宝石職人

吉野楢雄

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宝石職人

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 宝石工房の朝は早い。特に早くなければならない理由はないのだが、昔からそう決まっている。
 職人たちは7時過ぎからそろそろ出社して、機具や原石のチェックを始める。
 8時から朝礼が始まり、各々持ち場に就いて作業を開始する。
 夕方4時までに仕事を締め、終礼を終える。
 職人見習いで入社して20年、そんな生活を続けていた。
 30歳で結婚して長女に恵まれて、今は小学5年生だ。かわいい盛りだが、少しすれたところがあって、夫婦して頭を悩ませている。
 私とはあまり口を利かず、妻ともそうは話さないらしい。
「思春期なのよ」
「11歳を思春期とはいわないよ」
 いずれ心を開いてくれることを願いながら、娘と接している。
 幸い経済的には困っていない。家のローンはそのうち払い終える。
 そうは悪い人生ではない、今のところは。そう思っていた。

 ある朝、7時半に工房に入り、機具の準備をしていると、少し遅れて入ってきた同期の松尾が、暗い顔で話しかけてきた。
「うちの工房はもうだめだ」
「だめってなんだ?」
「職人を大量解雇だって」
「どうして急に?」
「売り上げ不振だって」
 不景気から、売り上げが急減しているのは聞いていたが、そこまでとは思っていなかった。
「いつ?」
「すぐだ」
 18で見習いで入社して、21年目になる。私の腕は、そう悪くないはずだった。
「俺たちは大丈夫だろう」
「それはわからない」
 間もなく会議室に職人連中が呼び出され、売り上げ不振のため、緊急解雇と割増退職金の支払いの通知があり、私も松尾も、翌日には会社をお払い箱になった。

 無職生活も悪くはない、ただし金の心配がなければだ。
 読書が好きで、勤め人時代に読みたくて読めなかった本を、大量に古本屋で買い込み、書斎で読みふける生活を始めた。
 松尾はこれを好機に独立するんだと、自前の工房を作るために、不動産屋と工務店通いをしているらしかったが、私は当面そんな気はなく、趣味の読書にいそしんでいた。
 最近の文学賞の受賞作におおかた目を通した後は、古典の類に目を移した。
 お気に入りは山本周五郎で、これは読みやすいうえに作品数が多く、古本屋の文庫でほとんど手に入るというのが特徴だった。
 なじみのチェーンの古本屋で、山本のおおかたの在庫を読みつくした後、谷崎潤一郎やら芥川龍之介やら、井上靖の本に手を出し始め、ただ同然で済む趣味の開拓に成功したと喜んでいた。

 宝石業界は、どん底の景気のさなかにあると、ネットニュースで読んだ。
 不景気なのはどこもそうだが、宝石業界が特に悪いということだった。身近な宝石会社で、人員削減が進んでいた。
 旧知の営業マンから、次々と退職の連絡がやってきた。中には、タッグを組んで会社を興しませんかというのもあったが、断った。
 割増退職金で、しばらくやっていけるという目算もあったが、経営者になるとなると、気が引けた。もともと自分は、勤め人肌でできているようだった。
 読書ははかどり、いろいろな文豪の著書を読破し、結局もとの、現代作家の新作に取り組むことになった。
 文庫本から単行本に舞台を移すことになり、若干懐は痛かったが、気は大きかった。
 いずれ不景気は終わる。俺の腕を知っているなら、来てほしいという会社も現れることだろう。

 松尾から、工房の新規開店の連絡が来た。
 模索しているのは聞いていたが、思った以上の規模の工房の開設に驚いた。
 開店祝いを持って訪れると、「いやいやつまらん工房だよと」と謙遜したが、まんざらでもなさそうだった。
 松尾は秘書に酒を持ってこさせ、事務室で向かい合って飲んだ。
 松尾が、
「お前は独立開業はしないのか?」
「考えていない」
「今は何をして過ごしている?」
「読書」
 そうして古本屋通いと、読書三昧の今の生活を話した。
「読書って小説? 俺は学生時代以来読んでいないよ」
「改めて読んでみると、おもしろいものさ」
 松尾は変な顔をしていたが、
「まあいいさ。この不景気もそんなには続かない。しばらくしたら求人も出てくるさ」
「俺もそう思っている」
 そこそこに辞去して、帰りに、近くにあった古本屋に寄って、数冊小説を買いこんで帰宅した。

 世の中には、無職の人がいるものだが、18歳から20年間勤め続けた人間としては、不思議な経験である。
 たまにスーパーなどで平日の昼間に買い物をすると、レジ係に変な顔をされることがある。
 こっちだって好きで失業したわけではないと言いたいが、今の読書道楽三昧の生活を自慢することもできない。大学の文学部の学生でもあるまいし。
 その点、なじみのチェーンの古本屋は気楽だ。
 私のような、うらびれた失業者風の中年男性が、平日昼間から立ち読みをしている。本を買うには買うんだろうが、数百円のレベルで、到底好客とも呼べないであろう。
 とにもかくにも、私の今の生活は、古本屋の周りを回っているのであった。

