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眩暈のころ 後刻
只者でない
しおりを挟むホテルのドアを表からこじ開けて、迫力のある大柄な娘が、私に怒鳴り散らしている。彼女は近海の妹だと名乗った。兄に係わるなと強硬に訴えたいらしい。
私は彼女に侵入されないようキーチェーンを掛け、怒鳴りかえしたいのに、咽喉が詰まり、声を出すことも出来ずにいる。
扉の隙間から、薄暗い廊下に佇む近海の横顔が、遠くに見えた。彼の周囲だけは、ふしぎと仄かに明るく輝いている。曖昧なようすで、視線は前方に向けられてはいるものの、その眼は何も捉えていないみたいだった。
妹を名乗る若い女は叫びつづけ、私も内側からドアを押しつづけて、懸命に彼女を撃退しようと努めた。
妹の顔には見覚えがあった。近頃テレビのバラエティ番組によく登場している、人気の女芸人だ。寝る前にCMで見かけたから、夢に出てきたのであろうと思う。なぜ彼女に責められるんだか、分析が難しい。
昔の記憶は薄れ、思い出す近海は、蝉丸のカフェで再会した折の面影である。
過日、すれ違った下校中の中学生が、「ソ連って、どんな漢字を書くんだっけ」と話しており、年月どころか、歴史の流れを感じた。きっと彼らには、ベルリンの壁も、教科書の記述によって知っているだけで、リアルな実感などないに違いない。
あの日、近海はおだやかな表情で、「楽しくなければ人生じゃない、だよね」と幾度も云った。近海は自分をぎりぎりに追い込みたがる性質なので、うがった捉え方をするならば、極限状態に身を置かなければ生きている気がしない、と主張しているとも取れる。
店を辞して、二人して駅へ向かう途中、カトリック教会の前を通りかかった。近海は歩調をゆるめ、気取ったしぐさで十字を切り、咥え煙草のまま、手を組み合わせた。瞼を閉じたかも知れない。そうして、口の中で、何やら小さく呟いた。
ポーズなのか、信仰心からか分からないが、私は「気障な真似をしやがって」と、胡散臭く眺めていた。本気で祈っていたのだとしたら、何を祈っていたのであろうか。
お盆の季節が巡ってきても、近海は帰らなかった。残念だが、もう、あんまりがっかりしない。電子メールにも、クリスマスカードにも、近海からの返事は貰えぬまま、またも夏が訪れた。
近海は有名人でも何でもない、ただの会計士だけれども、会った瞬間に才能を予感させるような、特別な空気を放っていた。
身近な存在だから贔屓するわけではなく、好みにかなうと云う点において、ブライアン・ジョーンズとか、レイ・デイヴィスとかよりも、近海は私にとって、もっとずっと大好きなギタリストであり、ボーカリストである。名をなさなくとも、そのような偉大な不良は、音楽に限らず、巷に多く潜んでいると思われる。
お盆に近海の夢を見たので、ふと気にかかったが、私には何の感度もないから、彼に災難等が降りかかったなんて、あり得ないだろう。
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