黒鯉

吉野楢雄

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黒鯉

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 田舎の別荘地に家を建てて引っ越さないかと妻に話すと、
「私も、ここいらがごみごみしてきて、嫌だわと思っていたの」
と返事をした。
 今の家は、結婚後間もないころにあわてて見繕ったもので、通勤には便利だったが、それが理由で次々と空き地に家が建ち始めて、まるで都会のような喧騒へと変わったのだった。
 現在、私は定年退職間もないころで、退職金も入り、今の家も幸いいい値で売れそうだったので、これ幸いとばかりに、別荘での田舎暮らしを始めようと思い立ったのだった。なにぶん、人の多さと車の音が気になってきたので、多少交通が不便でも、人口の密度が低い僻地の物件を探そうと思った。
 専門雑誌を買い込んで読み進め、パソコンで知識を猟渉した。そのうち見つけた別荘地が丹波地方にあり、妻と見学に出かけた。
 山を丸ごと別荘地に開拓しており、家もまばらで景観も良好だった。
「ここは定住者はいるのかい?」
「おられることにはおられますが、少ないです」
「どうしてかな? 住むのに悪くはないと思うけど」
「やはり便利ではありませんから。スーパーに行くのも車で20分ほどかかります」
「それくらいかな、理由は」
「さようです」
 私と妻はその場で購入を決断し、手付金を払い込んだ。
「良かったわね、あの別荘地」
「俺も一目で気に入った」
「案外安かったわね」
「そりゃあ不便だろうから、現役の人にすりゃあ」
「私たち、そんなの構いませんしね。ちょっとしたドライブと思えば」
「ああ」
 退職金から別荘代を除いた金で、もう少し良い車を買おうかと思った。

 管理会社から紹介された工務店で勧められた、洋館風の建物を建て、すぐに引っ越しの手はずに入った。私はあまり近所付き合いがなかったが、妻はやはり、ご近所の主婦たちとの別れを惜しんだ。
「悲しかったかい?」
「ええ」
「仕方ない。総勢で引っ越すわけにもいかないだろう」
「それはそうですから」
 果たして購入の決断後、半年で、丹波の新居に引っ越しと相成ったのだった。

 引っ越し直後は何かと心配したが、管理会社からあった通り、不便なこと以外に文句はなかった。不便と言っても、最寄りのスーパーまで時間がかかるくらいのことで、田舎のことで道も空いており、別段の不満とは感じなかった。
「引っ越してよかったかい?」
「ええとても」
「前の家が懐かしくはないか?」
「今ではあまり」
 山の中の別荘地だけあって、自然が格段に良くなったのだった。
「林から日が差し込んで、鳥がさえずりますよね。山々の眺望があって、気分が清まります。この引っ越しは、私には大満足です」
「俺もそうだ」
 私が言い出したことではあったが、妻は私以上に喜んでいる様子であった。

 65才で定年して以来、特に趣味はない。家に作っておいた書斎で、新聞や雑誌を読み、仕方がなければテレビをつけた。老後の第二の人生を送る中高年のドキュメンタリー番組がお気に入りで、私たち夫婦の決断も、そう奇矯なものと思えないのだった。
 そのうち、別荘地内で行われているクラブ活動に興味を持ち始めた。クラブハウスで、陶芸やパン作り、そば打ちなどの活動を行っている。いずれもが私には、興を催さなかったが、愛湯会なるクラブが私の目についた。
 週に一度、クラブハウス内の温泉に入湯して、昼食を共にするというだけのクラブで、作業がらみの趣味に興味を持てない私には、ちょうどよい近所づきあいだと思えたのだった。
 さっそくクラブハウスを訪れて入会を申し込み、入会金を支払った。家に帰って妻に話すと、
「友人付き合いができていいわね」
「お前はいいのか?」
「私はそば打ちでも始めようかと思っているの。菜園がひと段落したら」
 妻は庭に家庭菜園を作り始めたのだった。
「定住者は少ないからね。肩寄せ合って仲良くやっていかなけりゃ」
「ええ」