 妻が、娘がペットに犬を欲しがっていると言い出した。
 犬は手間がかかる。子供のころ飼っていた犬を念頭に、
「犬は散歩してやらないと吠えるぞ」
「それは由香にも伝えたんだけど」
「それでも欲しいというのか」
「ええ」
 割増退職金を念頭に、
「それなら好きなものを買ってやれ」
「あなたも一緒に考えてよ」
 犬は嫌いではない。かつては子供なりに、家で飼い始めた犬をかわいがって、せっせと散歩に連れて行ったものだが、面倒くさくなる時もあり、すると犬が吠えて、近所迷惑にもなっていたことだろう。
 由香はきちんと面倒を見てやれるだろうか? そうでなければ私たち夫婦の負担にもなってくる。
 妻は、週末のチラシに入っていたという、ペットショップの広告を持ち出し、
「犬だっていろいろあるわよ」
「そりゃあそうだ」
「今晩、家族会議を開きましょう」
 夕食までの間、広告の犬の写真に目を凝らした。
 いろいろある。子供のころ、犬の図鑑に見入ったものだった。
 値段はせいぜい10万で、数年もしくは数十年の付き合いだと考えると、大した金額だとは思わなかった。
 どんな犬種だって買ってやれる。大きい犬のほうがコストパフォーマンスがいいかと一瞬考え、けちな考えだと打ち消した。

 さっそく夕食後に、妻と由香とで居間に集まり、
「由香は何が欲しい?」と妻。
「私は柴犬」
「あなたは?」
「俺は、もう少し大きいゴールデンリトリーバーかな」
「私は、トイプードルがいいと思ったわ」
 チラシを前に議論をする。
「あんまり大きな犬は、力が強くて散歩も大変かもな」
「由香もまだ小さいしね」
「あんまり小さい犬も、かわいらしいが、飼いごたえがないかもしれないな」
「そうね」
「でも、飼い主になる由香の意見が、一番大事だな」
「そりゃそうよ」
 結局、おおかた娘の欲しがる柴犬にしようということになったが、あとは週末にペットショップで、実物を見てから決めることになった。

 子供のころの犬が死んで以来、動物を飼いたいと思ったことはない。
 母が、新しい犬を飼おうかと言ったことはあったが、死んだ犬に対する不貞のような気がして断った。それ以来の飼い犬だ。
 娘は、私の少年時代のように、犬の面倒を見るだろうか?
 私も犬にとって、理想的な飼い主ではなかったかもしれない。時折散歩が面倒になって、さぼったからだ。
 犬には、最初はペットフードをやっていたが、犬が嫌がるようになり、残飯のほうが喜ぶとわかってからは、母は私たちの夕食後の残飯を犬にやっていた。
 犬は喜んで食べ、鶏の骨は、なぜか穴を掘って庭に埋める癖があった。
 私が中学生の高学年になり、部活と勉強に忙しくなり始めたころ、犬は気を遣ったかのようにこの世を去った。
 おおかた寿命で、かかりつけだった動物病院の医師は、犬の寿命をおおかた全うしたでしょうと話した。
 庭に亡骸を埋め、小さな墓標を立てて、もう犬はこれきりにしようと思ったのだった。

 週末に三人で、車でペットショップに向かった。よく晴れて、新しい犬を買うには縁起がいいと思った。
 さっそく犬売り場に向かうと、柴犬は一匹だけで、なぜか特売されていた。
「なんで特売なんだろう?」
「さあどうしてかしら」と妻。
 夫婦で犬売り場を見て回り、シーズーやらヨークシャーテリアなどに目が移り、こっちのほうがいいんじゃないかと思ったが、娘は、ただ一匹いる柴犬の前から動かなかった。
 テレビで、ペットショップに通うのが趣味だという人を見たことがあったが、なるほど、いろんな犬を一度に見られるのは楽しいものだった。
 問題は、例の特売の柴犬だった。
 見たところ、特におかしなところはない。他の犬と一緒だ。
 私が近づけば喜んで、犬も近づいてこっちを見ている。私が少年時代に飼っていた犬も、柴犬っぽい雑種犬だった。
 店員を捕まえ、
「柴犬はこの一匹だけかい?」
「はい、そうです」
「どうして特売なんだ? 病気でもあるのか?」
「とんでもありません。真っ当な犬です。年明けから、たまたま売れ残っていまして」
 店員との会話を聞いていた娘も、安心した様子で、その犬を連れて帰りたいといった。
 そうして娘の希望通りのその柴犬を、犬小屋や首輪などと併せて、買って帰った。

