な見通しが練られたものだ。戸籍を導入することで税収の正確化。職の斡旋によって領内のお金を回す。そして、義務教育の導入は将来的な人材育成。どれも現実的かつ実現可能だと思う。」
ティファニアはほっと息を吐いた。とりあえず、評価してもらえただけでもうれしい。
「……が、しかし、急激な変化に領民は耐えられないだろう。私たちは改正の意味や意図がわかっても、民の全てが理解してくれるわけではない。特に今回は長期的なものがある。税金などはまだ今ここに書いてあるのをそのまま実行するのではなく、数年に段階を分けて変えていくのがいいだろう。新しい法案は適応するのに時間がかかるからな。以上の理由で、この改正案を少しずつ領内に取り入れることなら許可する。」
確かにそうだとティファニアは思った。ティファニアの前世では当たり前の法案ばかりなので、ティファニアは直ぐに受けいることができた。しかし、この改正案は世界で初めてのことばかりだ。民はもちろん、領内を取りまとめる者たちも最初は戸惑うだろう。ティファニアは自分を急かすばかりで、すっかり領民がどう思うかを考えるのを失念していた。一番考えるべきことを忘れていたことにティファニアは肩を落としてしょんぼりした。
「確かに、お父様がおっしゃったことはもっともですね。自分のことばかりですっかり民がどう思うか考えていませんでした…。」
言葉に出すと、ますます情けなくなってティファニアの顔が下がっていった。
しかし、落ち込むティファニアを見てラティスは父親らしい笑みで優しく言った。
「落ち込むことはないよ、ティー。この改正案は本当に素晴らしかったよ。まだ生まれて5歳の子供がたった半年で練り上げたとは思えないくらいだ。私はティーが領民を考えたからこそこの法案が短期間で出来上がったと思うんだ。ティーが急かしたい理由は分かっている。でも、ちょっと立ち止まって見るのもいいと思うよ。」
ラティスは項垂れるティファニアの頭にぽんと頭を置き、髪をなでた。自分と同じ色のその髪は最近伸びてきて、痛々しい傷が残っていた頭皮はもう見えないくらいだ。
「それに、数年後には全て施行されるからいいじゃないか?こういうのは気長に待つのも大事だよ。」
ティファニアはうんと頷き、許可をもらえたことにお礼と段階に分ける案を今度提出しますと言った。
「ああ、私の方もありがとう。段階に分ける案についてはジークと文官を数人交えてくれると助かるかな。ティーだけでは大変だろうから頼ってもいいんだよ。それに、そのうち領官に任せることになるから今のうちに内容を分かる人がいた方がいいからね。」
「わかりました。じゃあ、予定合わせてもらっていいですか?」
ティファニアは後ろに控えていたジークに目線を移すと、心得たようにジークはかしこまりましたと胸に手を当て、軽く頭を下げた。
「うん。これで、改正案については良さそうだね。……それで、ティーはまだ私に話さないといけないことがあるだろう?」
そう、さっきの料理は接待目的だけじゃないのだ。ティファニアはもう一度顔を引き締めた。
幼い鼻歌が聞こえる。
少女は腕に温かな宝石を抱き、宥めるようにゆらゆらと身体を左右に揺らしていた。
その部屋は狭くてみすぼらしく、天井や壁には穴が、ベッドのシーツは使い込まれてボロボロで茶色く汚れている。柔らかで真っ白な絹に包まれた少女の腕の中のものは明らかにこの部屋と不釣りあいだった。
腕の中の宝石はすやすやと寝息を立て、その寝顔はまるで天使のようだ。
少女は嬉しそうに頬を撫でる。
(ああ、わたしの可愛い可愛い真珠ちゃん。ゆっくりぐっすりおやすみなさい。)
少女はその見た目にそぐわぬ母性溢れる微笑みを零すと、また鼻歌を奏でる。
その部屋には少女の声だけが響いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
熱が身体を包み、瞼を開けさせないようにと何かがのしかかっているようだった。