 週に一回、下界のスーパーに出かける。片道20分かかるので、一度に大量の買い物を済ませるのであった。その日ばかりは新鮮な魚介を買って、夕食が賑やかになる。
「うまいね魚」
「引っ越した甲斐がありました」
「そのうち一郎と知子も呼んでご馳走しよう」
「驚くことでしょうね」
 僻地だけあって、土地が安い。私たちも悠々500坪の土地を購入して、長男一家や長女一家の泊まる部屋を作ることができたのだった。
「あなたが50年近く、勤めをしてくれたおかげですよ」
「そりゃあお前もだ」
 私には特段の学がなく、高校を出てすぐに、近所の町工場に勤めに出たのだった。一時は仕事が嫌になって酒が深まり、妻を慌てさせたものだが持ち直し、定年まで職を全うすることができたのだった。
「私の苦労なんて」
「いやそうだ」
「ともかく今度の引っ越しは正解でしたね。あなたの慧眼でした」
「いや管理会社の写真の出来が良かっただけだよ。すっかり騙されて」
 さんざめく太陽、風になびく林の木々、眼下に広がる播磨灘、そういったものたちがパンフレットに載っていて、私は一目で気に入ったのだった。この値段でそんなものが手に入るのかと半信半疑だったが、内覧に出かけると、パンフレット通りの光景が広がっていたのだった。
「パンフレットの写真、決して誇張じゃありませんでしたね」
「お前にそう言ってもらえりゃ、俺もうれしい」
「早起きして、散歩でも始めませんか?」
「そうしようか」

 初めての愛湯会の日、少し緊張したが、手ぬぐいとバスタオルを巾着袋に入れて、クラブハウスに5分前に到着した。会長を務めるという清田さんは、すでにソファーに腰掛けていて、私を見るとすぐに立ち上がった。
「このたびはお世話になります、小野田と申します」
「堅苦しいことはなしですよ。ただ温泉に入って食事を共にするだけの会ですから」
 そう話すと清田さんは、すたすたと男湯ののれんをくぐって、入っていった。私も慌ててついていった。湯舟で清田さんは、
「どうですか、こちらの暮らしは?」
「自然の豊かさに癒されますね」
「それだけが売りですから」
「車の往来が少なくて静かなのにも、ほっとさせられます」
「そう言う人は多いですよ」
 清田さんが洗い場に立ったので、私も隣の席についた。
「会員は何人くらいですか?」
「10人くらいですね。毎回参加される方は、5人くらいでしょうか」
「お酒は入りますか?」
 気になっていたことをたずねた。入浴後の酒はうまい。
「入りますよ。もちろん飲まない方もおられますが。あなたはお好きで?」
「大好きです」
 清田さんは苦笑して、
「それは大歓迎です。入浴より食事のほうを楽しみにしている方も、おられますから」
「私もそうなるかもしれません」
 そうして湯舟に戻り、脱衣所に向かった。

「本日からご参加の小野田さんです」
 一同が拍手する。今日の参加者は6人だった。
「この度、丹波別荘地に引っ越してきた小野田です。右も左もわかりませんので、よろしくご教示のほどをお願いします。温泉もお酒も大好きですので、まめに参加させていただくことになると思います。重ね重ね、様々ご教示のほど、お願いいたします」
 一同が再び拍手する。男3人、女3人の参加だった。皆中高年で、リタイア後の生活をここで過ごしている、私の先輩だと思われた。
「小野田さんは、どちらのご出身ですか?」
丸眼鏡をした、森川さんというおばさんがたずねた。
「滋賀です」
「いいところですよね。琵琶湖がきれいで」
「それだけですよ」
 謙遜し、定年退職後、悪くなる一方の住環境に不満を持つようになって、一念発起して引っ越したのだと答えた。
「私は大阪でしたので、なおさらでした。こちらで共に引退生活をエンジョイしましょうね」
 私は大きくうなずいた。清田さんは、他の3人とおしゃべりに興じている。
「わからないことばかりで」
「買い物は、近くの総合スーパーでおおかた揃いますし、道も広くて空いています。瀬戸内海が近くて、天気の良い日にはドライブが快適です。奥様を連れて差し上げられては」
 森川さんはこう言った調子で、近辺の事情を解説してくれたのだった。
 そのうち時間が来て、清田さんはその場を閉じた。そうして一同は諸々、別荘に帰って行った。
 夕食の際、妻にいきさつを話すと、
「親切な人ね」
「そうだったね」
「ここらじゃ新米なんだし、新しくできたお友達を大事にしなきゃね」
「ああ」