 翌日から娘は、犬の面倒をかいがいしく始めた。食事と水、そうして散歩。
 私もそれを見て、少年時代を思い出して心が温まった。
 散歩はもっぱら、川べりの遊歩道に連れて行く。犬は、その辺をかぎまわりながら歩くので、30分ほどかかる。
 私の少年時代は、途中でめんどくさくなって散歩を早々に切り上げるので、犬が、帰宅後すぐに吠え出すということが、ままあった。
“もっと好きな散歩に連れて行ってやればよかった”
 後悔の念が胸をよぎり、そうして無愛想な性格の娘に、こんなところがあったのかと喜んだ。

 たまに私も犬を散歩に連れて行った。娘が習い事で留守で、妻もパートに出ている時だ。
 愛想のいい犬で、近所の人が近づくと喜ぶ。そうして差し出した手を、ぺろぺろと舐める。
「いい犬を買いなさって。私も飼おうかしら」
「ありがとうございます」
 気性のいい犬で、私も鼻高々だった。

 古本屋通いは、相変わらず続いていた。
 新刊書店にはあまり行かなかったが、それでもたまには行って、新作小説を買った。
“自分でも書いてみようか?”
“宝石職人出身の作家、堂々デビュー!”
 そんな広告が目の前にちらついたが、なにやら馬鹿げていると思って、打ち消した。
 そうして、最近の新人賞受賞作にはあらかた目を通し、いい作品だとうれしくなり、もう一つだとがっかりした。

 松尾の工房経営は、軌道に乗ったようだった。たまに電話がくる。
 食事をしようかという話も出るが、なかなか実現しないでいる。
 松尾には経営者の才覚があったのだろう。弟子も二人ほど抱えて育てている。自分には、到底無理だ。
 たまにハローワークに求人を見に行くが、宝石職人の求人などほとんどない。あっても若い人に限定されている場合が多い。
 そもそも口コミで転職することが多い業界で、あとは専門誌の巻末に、若干の求人が載っている。それを見ると、採ってくれそうな会社もないではないが、退職金で貯金に余裕があり、妻もパートで働いてくれているので、ピンとくる求人が来るまで、今の読書生活を続けようと思うのだった。

 犬は、少しずつ大きくなってきた。ペットショップは中型犬だと言っていたので、もう少し大きくなるのだろう。
 毛色は、茶色がはっきりしてきて、ますます私の飼っていた犬に似てきた。
 たまに気が向いて、冷蔵庫からちくわを持ち出して食べさせる。喜んで食べる様子を見ていると、心が洗われる気がする。
 犬にちくわを食べさせることを思いついたのは、子供のころ、近所の犬好きのおばさんが、よくそうしていたからだ。
 そのおばさんも物故したと、母から後々聞いて、寂しい思いがしたものだ。
 おばさんも、私の犬が死んだと伝えたとき、寂しそうな顔をした。
“おばさんの分も、犬を大切にしてやろう”
 そんなことを考えた。

 老親は、80歳を超えたが、二人とも元気だ。
 正月と盆には、家族を連れて帰省することにしている。
 車で一緒に連れて来た犬を見て母が、
「ペロによく似ているねえ」
「そうかな」
 ペロは、昔、私が飼っていた犬の名前だ。
 私自身もそんな気がしていたが、母から見てもそうらしかった。
「大事にしてやりなさい」
「うん」
 何事にもぶっきらぼうな娘が、かいがいしく世話をすることを話すと、
「犬を飼うのは、子供の情操にもいいらしいよ」
「僕もそう思う」
 その日は夕方、私がペロをよく散歩させた川べりに犬を連れて行き、懐かしさもあって、一時間近くもうろうろした。犬は新しい散歩道をてくてくと歩き、時折草原の匂いをクンクンとかいで、そうして小便をした。
 犬だから、どんなでもそうするのだろうが、ペロの懐かしさがこみ上げてきた。
 家に帰ると母にちくわを貰い、そうして一本食べ終わるのを見届けた。

 読みたい小説がそろそろなくなってきた。古本屋の棚に、めぼしい小説がなくなってきて、新刊書店でも同様だった。一年近く、読書三昧の生活を送ってきた結果だった。
 仕方がないので、小説誌の定期購読を始めた。
 近所の本屋で、気に入った誌を三つほど見定めて取り寄せてもらい、立ち読みついでに月初に取りに行くことにした。今時分の作家にもそのうちずいぶん詳しくなった。
 いい小説を書いている作家の作品集は、できるだけすべて取り寄せて、読み切ることにした。
 そのうち小説誌を五つに増やした。それで一月がおおかた過ぎるのだった。