だが、全く不安はなかった。体が揺れて逆に懐かしく、安心する感覚を覚える。ああ、この中なら安全だなという根拠のない確信が頭の中にあふれていた。
しかし、その安心は突然なくなる。待って、行かないでと手を伸ばしても届かない。自分の身体が小さいことがこんなに悔しい、自分はこんなにも無力だなんてと泣き喚いてもそれは戻ってきてくれなかった。
だから、もう失いたくなかった。ティファニアはめいいっぱい腕を伸ばした。今度こそ一緒に居られるように、と。
「お嬢様!」
不意に名前を呼ばれ、ティファニアは重い瞼をこじ開けた。
「あ、ありっさ?」
目の前にはアリッサがおり、ティファニアが空を掴むようにあげていた手を心配そうに握っていた。
「うなされておりましたが、大丈夫ですか?」
どうやらティファニアはベッドの上でうなされていたようで、息が少し乱れ、服がしっとりと汗で濡れていた。
ティファニアは何か辛い夢を見ていたのはわかったが、内容が全く思い出せなかった。しかし、心に小さな穴がぽっかり空いたのだけはわかった。
「ちょっと、かなしいゆめ、みただけ。」
ティファニアは心臓の部分を握った。無性に苦しかったのだ。その苦しさから逃れるようにきつく歯を食いしばった。
そんな悲痛な顔をしたティファニアをみたアリッサは優しくティファニアを抱き締めた。
「お嬢様、悲しい時は泣いていいのですよ。」
ティファニアはうんとだけ言って、柔らかなアリッサの胸で心を落ち着けるために少しだけ涙を流した。
涙が止まると、ティファニアは自分が意識を失う直前のことを思い出す。
(……確かアドリエンヌ様が『まじない』をかけられたはずだよね。やっぱり『まじない』って温かくて好きだな。そういえば、わたしが倒れてからーー…。)
どれくらい経ったのだろうとティファニアは思い、ばっと顔を上げた。
「アリッサ!ティーがたおれてから何日たった!?」
「えっ、5日ですわ。いつもより少し長くて心配いたしましたよ。」
「5日も!?」
ティファニアははぁと深い深いため息をついた。そんなに日数が経ってしまったということは、みんなと過ごせる時間がそれだけ減ったしまったということだ。
やりたいことがいっぱいあったのになと自分の横を見ると、布団がもっこり膨らんでいた。何だろうと良く見ると、茶色いふわふわした髪が覗いている。ティファニアがうふふと笑ってゆっくり布団を持ち上げると、そこには可愛い天使がすやすやティファニアの服の裾を掴みながら寝ていた。茶色いまつ毛は長く、遠くから見てもきれいにカーブしているのがわかる。少し開いた唇はぷるぷると潤う桜色、頬は桃のようにきめ細やかなで少し紅がかかっているのが可愛らしい。ティファニアはティリアの寝顔が可愛いのでとりあえず頭を優しく撫でた。
「お嬢様がずっと寝込んでいらしたのでティリア様は毎日お見舞いに来ていらしたのですわ。一昨日部屋を月の階に移動し終えましたので、それからずっとお嬢様の側に寄り添っていたのです。お嬢様の服を掴んで離しませんでしたので、こちらで少し眠って頂くことにしたのですわ。」
ティリアはアドリエンヌが雨の館からいなくなってしまったため、部屋を月の階のティファニアの近くまで移送した。それからずっと時間が許す限りティファニアについていたのだ。しかし、3歳の体力ではそんなに長く持たず、ついついティファニアの横で寝てしまったのである。ティファニアのベッドは大きく、子供二人が寝てもまだ全然余裕があり、たまに昼寝を一緒にするので何の問題もないだろう。
「そっか…。リアにしんぱいかけちゃったな…。」
小さな弟に無理させるくらいかけてしまったことにティファニアはしょぼん気が沈んでしまった。ただでさえ自分が原因で母親を奪ってしまったのだ。尚更申し訳ない。
寝ているティリアに心の中で謝りもう一度柔らかい髪をなでると、ティファニアは紅茶を用意しているアリッサの方を見た。