 週一回の愛湯会のほかに、用事はない。囲碁と将棋、そして麻雀の集いがあればいいのだがと思うのだが、やっていない。日中のテレビは、おおかた主婦を念頭に作られているのだろう、趣向が合わない。
 陶芸やらそば打ちやらの集いは、40年以上を工員として過ごしたせいだろうか、もはや敬遠の対象となるのだった。
「お前は参加しないかい?」
「私は結構」
「温泉と食事で、気安いご近所コミュニケーションだ」
「あなたが親しくしておいて」
 妻は家庭菜園にかかりっきりだ。空いた時間は関係の本を読んだり、窓際の籐椅子に座って居眠りをしている。妻もテレビというものをあまり見ないのだった。
「明日、ホームセンターにでも行こうか?」
「あらうれしい、ちょうど欲しい肥料があったのよ」
「じゃあそうしよう。俺は工具を買う」
 夕食を終えると早々に温泉風呂に入り、自室で少しテレビを見て寝た。

 愛湯会への参加は滞りなく行い、すぐに会員全員との顔合わせを済ませることができた。
 60代と70代が中心で、80代の会員もいた。定年退職を迎えた後に移住してきた人ばかりで、清田さんは教員をしていたとのことだった。森川さんは独身で、工場の一般職を定年まで勤め上げたあと、一念発起して移住を決めたとのことだった。
「私も工員一筋47年です」
「ならご縁がありましたね。私は経理を主に担当していました」
「ちっぽけな工場でしたが、こうしてここまでやってこれました」
「私も工場様様です。頭が上がりません」
 家に帰って妻に話すと、
「工場のご縁があったわけね。良いご縁じゃない」
「向こうのほうがずっと大手だったがな」
 妻は機嫌よく、
「いろいろと教えてもらってください」
「気立ての良い人でね」
「観光コースなども」
「次の機会にそうしよう」
 夕食を済ませ、風呂に入ったあと少し酒を飲み、会への参加者が森川さんを始めとして、気の優しい人ばかりであることに、感謝しなければなと思った。

 しばらくして、市の健康診断で、妻に癌が見つかった。大きな病院でも診断は同じだった。
 すぐに入院の運びとなり、見舞いと付き添いで、たいへんな生活が始まった。癌は悪性で、一年持つかどうかでしょうと主治医は話した。
 妻には平然と接するよう努めたが、早すぎる寿命に家で涙することがあった。50年近くの伴侶を定年後はや、失うことになるのだった。
「なにか希望はあるかい?」
「私は何も。あなたは今度の家で、幸せにやってください」
「お前がいなけりゃ幸せも何もない」
「……森川さんでしたっけ、親しくなさっているかた」
「ああ」
「あのかたを娶られてはいかが」
「そんな簡単なことじゃないよ。お前がいなくなるだけで力が湧かない」
「私の分まで幸せになさってください」

 医者の診断通り、妻は一年余りで死んだ。棺には妻の家庭菜園の花を入れた。
 妻はどうして森川さんを後妻にもらえと言ったのかはよくわからなかった。面識はないはずだったが、別荘地内の主婦たちの井戸端会議で、評判が良かったのだろうかとも推察した。
 近くの住民はほとんどが夫婦二人で暮らしていたが、森川さんは独り暮らしだった。土地柄、車には乗っていたが、地味な軽自動車だ。愛湯会以外の会には参加していないとのことだった。
 ――森川さんは結婚したことがないと話していた。昔、大きな恋愛に失敗でもしたろうか、知る由もない。俺が再婚を申し出れば、受け入れてくれるだろうか? 俺はそれで幸せか?

 近くの工務店に頼んで、庭に池を作らせ、そうして色鯉を飼い始めた。餌には、はじめは市販の粉末のものをやっていたが、そのうちミミズのほうが気に入ると知り、町で手に入れて撒くようにした。鯉たちは悠々と水の中から集まり、一匹また二匹と口にしていった。
 始めは色鯉を気に入っていたが、そのうちペットショップで見かけた黒鯉が気に入り、色鯉が死ぬごとに入れ替えて、とうとう鯉はすべて黒鯉に替わった。
 毎朝の朝食後、庭に出てミミズを撒く。鯉たちは水面に現れて口にすると、再び水中に姿を消していった。黒鯉は総じて色鯉より長寿であった。