 宝石の専門誌とは、とんとご無沙汰している。
 前職の工房では、残った職人で、少ない仕事をやり過ごしているらしかった。
 小説誌を毎月読むのが案外楽しくて、再就職しようとは思わなかった。
 もちろん一生こうしていられるわけではないので、いつかは見切りをつけなくてはならない。
 人づての仕事が入るか、専門誌にめぼしい求人が載ったら応募してみようと思い、定期購読に、小説誌に加えて、宝石の専門誌を注文した。
 さっそく届いた専門誌の求人欄には、めぼしい求人はなく、ほとんどが若い人を募集しているのだった。記事にも目新しいものはなかった。
“みんなどうしてるかな?”
 かつての同僚達の顔が浮かんだ。だがあまり深入りはせず、専門誌を投げ出すと、小説誌の新作を読み始めた。
 いわゆる文芸誌はあまり好まない。若い作家が読みにくい文章で、昔でいう前衛的なのだろうか、わかりにくい小説を書く。私に学がないせいだろうか、さっぱりわからない。
 それよりか、やや大衆向けというのだろうか、エンターテイメント誌のほうを好んだ。
 直木賞作家を中心に、重厚な作品が並ぶ。いつもの作家が、いつものような小説を書いている。それが、毎日の生活を豊かにしてくれるように思うのだった。

 娘は相変わらず、犬の面倒をかいがいしく見た。散歩に連れて行くのはもちろん、水を毎日替え、夕食後にすぐ、残飯をえさにやった。
 犬の方でもそれに不足はないらしく、昔はペットフードを残したものの、今は残飯を喜んで食べ、娘の替えた水を飲んだ。
 雄犬で、体も少しずつ大きくなり、なかなかのハンサムに育ってきた。
「由香は相変わらずだな」
「犬の面倒を見ていますよ」
「犬も喜んでいるだろう」
「そうでしょう」
 妻は、日中はスーパーのレジ係に勤めに出て、夕方に帰ってきて夕食を作った。
「俺もそろそろ働きに出ようかな」
「無理をなさらず」
「いいのか?」
「退職金が思いのほかだったもの」
 その通りなのだった。
 人づての再就職話は、今のところない。松尾は、若い人を採用して育てている最中だ。
 中年の出る幕は今のところない。でも景気が回復したら、即戦力の求人もきっと出てくることだろう。

 犬にとびっきりのご馳走をしてやりたいと思いつき、それは何だろうと考えたが、やはり肉食獣なので肉だろうと思い、牛か豚か鳥のいずれにしようかと考え、結局そこは財布と相談して、鳥の骨付きもも肉に決めた。
 さっそく妻に提案すると、
「いいんじゃない?」
「俺が肉屋で、大きいのを三本ほど買ってくるので、焼いてくれるか?」
「いいわよ」
 さっそく週末の午後、近くの商店街の肉屋に出かけ、大きなもも肉を三本買ってきて、妻に渡した。
「いますぐ?」
「ああ」
 妻はフライパンを取り出して肉を焼き始めた。私はビールを飲みながらそれを眺めていた。
 10分ほどで焼き上がり、
「できたわよ」
「さっそく犬に食わせよう」
 犬の餌用の皿を持ってきて、肉を三本載せた。
「私も見に行くわ」
「ああ」
「由香も呼んでくる」
 妻が娘を呼び、そうして私が皿を持って庭に向かった。
 三人で犬のもとに近づき、犬はどう思ったか知らないが、犬小屋から出てきて吠えた。三人で、散歩に行くのでもあろうかと思ったろうか。
 私は、肉の入った皿を、犬の鼻先に置いた。犬は少し匂いを嗅ぎ、そうして尻尾を立てて肉を食べ始めた。一本目、二本目、そうして三本目。
 私たち三人は、犬が肉を喜んで食べる様子を眺めていた。
 骨は、いつもは土に埋めるのだが、やすやすと噛み砕いてしまい、やっぱり犬だと感心した。
 食べ終わると、妻が皿を引き上げ、
「今のはおやつだから、別に夕食作るわよ」と犬に話した。
 夕食も何も、残飯をやるだけだろうとおかしかったが、とにかく犬にまつわる、ちょっとしたイベントが終わった。
 気難し屋の娘も楽しげに眺めていたが、犬が食べ終わるとすぐに、部屋に戻っていった。
 妻は台所に戻り、私が肉屋で一緒に買ってきた豚肉を炒め、週末の夕げが始まった。
 犬は、犬小屋に戻って横になっていた。

 ショートショートの小説賞の募集を、ネットで見た。
 文学賞の応募を、ずいぶん前に考えたことはあったが、断念していた。
 今度の賞は、原稿用紙10枚以内で、自分にも書けるのではないかと思わせた。
“自分がいろんな作家の作品で楽しんでいる以上、自分でも何か書くべきではないか?”
という、とりとめもない思いからある夜、パソコンのワープロソフトで、筆を走らせ始めた。
 だがだめだった。最初の二、三枚までは何とか書けても次が続かなかった。
 まったく続きが思い浮かばない。たばこの本数が増えるばかりで、次に進まなくなった。
 諦めて台所の冷蔵庫に向かい、妻に多めに買ってもらっているちくわを一本取りだして、犬のもとに向かった。
 犬は犬小屋で横になっていたが、私が近づくと嬉しそうに小屋から出てきた。
 ちくわを犬の鼻先にあてがうと、犬は嬉しそうにくわえつき、そうしてむしゃむしゃと食べた。
 食べ終わるのを見届けて部屋に戻り、そうして書きかけの小説を削除して、パソコンを消して寝た。