「ねえ、アリッサ、アドリエンヌ様はもういっちゃった?」
「………はい。既に領地で無期限謹慎となりました。」
「そっか…。」
アリッサはティファニアに紅茶を渡すと、お嬢様が気に病まれることではありませんよとティファニアを慰めた。
「…うん。ありがとう。もう、大丈夫だよ。」
そういってティファニアは詳細はお父様に聞こうと思い、熱い紅茶をふーふーと冷ます。
「……そういえば、アレはもうできたのかな?あとは、清書も終わらせないといけないね。」
「はい、いつでも準備出来ますわ。書類は私が清書してもよかったのですが、やはりお嬢様の案ですので、お嬢様がした方がいいかと思いましてあのまま手を付けておりません。いつ旦那様に提案なさりますか?」
「うーんと、やっぱり早いほうがいいな。いろんなところに話を通さなくちゃいけないし…。」
「かしこまりました。では、旦那様が今日帰ってきてからでどうでしょうか?お嬢様がお起きになったのはすぐに旦那様に伝わりますので、ご夕食の前には戻ってこられますわ。3日後にまた短い出張に行かれるそうですので、早目がよろしいかと思います。」
「うん、わかった!じゃあ、今晩話すね。アレの準備お願いね。」
ティファニアはちょうどいい温度になった紅茶を口に含み、ふーっと息をついた。この半年間、アリッサと一緒に練ってきたスラム救済案だが、領主であるラティスの許可が出ないと何も始まらない。その為、ティファニアは大丈夫だろうかと少し不安になる。
妙に手が汗ばみ、緊張する。ティファニアはそれを振り払うためにアリッサに救済案の清書をする準備をしてもらった。何かしていないとそわそわするのだ。
紅茶を飲み切り、カップをアリッサに渡すと、横で気持ちよさそうに眠るティリアの手を自分の裾から離した。そしてほっぺを少し突いて、布団をかけ直す。ティリアはだいぶ疲れているのか変わらず寝ていた。
ベッドから降りて机に向かおうとしたら、まずは身だしなみからですよとアリッサにお風呂にぽーんと放り込まれてしまった。5日も入っていなかったのだ。タオルなどで拭いてもらっていたとしても、お風呂好きなティファニアには確かに先程までの身体のベタつきはかなり気になるものだった。早く清書を仕上げなきゃと急いていたことにティファニアは少し笑った。
アリッサに上から下まで隅々綺麗に洗われると、ラティスブランドの室内ドレスを着た。ラティスが寒色系が好きなのか、今回の新作も青の動きやすいドレスだ。ティファニアはラティスが作ったものは何でも好きだが、最初のドレスが青だったので青系の色が大好きなのだ。今日のドレスも喜んで着た。
「よし!じゃあ、始めるね!!」
まず最初は、スラムをなくすために領地を富ませることについてだ。
お金を回すために、職を与え、お金を持たせる。今は街道を整備させる職がいいとティファニアは考えている。他にも警備隊を結成して治安維持をする予定なので、そちらにもつけるようする。街道整備完了後は新しい仕事の斡旋も行う予定だ。女性には機織りの工房や農家手伝いなどから一番適した場所を考えている。どの職でも男女問わず低賃金ではないように、無理な労働をさせないようにしないといけない。身体は資本なので、つぶしてしまったら意味がない。ブラック企業にならないようにしたいとティファニアは細かい規定を考えている。前世で友達がブラック企業に勤め、倒れたことがあるからだ。いつかは労働者組合の様なのを作る予定なのだ。
次に領制度の改正だ。戸籍を作り、土地を正確に測り、税金をきちんと集める。お給料や街道整備などは領庫から出すので、領運営もお金がなくては成り立たない。税金についてはアリッサの案が大きく取り入れられている。今は大人からも子供からも同じ値段の住民税をもらっているが、子供が稼ぐ能力がほとんどないので成人までは親が負担し、減額した値段を払ってもらうようにする。
