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シフォンのきもち

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 季節はいつの間にか梅雨に入っていた。

 あの日のマドレーヌは、翌朝、こっそりと伯母の元へ届けた。伯母からは特に何も言われなかったけれど、私がこれから忙しくなることを母から聞いていたのかもしれない。
 彼からも、今のところ連絡はない。こうしてお互いに何となく気まずいまま、疎遠になっていくのだろうか。


 私は母の勧めで教習所に通うことになった。講義の合間を縫っては教習所に向かう日々。そうやって自ら忙しく動いていないと、余計な事を考えてしまうから、それはとても有り難い提案だった。
 帰宅すれば夕食後には翌日の分のスイーツを作り、朝、学校に行く前に伯母の家に届ける。めまぐるしくて身体はいつも疲れていたけれど、その分、夜は死んだように眠ることができた。

 ある日、いつものようにスイーツを届けに行くと、既に彼は出勤した後で、伯母が一人で朝食をとっていた。


「律ちゃんおはよう。いつも悪いわねぇ」
「おはよう。いや、うん、大丈夫だよ」
「最近、瑛士のおやつが朝のうちに届くから、なんか変な感じなのよねー。そうだ、時間ある?ちょっと伯母ちゃんとモーニングしない?」


 私の分のトーストを焼いてもらい、ゆで卵とサラダをいただくことにする。今日は授業が二限からだったからまぁ、たまにはいいか。


「ありがとう。いただきます」
「……ふふ。全くもう、笑っちゃうわね」
「ん?」
「律ちゃんったら、瑛士と一緒ねぇ。“ありがとう。いただきます”って。……ねぇ、瑛士と何かあった?あの子、ここのところ毎日おやつを見ては、がっかりしてるの」 
「え……。何もないけど、がっかりって?」
「本当に何もない?瑛士ね、昨日なんか、何て言ったと思う?“これじゃ律の顔が見えない”ですって」
「え、どういうこと?」
「そうねぇ。伯母ちゃんから見て、なんだけどね。最近の律ちゃんのスイーツ、なんていうか、ちょっと手抜き?みたいな」
「ご、ごめんなさい……」


 否定はできない。


「あぁ、違うの!律ちゃんが忙しいのは和音かずねから聞いてるし、それは別に仕方ないと思うの。むしろこれまでずっと瑛士の為にわざわざ申し訳なかったと思ってる。まぁ、瑛士がワガママ言ってるだけだから気にしないで」


 “上手く言えないけど”と済まなそうに伯母が笑った。
 私の方から再び距離を置いていくという意味もあって、徐々に簡単なスイーツにチェンジしていくつもりだったのだけれど、彼には伝わっていないのだろうか(ちなみに和音というのは私の母のことだ)。
 私はトーストを齧るのをやめて、コーヒーを一口飲んだ。伯母はなおも続けた。


「手作りのものをいただく時って、知り合いが作ったものならその人の顔を目に浮かべたりすると思うんだ。それが簡単なつくりのものだとイメージしにくいっていう意味なのかな。おばちゃんの想像だけど。あの子ね、ここだけの話、いつもは律ちゃんの作ったものを一人だけでゆっくり味わうの。瑛士にとって、律ちゃんの作るスイーツは、きっと食べる時間も含めて大事なものなのかもしれないわね。でも最近はお茶もコーヒーも淹れないし、ささっと食べて、すぐに部屋に行っちゃうのよ。やっぱり寂しいんじゃないかしら」


 そうだったんだ。
 彼が就職してからは、ちゃんと夕方に届けていた時でもあまり会う機会はなくなっていたから、どんな風に食べているのかなんて、これまで考えたこともなかった。
 まして今は、更に会わずに済むように、朝、あえて彼の出勤後に届けているのだ。それも手抜きの“スイーツ”ともいえない代物を。そう、例えば寒天とか、ゼリーとか……。

 私が黙ってまたトーストを齧り始めると、伯母が折り畳まれた付箋を差し出した。


「これなあに?」
「ね、すごいわよね。最近の付箋は中身が見えないように折りたためるのねぇ」


 いや、そこではなく。

 心の中で突っ込みながら、中を開いて見ると、国語の先生にあるまじき、彼の乱暴な筆跡。


『律のシフォンケーキが食べたい』。


「も、もうっ。メタボになっても知らないよ……っ」


 伯母が目の前にいるのに涙が出そうだ。
 私は必死に堪えて鼻をすする。


「瑛士、何て?」
「シフォンケーキが食べたいって……」
「あら。まー、呆れちゃうわねぇ。律ちゃんに会いたいって素直に言えばいいのに。あ、あとね、手作りならスナック菓子より余程ヘルシーだから、そんなにすぐ太らないと思うわよ。律ちゃん、揚げ物は絶対に作らないし時々はちゃんとカロリーの低そうなものも作ってくれてるじゃない。だから毎日食べても大丈夫よぅ!」
「………え。ちょ、待っておばちゃん。“会いたい”って………?」
「やだ、律ちゃん、そこまで鈍くないでしょ?………いい?あのね、よく聞いて」


 伯母は急に真面目な顔をした。


「おばちゃんは、あなた達がつきあいたいなら反対はしないわよ」
「え……、ど、どういうこと?」
「法律上はいとこ同士でも結婚できるのよ?」
「い、いや、そうじゃなく………。え、あの」


 いくらなんでも飛躍しすぎだ。
 だってそこに彼の意思はないだろう。たとえ私の気持ちが親たちにバレていたのだとしても。


「和音と二人で“あの子たち、遠回りしちゃってばっかじゃないの~?”っていつも言ってるのよ。………ね、律ちゃん。瑛士が好き?」
「な……な……」


 いったいどんな親なのよ、この人たちは!!
 あいた口が塞がらないよ……!!

 顔から火が出そうで、本当にいたたまれない。


「まぁいいわ。なんかその過程も楽しいから」


 どんな過程ですか!!
 
 私は、食器を下げただけで勘弁してもらい、早々に“ごちそうさま”を言って伯母の家を出た。

 学校、そうだよ。とりあえず学校に行かなくちゃ。



 私が彼に振る舞うシフォンケーキは、必ず食べる時に切り分け、その場でゆるく泡立てた生クリームを添える。ケーキ自体は前の日に焼いておくけれど、そういえば彼はいつも目の前で私が生クリームを泡立てるのを楽しげに見ていた。

 生クリームを軽く泡立てるだけなら、彼でも出来るだろうし、伯母だって勿論そのくらいは頼めばしてくれるだろう。
 それなのに、その付箋に書かれたメッセージは、思い過ごしでなければ恐らく私を呼んでいる。こんなに嬉しいことってあるだろうか。
 
 ねぇ、お兄ちゃんはどんな気持ちであのメッセージを書いたの?私を呼ぶことに、何か意味があるの?それともただ単にシフォンケーキが食べたいだけ?


 私は、その後学校に着いても講義の間もふわふわと、まるで焼きたてのシフォンケーキのような気持ちを持て余しては、彼に想いを巡らせた。
 会うのはまだ怖いような気がするけれど、やっぱり私も寂しかったから。


 紅茶のシフォンケーキを作ろう。
 そう決めていた。
 
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