 新聞に、景気が回復傾向だとか、指標が改善基調にあるとかと、記事が出始めた。
 しめたそのうち求人も出てくるぞと思い、専門誌の求人欄を見たが、相変わらずだった。
 専門誌の記事には目を通していたが、「宝石店経営指南」とか「宝石工房の運営術」とかの記事が多く、たまに研磨技術とか、原石の見分け法とかが書いてあったが、自分には当たり前のことばかりであった。
 街中で、スーツ姿の勤め人の姿を見るたびに、多少の焦りを覚え、それは作業着姿の作業員を見ても同様だった。
 退職金だって、いずれは底をつく。妻のパート仕事にも、いつまでも頼っておれない。
 そんなことを考えながら、近くの本屋で小説誌を受け取り、多少の文庫本を加えて、買って帰って来るのだった。

 犬に、大量に鳥の骨付き肉をやって、大喜びしたのが忘れられず、その後もたまに、肉屋で仕入れてきては妻に調理してもらい、犬にやった。
 三本のもも肉。600円ほど。
 普段は残飯を与えるだけなのに、飼い犬がいる効用は大きい。
 娘の情緒に役立つ。近所の人とのコミュニケーションツールになる。私もたまに、ちくわをやって楽しむ。客が来たら吠えるので、多少の番犬替わりにはなる。
「お前はうちの好客だ」
 肉をやる。犬が食う。それを眺める。私の心が和む。
 今日も肉を食べ終わるのを見届け、器を引き上げて部屋に帰った。

 定期購読を始めた宝石の専門誌によれば、宝石業界の売り上げは、上昇傾向にあるらしかった。納入先だった宝石店たちは、資金繰りに苦しみながらも、何とか店舗を維持しているらしい。私にも、そのうち好縁があるだろう。
 小説業界にも変わったこともない。期待の新人が現れては消えたり、重鎮が物故したり。
 小説誌の定期購読を始めて以来ご無沙汰だった、近所の古本屋チェーン店に出かけてみた。
 在庫がずいぶん入れ替わっていて、未読の面白そうな小説がいくつかあり、嬉々としてかごに入れた。
 趣味の本の欄に、まだ発行すぐの犬の飼い方の本があり、すぐにかごに入れた。
 家に帰ってすぐに、犬の飼い方の本を開き、様々な犬の写真を眺めた。
 ペットショップで扱われている犬の犬種は様々あれど、やはり柴犬は飼い犬の王様らしかった。
 本を閉じて庭に出ると、犬が喜んで犬小屋から迎え出て、そうして30分ほど散歩をさせた。いつも通り川べりの道で、犬はそこかしこで匂いをクンクンと嗅ぎ、そうして簡単な小便を済ませると、再び散歩道に戻った。
 家に帰って水を替えてやり、そうして冷蔵庫からいつものちくわを取り出して食べさせてやり、そうして部屋に戻った。
 いつか職との好縁があるだろう。そんなことを考えながらビールを空けた。

 母が倒れた。運ばれた病院で、軽い脳梗塞だと診断されたらしい。
 すぐに犬を連れて、病院に見舞いに訪れた。
 母親はベッドで起き上がって、
「悪いわねえ」
「失業中だから、暇なんだよ」
 病室に連れて来た犬を見て、
「この犬は、あんたの子供のころの、ペロに生き写しだねえ」
「やっぱり似ているかな」
「似ているとも。あんた、可愛がっていたろう」
「そうだったかな」
 母と、そんな会話をした。
「もっと長いこと散歩をさせてやったらよかったと、後悔するんだよ」
「あれだけやったら十分だよ」
 母は、ベッドから手を伸ばして、犬の頭を撫でた。犬はおとなしく、母になされるがままにしていた。
「あんた、お金に困ってはないのかい?」
「退職金が思ったより多くて、使い切れないくらいだよ」
「由里さん、パートに出ているんだろう」
「暇つぶしにいいと言っているよ」
「そんなわけないわよ」
 母も一時期、スーパーのレジ係をしていた。
「早く勤めに戻って、由里さんに楽をさせてあげな」
「うん」
 それだけ話すと、母親はまたベッドに横になった。犬はクンクンと、そこら辺の匂いを嗅いでいた。
 手持ち無沙汰になり、椅子に座って、ただ犬の頭を撫でた。読みかけの小説が急に気になって、今日は帰ったら続きを読もうと考え、いや母の回復そして職のことを考えるべきかと恥じた。
 結局半時間ほどで辞去し、犬を連れて我が家に戻った。
 妻が、
「お母さん、大丈夫だった?」
「大したことないみたいだ」
 医師がそう言ったのである。
「よかった」
「そうだな」
 犬のリードを柱に結び、頭を撫で、そうして今日はいい天気だったなと振り返り、犬にちくわをやった。