そして、義務教育導入だ。これからは職の自由化を進めたいと思う。農家は農家に、商人は商人にと親の仕事を継ぐだけが将来ではないのだ。特に次男以下はなにも選択肢がない。そういう子供たちに道を作り、努力すればなんにでもなれるということを知って欲しい。その為にも教育は必須だ。文字が読めるだけで、計算ができるだけで就ける職業の幅が広がる。ティファニアは7歳から6年間を義務教育とした。週に4日、午前中が登校日だ。中学校、高等学校も建設予定だが、こちらは一定成績以上の希望者だけだ。高等学校はいわゆる大学のような専門的なことを学べるようにする。今考えている学科は領官学科、医薬学科、農業学科だ。ウルタリア領は海があり、外交も盛んなのでそのうち外国語学科、他にも経済学科、化学学科などが設立できたらいいと思っている。
他の細かい規定なども書きながら、ティファニアはどうかこの案件が通りますようにと切に願った。そして、少しインクがついた手からペンを降ろす。
「うん、できた!」
出来上がった分厚い資料はティファニアの願いがいっぱい詰まっている。それを一回ぎゅっと抱き締め、インクと羊皮紙の独特な匂いを吸い込むと、うんとティファニアは頷く。
(アレも用意してるからお父様が許してくれるといいな。)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、ラティスは御者を急かして屋敷に戻っていた。お昼にティファニアが5日ぶりに起き、一緒に夕飯を食べたいという可愛い申し出があったからだ。それを断るわけもなく、いつもの倍早く仕事を片付け、急いで馬車に乗ったのだ。
ラティスの手元には事前に読んで欲しいと言われた領内改革案がある。項目ごとに丁寧な字で書かれているそれは分厚く、誰も5歳児が書いたものとは思わないだろう。
ラティスはそれを読んで難しい顔をしていた。しかし、決して内容が悪いからではない。良すぎるのだ。長期的な見通のある実現可能なものだった。最初だけ出費が大きいが、長い目で見れば気にならないものになるだろう。だが、とラティスは思う。
(今までのものとは違いすぎるな。これは、領民が大丈夫じゃないだろう。ティーが急かす理由はわかるが、それとこれは別だろうな…。)
はぁと複雑な顔でため息をつくと、ラティスは窓から外の空を見上げた。
赤みがかった空はどこまでも澄んでいたが、沈む太陽がジリジリと何かを焦がしているように見えた。
ラティスが屋敷に戻ると、玄関にはティファニアとティリアが待っていた。
「お父様、おかえりなさい!!」
「おかえりなさい!!」
ティリアはティファニアに続いて挨拶をし、二人で一緒にラティスの胸に飛び込んだ。
ラティスはスラリとした見た目にそぐわぬ筋力を発揮し、片手に一人ずつ抱き上げた。彼は今まさに両手に華の気分である。
一通りのスキンシップを終えると、二人の子どもに手を引かれて食堂に向かう。
「お父様!今日のりょうりはティーがブルーノといっしょにかんがえたの!とってもおいしくできたんだよ!」
「本当かい?楽しみだなぁ!」
ブルーノと、という部分に少し嫉妬しながら、ティファニアの創作料理が食べれることにラティスは純粋に喜んだ。ここ数か月、ティファニアが出したアイディアをもとに作った料理は格別だったのだ。特に、ラティスはギョーザを気に入っている。ひき肉を用意するのが大変な為、食べれる頻度は高くないが、皮からあふれ出る肉汁が何とも言えないほどおいしいのだ。
今日の料理はどんなのか考えていると、後ろから声がかかった。
「旦那様、その前にお召し替えを。」
幸せな時間をぶつっと切られたことにラティスはジークを睨むが、彼は睨まれると分かっていたのか、何事もなかったように無表情を貫いている。
ラティスははぁとため息をつき、両サイドにいる子供たちに食堂で待っててくれと言って一度私室に戻った。いってらっしゃい、待っていますと言って手を振る天使たちと離れることに後ろ髪を引かれる思いだ。