 結局、森川さんに再婚を申し出て、受け入れてもらった。森川さんとは結婚翌日から同居を始めた。長男と長女には事後報告だったが、嫌な顔もしなかった。
「いい人なの?」と長女が電話で訊いた。
「この上なくな」
「お母さんはその人、知っていたの?」
「俺からはたまに話していた。だから近所の主婦の井戸端会議でも耳にしていたろう」
「遠慮なく訪れるからね」
「もちろん構わん」
 とはいえ、長男も長女も顔を出すことはなかった。

 朝食は洋食に決めており、私の希望通りの品を、同じメーカーのもので出してもらうことにした。ただコーヒーは、森川さんの希望があって、ワンランク上のものに替わった。
 愛湯会は、相変わらず二人して参加している。もともと夫婦二人で参加しているケースが多いのである。
 会員たちは皆、お祝いの言葉をくれた。清田さんは、会員たちからだと言って、陶器の置物をくれた。
「こんなことになるなんてね」
「清田さんのおかげです」
「お二人、お似合いですよ。人間の良さはすぐに伝わります」
「ありがとうございます。二人とも工場勤めが長い、工場婚です」
「日本を支えているのは工場ですからね」
 清田さんはそんなことを言って、日本酒をごちそうしてくれた。
「お二人とも、愛湯会へのご参加を引き続き、よろしくお願いします」
「そのつもりです」
 家に帰ると森川さんは感じ入った様子で、
「会の皆さん、祝福してくださったですね」
「君の人徳のなせる業さ」
「特に会のお手伝いもせず、入浴とお食事を楽しんでいただけなんですよ」
「新入りの俺にも、親切に接してくれたじゃないか」
「あれは、下心があったからですよ」
「ばかいえ、あの時妻は健在だったろう」
 森川さんは笑い、そうして食事の支度にかかった。

 鯉の餌にミミズをやることにしてから、えさ代もばかにならないが、鯉たちの反応が粉末のそれとは段違いだ。
 私が餌を持って近づくと、ばらばらと近づいてくる。10匹ほどだろうか、前の色鯉より長生きなので、小さな葬式を行う頻度も少なくなった。
 私には信仰はないが、鯉が神の化身で、好物のミミズを毎朝与えることで、神の御利益があればよいと考えることはあった。
 祈りはただ、妻が死んだあとの今の生活が、平穏に推移しますようにということだった。

 夫婦二人しての愛湯会は週一回、必ず参加し、おしどり夫婦と呼ばれるようになった。
 妻が営んでいた家庭菜園は、森川さんがそのまま引き継いだ。毎日のように庭に出て、畑の手入れをしている。
 妻を早くに失った痛手は、そのうち薄れてきた。清田さんが褒めるように、森川さんは申し分のない伴侶だった。

 森川さんが倦怠感を訴えて病院に入院した。担当医は、妻の時と同じだった。
 面談室で医師は暗い表情で、
「悪性の癌ですね」
「間違いではありませんか?」
 訊き返した。
「間違いありません」
「前の妻もそうだったんですが」
「悪い偶然です」
 家に帰ると、普段は飲まないウイスキーを一本空け、そのまま寝込んだ。

 翌朝、いつもより遅く目が覚めて、すぐに鯉に餌をやった。10匹全員にまんべんなく行きわたるようにミミズを投げる。鯉たちに変わった様子はない。
 久しぶりの深酒に頭が少々痛んだ。最後のミミズを投げ入れてから台所に向かい、昨日買ってきたサンドイッチを食べた。
 俺は疫病神ではないかと天を呪い、缶コーヒーを飲み干すと、再び布団に入って眠りについた。

 森川さんの葬式を終え、家に帰ると、またウイスキーを一本空けた。工員時代に酒で体を悪くして以来、控えることに決めていたのだった。
 翌日は布団から出ることができず、一日を横になったまま過ごした。
 その翌日は朝早くに目が覚め、昨日、鯉に餌をやり忘れたことに気付いた。飼い始めて以来、初めてのことだった。
 私が近づくと、鯉たちはいつもと変わらずばらばらと近づいてきた。そうして最後のミミズをやり終えると、鯉たちはばらばらと散っていった。
 私はそれを眺めながら、鯉を飼うのはもうよそうと思った。
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