 幸い母の病状は軽く、翌週には退院した。
「お見舞いありがとう」
 母から電話が来た。
「とんでもない」
「犬ちゃん、大切にしてあげな」
「そうだね」
 犬は相変わらずだ。散歩の間はせわしなくしているが、普段は犬小屋のあたりでじっとしている。
 娘がかいがいしく面倒を見、残飯ではあるが、食事はきれいに平らげている。
 母は、
「死んでから後悔するのは、一番よくないから」
「そりゃそうだ」
 死んだペロに、十分な散歩をしてやらなかったことは、私にとっても、ちょっとした桎梏(しっこく)になっているのだった。
「獣(けもの)と言っても、生き物だから」
「そうだね」
 母は、それだけ言うと電話を切った。
 冷蔵庫に向かい、少し考えて、ちくわではなくソーセージを取り出して、犬にやった。犬は、ちくわ以上に嬉しそうに食べた。

 松尾から、しばらく連絡が来ない。以前はひっきりなしに電話がかかってきて、工房開設がらみの話を聞かされたものだが。
 便りがないのはよい便り、だっけ。顧客も付いてうまくいっているというのが、最後の連絡だった。
 経営の才覚があるというのはいいことだ。若い人も雇い、社会のためにもなっているだろう、少なくとも、私のような一介の失業者と比べれば。
 昔の人はどうであったろうか。今の人たちみたいにあくせく働いていたのか。
 漱石が、高等遊民なる言葉を使っているのは、今回の失業中の読書で知った。
 私のように、18からずっと職人として働き詰めの人生から、一時期離れるのは、人生の役に多少立っているかもしれない。
 仕事ばかりが人生じゃない。生まれてきた意味がないではないか。妻ももしかしたら、そんな私の境遇をおもんばかって、黙っているのかもしれない。
 気が向いて、夜のさなかに犬小屋に向かった。
 夜中の犬小屋は、ひっそりしていた。私が近づいても、犬はぐっすり寝ている様子だった。
 懐中電灯で明かりを散らしてみたが、犬は出てこなかった。
 がっかりして引き上げ、冷蔵庫からビールを出して飲み、そうして寝た。

 春になって、娘が中学校に進学した。
 部活には吹奏楽部を選び、熱心な部活だったので、私には犬の面倒が回ってきた。
 一層犬との付き合いが増し、夕方の散歩が日課になった。
 犬には変わったところもなく、散歩中はその辺をクンクンと嗅ぎ、そうして小便をひっかけると、散歩の続きに戻るのだった。
 たまに気が向いてちくわをやったが、ソーセージのほうが喜んでいるような気がして、最近はソーセージ一本やりだった。
 犬小屋で男一匹所帯、かわいそうな気がしないでもなかったが、どうしたらいいかもわからないし、気楽でいいだろうとそのままにしておいた。
 思えばどこでも、オスの飼い主というものは、そうしているのだろう。仕事もしないでいいし、散歩と餌さえしっかりしていれば、あまり不満もないのではないか。
 私はと言えば、いよいよ再就職を焦り始めた。前職の工房がらみでも、かつての同僚たちはそれぞれ散り散りと、方々の工房に再就職している様子だった。
 母にも、妻にあまりレジ係のパートを続けさせるなと、釘を刺された。
 いよいよこの生活ともお別れだな、そんな気がした。

 古本屋の店員も、春になったのを機に、顔触れが変わった。フリーターと言うのだろうか、男女を問わず、入れ替わりがあった。
 いつものように、若干の古本を見繕ってはレジに向かう。清算して、金を支払う。新人だからだろうか、多少手間取ることもある。じっと待って、愛想よく対応することにしている。
 以前のバイトさんたちはどうしたであろうか、いい職にありつけたことを祈るばかりだ。
 家に帰る。犬を散歩に連れて行って、戻ったらソーセージをやる。部屋に戻る。買ってきた小説を机に並べ、何から読もうかと考える。
 読書も以前ほどは楽しくなくなってきた。読みたいと思う小説がなくなってきたのである。
 18から職人を始め、かれこれ20年勤めて初の小休止だ。休みの旅を終えて、とうとう勤めを再開しよう。ハローワークのサイトで“宝石”と入れて、調べ始めた。
 職人の求人はぼちぼちある。私のような中年でも、採用しそうな工房もあった。
“さあ仕事再開だ”
 気合を入れて、情報収集を始めた。

 犬に元気がなくなってきた。動物病院に連れて行ったら、原因がわからないので、とりあえず入院させましょうと、医者は話した。
 帰りに、妻と娘と三人で食堂に入り、犬に大したことがなければいいねと、話し合った。
 犬のいない庭は閑散としていた。散歩に連れて行ってやることもできず、部屋でパソコンを叩いて、求人案内を詳しく調べた。
 条件はあまりよくなく、がっかりさせられた。しかし背に腹は代えられない。
 いくつかに絞って来週、早速応募しようと覚悟した。

