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起転[承]乱結Λ
幕間 テルミナ・ニクシー最終出勤日
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ベルニク領邦軍の頂点は統帥権を持つ領主である。
参謀本部は軍の運用や作戦行動に関して補佐する役割を持つが、トール・ベルニクが重用しなかった為に本書では触れて来なかった。
他方の軍務省は軍の維持に関わる軍政を司っている。予算編成から給与、制服の至急、教育、監査に至るまでを担う、いわば領邦軍の後方支援組織だ。
ガウス・イーデン少将が率いる憲兵隊も軍務省に属している。
なお、憲兵隊を統括する憲兵司令部は、邦都中心街ではなくバスカヴィ地区に在った。
省内で軽視されている訳ではなく、各基地への出張が多いため、軍と共用利用されるバスカヴィ宇宙港近傍に庁舎が置かれているのである。
ここを通勤先とするテルミナ・ニクシーにとっては好都合であった。
彼女は士官に提供される官舎を選ばず、バスカヴィ地区の外れにあるアパートメントで暮らしていたからだ。
低所得者の暮らす地域に存在する古いアパートメントだが、庁舎までアンダーループと呼ばれる公共交通機関を使えば数分で着く。
テルミナがここに居座り続けるのは、通勤距離だけが理由では無かった。
ガウスに拾われるまで暮らした火星軌道都市アレスのスラム街に、比較的近い雰囲気を漂わせているからである。
スラムは彼女にとって呪いであると同時、刻まれた郷愁でもあった。
つまるところ生まれた土地以外、依って立つものが今のテルミナには無いのだろう。
「ほらよ」
早朝の通勤路を歩くテルミナへ、フードスタンドの売り子がサンドイッチを二つ放り投げた。
驚く事もなく受け取り、ニューロデバイスに触れて支払いを済ませる。
「明日も頼むぜ」
頷いた後、今日で最期だったことを思い出す。
「ワリぃな。今日限り、テメェの面は見るこたねーんだ」
訝し気な表情を見せる売り子を置き去り、彼女はサンドイッチをひとつ頬張る。
少し進んだ先で、路地脇にある青いダストボックスの上に、余ったサンドイッチを置いた。
彼女が過ぎ去ると同時、さらに小さな人影が駆ける。
◇
「じゃあな」
憲兵司令ガウス・イーデン少将のオフィスを訪れ、テルミナは礼儀を示した。
「――俺は不安だよ。テルミナ」
今日までは上司であるガウスが、執務机の上で結んだ両手に顎を乗せ息を吐いた。
「閣下は寛大なお方だが、屋敷にはうるさ方も多い」
テルミナは、新設される情報機関へ移籍し、勤務先もトールが住まう屋敷となる。
その広大な屋敷には、トール施政下において存在感は薄いが、重臣達の執務室もあった。
主たる重臣として、内務相、軍務相、国務相、財務相がおり、中でも内務相は礼儀礼節にとかく煩い男として有名である。
その上に、新設組織が軌道に乗るまで多忙になろうとの配慮から、屋敷にある居住区の一室が割り当てられていた。
いかにもトラブルが発生する予感に、ガウスは苛まれている。
あるいはそれは、娘が自らの手を離れることに怯える父の感情と、少しばかり近似していたのかもしれない。
「大丈夫だよ。アイツもいるし」
「閣下だ」
ガウスは訂正しつつ引き出しを開けると、包装された小さな箱を取り出す。
「ほら」
「――んだよ?」
「餞別だ」
「そういうの、送別会で渡すもんだろ?」
特務課主催で、今夜はテルミナの送別会が開かれる。
「生憎、午後から出張だ。フェリクス――いや帝都へ行く」
新生派オビタル帝国における帝都はフェリクスなのだ。
「へえ?――ベルニクの憲兵が帝都に出張る必要なんてあるのか?」
「ベルニク軍も暫定的に駐留しているからな」
帝国が直轄する軍事組織の整備は未だ途上にあった。
新生派勢力圏内に在る公領の旧帝国軍は、忠誠を誓わせた後に再編成をしている。
とはいえ、旧帝都を含む復活派勢力圏内の帝国軍は、士気は不明ながらエヴァンの指揮下にあった。
そのため、帝都を守る兵が不足しているのである。
ベルニク、オソロセア、マクギガンの三領邦から艦隊と兵を出し、これを以って守備兵としていた。
「フェリクスで厄介な話がある。特務課を――いや――そういえば、お前にはもう関係が無かったな」
出勤最終日に聞かせる内容ではないと考えガウスは話題を切り上げる。
「ともあれ、そういう訳だ。閣下の元で励め」
テルミナ・ニクシーは、常の皮肉な笑みを消して敬礼した。
◇
深夜を過ぎている。
送別会で飲まされ過ぎたせいか、泥酔とはいかないまでも身体は火照っていた。
心地良い気持ちで、歩き馴れた路地を進む。
「フン」
サンドイッチの消えた青いダストボックスを横目に確認し鼻を鳴らした。
気まぐれから始まり、惰性で長年続けていただけの事なのだ。
明日からどうなるのか、それは彼女の知った話では無い。
見知らぬ相手の幸運がひとつ減るだけだろう。