ラティスが見えなくなると、ティファニアはアリッサの方を見て、グッとこぶしを握った。
「アリッサ!じゃあ、これからのアレを使って何とかお父様の機嫌をよくして、それから救済案の話をしよう!」
そう、ティファニアが言ったアレとは料理のことだ。ティファニアは料理でラティスを歓待するつもりなのだ。そして、ラティスの気分が乗ってきたときに許可をもらう。我ながらいい考えだとティファニアはにやりと笑った。隣にいるアリッサの顔が少しひきつっているのは気のせいではないだろう。
ティリアはティファニアがいつもと様子が少し違うことにきょとんとしていたが、ティファニアは普段の無邪気な笑みに戻る。
「じゃあ、リア、ごはん食べにいこ!」
「うん!!」
ああ、いつもの姉に戻ったとティリアは安心して差し出された手を取り、仲睦まじく食堂に向かった。
食堂で待っていると、直ぐにラティスがやってきた。急いだのか少しだけ髪が乱れていた。
「じゃあ、お父様、食べましょう!」
ラティスが上座に座り、その左右にティファニアとティリアが座る。そして三人で手を繋いでお祈りをすると、料理が出てきた。
まずは前菜に鳥の蒸し肉と野菜のサラダ、ドレッシングはマヨネーズのようなものを作ってもらい、それをかけている。蒸し肉があっさりしているので、少しこってりしたドレッシングととても合うのだ。
スープはティリアが好きなコーンスープである。弱火で長時間煮たそれはなめらかで舌触りがとてもいい。少し甘めになっているのは、ティファニアたち子供のためである。
次はパンだ。ふわふわしたパンがなかったため、ティファニアは酵母作りから始めた。それは失敗続きだった。時間がかかるうえに全然酵母液ができず、一度はティファニアも諦めようと思ったほどだ。しかし、この間ブルーノの弟子の一人がふわふわしたパンができたと報告してきてくれた。これにはティファニアも舞い上がってしまうほど嬉しかった。スープでふやかさないと顎がいたくなるようなパンではなく、何もなくてもおいしいパンが食べてみたかったのだ。今日のパンもふわふわしていて、バターをさっとつけるだけで十分おいしい。
今日のメインはパスタだ。パスタはうどんの材料に卵黄を入れると麺ができる。つまり、配分を間違えなければ結構簡単なのだ。基本的なことを教えてしまったら、あとは料理人たちが和えるものやのせるものを工夫することによって種類をどんどん増やしている。ちなみに、今日はあっさりしたシーフードパスタだ。ウルタリア領が海に面しているので何とか手に入れたものだ。エビがプルプルしていてとてもおいしい。
次にデザートの前だが、餃子を出してもらった。今日はラティスへの接待なのだ。相手の好物を出さない手はないと無理を言って用意してもらったのだ。特に、包む作業をティファニアがやったため、ラティスは大喜びで食べていた。
最後のデザートはフルーツの寒天ゼリーだ。餃子が重いわけではないが、ティファニアやティリアにとっては量が多いだろうとつるんと食べれるものを用意してくれたのだ。
ティファニアは接待だからラティスの好きなティラミスがよかったのにとおそらく勝手に変更したアリッサをじとりと見た。アリッサは少しだけ笑うと、澄ました顔で体調が悪かったお嬢様が優先ですと言った。そんなこというとティファニアも言い返せないので口をとがらせて拗ねた顔をした。
そんな様子を見て、ラティスは上機嫌に笑った。それにつられてティリアも笑い、ティファニアは少し納得がいかなかったが、それでも二人が笑ったのでなぜだか嬉しくなって一緒に笑った。
おなかが膨れると、紅茶を出してもらい、一息をつく。
「お父様、りょうりはおいしかった?」
「ああ、すごくおいしかったよ。ティーは本当に何でもできるなぁ。」
「うふふ、よかった。」
ティファニアは嬉しくなって破顔した。接待なんだと思って気を張っていたが、やっぱりラティスに喜んでもらえるのは純粋にうれしいからだ。
