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忘れ形見にどうか僕を

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 障子に透ける月明かり。静寂に響く衣擦れの音。

「……本当に、よろしいのですか」
「ふふっ、相変わらずお前は慎重だね。何度目だい?その問いかけ」

 ゆっくりと頬を撫でてくるその手は、もう子供のものではない。気づかないふりをするのも、もう限界だった。俺は今から、受けた恩全てを仇で返す。
 親に早くに捨てられて、毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際だった俺を拾って人間として育ててくれた大切な、大切な主人。そんな主人に仕えて20年。感謝してもし切れない。そんな主人のご子息様は、俺にとって当然守るべき存在で、尽くす相手だった。主人に言われずとも俺は彼のそばにいた。そばにいて、ずっとずっと支えてきた。そうして気付けば18年。
 触れれば折れてしまいそうだった細腕は、随分と逞しくなった。
 いつも見下ろしていたはずの背丈は、もう俺とほとんど変わらない。
 坊ちゃんは、いつしか1人の男になっていた。

「何を感傷に浸っているんだい……ほら、早く」

 男にしては細い指で、はだけた胸元をなぞられる。弄ぶようなその仕草に、ふざけているだけなのかもしれない、なんて無理やり可能性を見出そうとして。それでも押し倒そうと、帯を緩めようと、彼は笑みを崩さない。いつも通り、どこか儚げな瞳で唇の端を歪めている。

「……坊ちゃん、貴方ほどの別嬪ならば、惚れぬ女子はいないでしょう。明日のお嫁様も、町一番の美人と評判です……それに比べて俺はただ図体のでかい男です。柔らかい手も、鈴の音のような声も、何一つありません。傷だって、身体に幾つも刻まれています……やっぱりこんなこと」

 女はもちろん、男ですらこの身体を見せれば怖れ逃げた。ついた傷に恥も後悔もない。だが、こんな汚らしいものをこのお方の尊い目に触れさせたくはなかった。
 思わず俯く俺を覗き込んで、坊ちゃんはくすくすと、おかしそうに笑う。

「もう、坊ちゃんはよしてくれと前々から言っているだろう?」

 そのまま手と手を絡めて、もう片方の手では俺の身体の傷を順々に撫で上げる。

「この傷は5歳の時、私が人攫いにあいかけたのを助けた時についた傷だ。こっちは10歳の頃。刺客から私を庇って受けた傷。そしてこの手は、私を守るために日夜励んでいる訓練の賜物。刺客に怯えて眠れず苦しんだ夜。私は何度お前のその声に安心したのだろう。何度お前の温もりに助けられたのだろう……私は、そんなお前だから愛おしく、この身を預けたいと思うのだよ」

 坊ちゃん、と反射的に言いかけた俺の唇に、指が押し当てられる。

「今夜くらいは、名前で呼んでおくれ。最初で最後の逢瀬なのだ。それくらい、許されるだろう? 」

 表情はずっと変わっていないはずなのに、先ほどよりもどこか寂しげに見えるのは俺の願望か。
 もう、言葉は交わさなかった。犯してはならない過ちだと、お互い痛いほど理解していても、止められなかった。身分も境遇も、未来も過去も。今夜だけは、今夜だけは。すべて見ない振りをして、俺たちは貪るようにお互いを求め合った。

 日が昇る前に、忌まわしい朝が来る前に。俺はそっと彼のそばを抜け出す。伝えきれていないことは山ほどあった。叶うことなら、もっと触れていたかった。いくら願えど、時は過ぎていく。
 彼と俺は主人と従者……だった。そう、昨日までは。けれど長年恋焦がれていた愛しい人に一度触れておきながら、それを忘れるなんて、俺には出来っこない。不器用な俺に、できるはずがない。そんなこと、最初から分かりきっていた。
 旅立ちのため、まとめた荷物を背負う。やけに軽く感じるそれに、この20年間が詰まっていると思うとどうしようもなく寂しくなる。部屋から出ようと一歩踏み出して……踏み出そうとして。俺はくるりと向きを変える。

「……貴方の前では格好良くありたかった。だから、貴方の声さえ聞かなければ、潔く去れると思ったんですけれどね……やっぱり俺には無理だったみたいです。坊ちゃん、どうか哀れな男の最後の自己満足を、お許しください」

 彼との一夜を証明するために、昨夜脱ぎ捨てたままの彼の夜着を奪って。裏切り者はそのまま闇に消え去った。

 残された者の声など聞かずに。

 障子に差し始める陽の光。静寂に響く男の独白。

「……私を忘れたくないのなら、私ごと連れて行けばよいだろうに!そういうところがっ……!!!」


 ぽとりと落ちた雫に気づく者は、誰一人としていなかった。
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