 動物病院から電話が来た。犬の容態が悪いので、すぐに来てくださいとのことだった。
 三人で駆け付けると、犬はすでに死んでいた。
「内臓疾患ですね。ちょっと今の技術では、助かりませんでした」医者は話し、
「遺伝性のものでしょう。ペットショップさんも人が悪い」
 医者はそう話した。
 二年ほど前に犬を買いに行ったペットショップで、犬が特売されていたことが思い出された。
 腹ももちろん立ったが、諦めようと思った。二年間の犬との生活が思い出され、いい生活だった、犬に感謝しなければと思った。
 亡骸を持って帰り、庭に埋めて、小さな墓標を立てた。
「また飼おうか」と、娘に尋ねた。
「もういいよ」
 娘はぶっきらぼうに話した。
 部屋に戻り、しばらく籐椅子に横になった。少し涙が出て、拭った。
 犬がいたのは、ちょうど私の失業期間と重なるのだった。心の支えになり、散歩が楽しみになり、そうして餌を食べる様子を見るのが、楽しみだった。
 また買い直そうかと、娘には尋ねたものの、私自身もそんな気は毛頭なかった。
 形見にと取っておいた首輪を眺め、そうして手を合わせて黙祷した。

 翌週、写真屋に行って証明写真を撮ってもらい、文房具屋で履歴書を買って、本格的に就職活動を始めることにした。
 履歴書の書き方もよくわからず、インターネットの情報サイトや、ハローワークの講座で勉強した。
 そうした求人応募の準備活動のさなか、妻が夕食の席で、
「由香に元気がないの」
「そう」
「犬のせいかしら」
「そりゃあそうだろう」
 私だってかなり堪(こた)えている。妻もここのところ、元気がない。
 部屋に戻ってしばらく横になり、妻と娘のことを、つらつらと考えた。そうして、二人に宝石で指輪を作ってやろうと思いついた。どうなるわけでもないだろうが、多少、二人の気分も晴れるだろう。
 さっそく松尾に電話をして、事情を話し、ちょっとした額のダイヤを用意してもらい、週末に、工房の一角を借りる手配をした。松尾は、
「犬、死んだか」
「ああ」
「早かったな」
「早かった」
「かわいがってたのにな」
「ああ」
 もともと遺伝性の病気だったらしいことは、松尾に話さなかった。
「それじゃあ日曜日に工房で待っている」
 松尾は電話を切った。

日曜日、松尾の工房に出かけると、多少の増築がなされていて、経営は順調な様子だった。
 松尾が出てきて、ダイヤの原石を二つ、渡された。
 心ばかりの菓子折りを松尾に渡すと、
「こりゃあ気を遣わせるな。帰ったらいただくよ」
 そうしてダイヤの代金を支払おうとすると、えらく安い金額を言ってきた。
「そんなのですむ石じゃあないだろう」
「まあなんだ、困ったときはお互い様だ」
 松尾はそう答え、私がおおかたの値段を払おうとしても、受け取らなかった。
「まあなんだ、気は心だ」
 松尾はそんなことを話し、そうして工房に案内した。
 まだ新しい建物で、新しい機具をあてがわれた。
「じゃあ、俺は事務所にいるから」
 そう言って、松尾は引き上げた。
 私はさっそく、二つの原石を容器から取り出し、指輪作成に取り掛かった。が、うまくいかない。二年のブランクがある。
 研磨からして失敗気味で、以前のような仕事はできなかった。
 二時間ほどかかって、なんとかかんとか指輪を二つ完成させ、松尾を呼んで指輪を見せた。
 松尾はルーペで指輪を眺め、
「上出来だ」
「冗談だろう」
「いやいや」
 そう言って松尾は笑い、そうして指輪を丹念に拭いて、ケースに入れてくれた。
「二人ともきっと喜ぶぞ」
「そうだといいんだが」
 別れ際にもう一度、松尾に礼を言うと、
「そろそろ仕事に復帰しないのか?」
「就職活動を始めようと思っている」
「そりゃあいい」
 松尾が見守る中、二つの指輪を乗せた車を発車させた。

 夕食のあと、妻と娘を居間に呼び、そうして指輪をプレゼントした。
 妻はとても喜び、娘は「ありがとう」と少し笑顔を見せたが、すぐに部屋に戻っていった。
 妻に、
「久しぶりで、実はあまりよくできていないんだ」
「そうなの? わからないわよ」
「まあなんだ、気は心だ」
 さっき松尾が言った言葉を話した。
「結婚式の指輪よりうれしいわよ」
 妻は言った。