しかし、きゅっと口を結び、まじめな顔になる。ラティスもティファニアの変化を感じ取り、すっと姿勢を正した。
「お父様、先ほどお渡しした資料を読んでいただけましたか?」
「ああ、きちんと全部読ませてもらったよ。」
「それで、実行の許可をいただけますでしょうか?」
ティファニアは真っすぐとラティスを見るが、机の下の手は汗ばんでいることが分かった。目の前のラティスが既に父親としての顔ではなく、領主としての顔であるため、じわりと背中にも汗が伝う。
「まずは、率直な意見を言わせてもらおう。」
ティファニアはこくりと頷いた。
「……素晴らしい改革案だと思う。長期的な見通しが練られたものだ。戸籍を導入することで税収の正確化。職の斡旋によって領内のお金を回す。そして、義務教育の導入は将来的な人材育成。どれも現実的かつ実現可能だと思う。」
ティファニアはほっと息を吐いた。とりあえず、評価してもらえただけでもうれしい。
「……が、しかし、急激な変化に領民は耐えられないだろう。私たちは改正の意味や意図がわかっても、民の全てが理解してくれるわけではない。特に今回は長期的なものがある。税金などはまだ今ここに書いてあるのをそのまま実行するのではなく、数年に段階を分けて変えていくのがいいだろう。新しい法案は適応するのに時間がかかるからな。以上の理由で、この改正案を少しずつ領内に取り入れることなら許可する。」
確かにそうだとティファニアは思った。ティファニアの前世では当たり前の法案ばかりなので、ティファニアは直ぐに受けいることができた。しかし、この改正案は世界で初めてのことばかりだ。民はもちろん、領内を取りまとめる者たちも最初は戸惑うだろう。ティファニアは自分を急かすばかりで、すっかり領民がどう思うかを考えるのを失念していた。一番考えるべきことを忘れていたことにティファニアは肩を落としてしょんぼりした。
「確かに、お父様がおっしゃったことはもっともですね。自分のことばかりですっかり民がどう思うか考えていませんでした…。」
言葉に出すと、ますます情けなくなってティファニアの顔が下がっていった。
しかし、落ち込むティファニアを見てラティスは父親らしい笑みで優しく言った。
「落ち込むことはないよ、ティー。この改正案は本当に素晴らしかったよ。まだ生まれて5歳の子供がたった半年で練り上げたとは思えないくらいだ。私はティーが領民を考えたからこそこの法案が短期間で出来上がったと思うんだ。ティーが急かしたい理由は分かっている。でも、ちょっと立ち止まって見るのもいいと思うよ。」
ラティスは項垂れるティファニアの頭にぽんと頭を置き、髪をなでた。自分と同じ色のその髪は最近伸びてきて、痛々しい傷が残っていた頭皮はもう見えないくらいだ。
「それに、数年後には全て施行されるからいいじゃないか?こういうのは気長に待つのも大事だよ。」
ティファニアはうんと頷き、許可をもらえたことにお礼と段階に分ける案を今度提出しますと言った。
「ああ、私の方もありがとう。段階に分ける案についてはジークと文官を数人交えてくれると助かるかな。ティーだけでは大変だろうから頼ってもいいんだよ。それに、そのうち領官に任せることになるから今のうちに内容を分かる人がいた方がいいからね。」
「わかりました。じゃあ、予定合わせてもらっていいですか?」
ティファニアは後ろに控えていたジークに目線を移すと、心得たようにジークはかしこまりましたと胸に手を当て、軽く頭を下げた。
「うん。これで、改正案については良さそうだね。……それで、ティーはまだ私に話さないといけないことがあるだろう?」
そう、さっきの料理は接待目的だけじゃないのだ。ティファニアはもう一度顔を引き締めた。
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