 母に電話をかけ、犬が死んだと話した。
「まあ、早かったわね」
「急病でね」
 遺伝性の病気を持っていたことは、ここでも話さなかった。
「見舞いに付いてきてくれたのが、最後だったわね」
 母はそんなことを寂しそうに話した。
「また新しい犬を飼えばいいわ」
「そんな気が起こらないんだ」
「そりゃあそうかもね」
 私は、ペロが死んで以来、子供心に、新しい犬を欲しがらなかったことを思い出した。
「母さんは犬は飼わないかい?」
 そんなことを尋ねてみた。
「死んだ時が辛いからね」
「そりゃそうだ」
 私もしばらく就職活動をする気が起こらず、部屋でぐったりしていた。
「まあとにかく、そろそろ仕事を始めて、由里さんに楽をさせてあげな」
「うん」

 それから数日して、前の工房の人事から、電話がかかってきた。売り上げがずいぶん回復してきたから、戻ってこないかという話であった。
 退職させられたことに多少の腹立ちも覚えていたが、先方は恐縮して何度も詫びを言った。
 条件も以前より良くする、何よりあなたの働きは知っている、ぜひそうしてくださいとのことで、渡りに船ではあったが、心の準備に一週間考えさせてくださいと答えて、電話を切った。
 夕食の席で、喜んで妻に話すと、
「よかったじゃない」
「ああ」
「でも、あなたの好きなようにしたらいい」
「一にも二にも、行きたくてしょうがない」
「じゃあそうなさって」
 妻は笑顔を見せた。私の作った指輪をつけていた。
 部屋に戻り、周りを見渡した。
 ずいぶんと本が多い。ほとんどが今度の失業中に買ったものだ。
 私は妻にひもを借り出し、そうして荷造りを始めた。失業中に買った本をすべて、ひもで括った。明日、いつもの古本屋に持ち込むつもりだった。
 作業を終えると疲れが出て、籐椅子に横になり、ビールを飲んだ。
 慣れない工房で、慣れない人と新しく仕事を始めるということに、戸惑いを感じていたので、今度の話は救いの神であった。私の行く末を心配してくれていた松尾も、喜んでくれるだろう。何より妻が、内心一番喜んでいるのではないか。
 苦労させたなと心の中で詫び、そうしてビールを飲み干した。

 翌日、昨晩に荷造りした本をすべて、車のトランクに乗せ、そうして古本屋に向かった。
 古本屋のカウンターに向かい、大量の古本を買い取ってほしいと話すと、店員は台車を車に向かわせた。20束ほどの古本を何度かに分けてカウンターに運び、そうして、査定をするのでしばらくお待ちくださいと話した。
 私は、慣れた書棚で時間をつぶし、しばらくしてカウンターで代金を受け取ると、思いのほか多かった。
 帰りに酒屋で少しいいワインを買い、帰って妻にプレゼントした。
 そうして部屋に戻り、飾ってあった犬の遺影を拝んだ。

 結局、一週間後の電話で工房に、復職を応諾する旨を伝え、その翌週から復帰した。
 工房に変わったことはなく、ずっと仕事を続けている職人と、私同様、今般仕事に復帰した職人とで、仕事を始めた。
 別に仕事に変わったこともなく、気抜けがするほどだった。
 いろんな石で宝石を作る。もちろんメインはダイヤだ。腕が落ちたのを心配したが、すぐに慣れた。
 退職させられたことで、腕に自信がなくなりかけていたが、今般の人事の話からも、復職後からの給料の伸びからも、その心配はないようだった。
 最初の給料で、娘にちょっとしたぬいぐるみを買ってやった。
 受け取るときも、少し笑顔を見せるだけだったが、犬の件があってから、多少は性格が丸くなったと妻が話していた。
“あの犬のおかげだ”
 部屋でビールを飲みながら、そんなことを考え、そうして例の古本屋にも感謝しないとな、と思った。もう行くことはないだろうけど。

 復職後、松尾と飲みに行った。
「やあ復帰できたか」開口一番、松尾はそう言った。
「多少条件も良くなった」
「そりゃあよかった」
 いつぞやの、指輪制作の礼を言うと、
「あれはもういい」
「いやいや、助かった」松尾に酒を注いだ。
「それより犬は残念だったな」
「まあ二年間の天寿を全うしたんだ」
「そういう言い方もあるかな」松尾は酒を飲み干した。
「娘もずいぶんと、犬のおかげで丸くなった」
「そういうものかな」
「俺も失業中の無聊(ぶりょう)を、ずいぶん助けられた」
「俺も欲しくなってきた」
 そんなことを話し、そうして別れた。

 その週末、部屋から犬の首輪と遺影を、庭に持ち出した。
 多少の逡巡ののち、遺影に火をつけ、そうして首輪も燃やした。
 妻が出てきて、
「いいの?」
「いいんだ」そうして燃え上がる炎を見つめた。
 最後は娘も出てきて、遺品が燃える様子を眺めていた。
 家族三人での、犬との、そうして私の失業時代との、最後の別れであった。
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