「おい」
良い気分のテルミナの背後から声がした。
テルミナがバヨネットに手を掛けて振り向くと、薄暗い照明の下に痩せた少年が立っている。この地域に回される予算は少なく、不十分なのは夜間照明の明るさだけでは無かった。
トール・ベルニクの光は、ここには未だ届かない。
「んだ、テメェ?」
見当は付くが、礼儀として名を尋ねた。本日のテルミナは礼節を知る。
「ねーちゃんのゴミを拾ってやってるモンだ」
「かっ、ゴミ――ふざけた野郎だな」
苛立つと同時、少しばかり可笑しみも湧いた。
外形的にはそうであろうし、媚が無いのも良い。
この地域には、目の前に立つ少年のような浮浪児が多数いる。
受け皿として教会は有るのだが、そこからも零れ落ちた連中だ。
事情はそれぞれにあるが、結局のところ産んだ奴が悪い、とテルミナは思う。
先史文明の良い点をひとつ上げるとするなら、生殖の管理にあったかもしれない。
だが、オビタル帝国はこれを完全に否定し、再び生殖と快楽を密結合とした。
「そのゴミは、明日からねーぞ」
「ガマから聞いた」
フードスタンドに立つ売り子の名である。
「そうかよ。ま、頑張って他のゴミを探せ」
「状態の良いゴミは少ないけど、努力はする」
会話をしてようやく分かったのだが、少年は教育をうけた子供の口調である。
元々はまともな家庭にいて――というケースなのかもしれない。
「ケーザイも上向きかけてるから、何とかなると思う」
「け、けーざい?テメェ意味分かって言ってるのか?」
少年は首を振った。
「ここらにも金が回って来る――ガマが言っていただけだよ。でも、アイツは馬鹿だから間違ってるかもしれない」
「チッ」
舌打ちをして、テルミナは少年の頭を叩いた。
「ガキが、ケーザイとか抜かすんじゃねーぞ。テメェなんざ――」
テルミナは、ずっと不思議に思っている事がある。
スラムにいた多数の浮浪児の中で、なぜ自分を選んだのか?
ガウス・イーデンは、なぜ自分を救ったのか?
その答えを、今ようやく得たように思った。
「――まあ、いいや」
浮浪児とて、基本的にはニューロデバイスが有る。
腕を伸ばしたテルミナは、少年が後ずさる間もなく触れた。
「ケーザイを知りたくなったら連絡を寄こせ」
「今、教えてくれ」
「そいつは、あーしの専門外だ。だから知ってる奴を紹介してやる」
テルミナ・ニクシーが就く新しいポストは、子供ひとりに教育を受けさせる程度の収入は十分にある。
後年、この出会いが彼女と、そしてベルニク領邦を救う。
因果は巡るものだ。
◇
軽くシャワーを浴び、ベッドに入ったところで、ガウスからの餞別を思い出す。
明日にしようと考えたが気になりだすと止まらず、再び起き上がって包装を解き小さな箱の蓋を開ける。
派手な色彩のカードと一枚の写像があった。
派手な色彩のカードにはポップなテイストで老婦人のイラストが描かれているが、無骨な眼帯をつけている点は見る者の心をざわつかせる。
「んだ、こりゃ?」
裏返すと『ミセス・ドルンの礼儀講座』と記載されていたので、テルミナは何度か悪態をつきながら投げ捨てた。
「ったく、ガウスの野郎……」
一方の写像には――、
ベルニク軍憲兵学校の制服を纏う緊張した面持ちの幼女――否、少女がいた。
参謀本部は軍の運用や作戦行動に関して補佐する役割を持つが、トール・ベルニクが重用しなかった為に本書では触れて来なかった。
他方の軍務省は軍の維持に関わる軍政を司っている。予算編成から給与、制服の至急、教育、監査に至るまでを担う、いわば領邦軍の後方支援組織だ。
ガウス・イーデン少将が率いる憲兵隊も軍務省に属している。
なお、憲兵隊を統括する憲兵司令部は、邦都中心街ではなくバスカヴィ地区に在った。
省内で軽視されている訳ではなく、各基地への出張が多いため、軍と共用利用されるバスカヴィ宇宙港近傍に庁舎が置かれているのである。
ここを通勤先とするテルミナ・ニクシーにとっては好都合であった。
彼女は士官に提供される官舎を選ばず、バスカヴィ地区の外れにあるアパートメントで暮らしていたからだ。
低所得者の暮らす地域に存在する古いアパートメントだが、庁舎までアンダーループと呼ばれる公共交通機関を使えば数分で着く。
テルミナがここに居座り続けるのは、通勤距離だけが理由では無かった。
ガウスに拾われるまで暮らした火星軌道都市アレスのスラム街に、比較的近い雰囲気を漂わせているからである。
スラムは彼女にとって呪いであると同時、刻まれた郷愁でもあった。
つまるところ生まれた土地以外、依って立つものが今のテルミナには無いのだろう。
「ほらよ」
早朝の通勤路を歩くテルミナへ、フードスタンドの売り子がサンドイッチを二つ放り投げた。
驚く事もなく受け取り、ニューロデバイスに触れて支払いを済ませる。
「明日も頼むぜ」
頷いた後、今日で最期だったことを思い出す。
「ワリぃな。今日限り、テメェの面は見るこたねーんだ」
訝し気な表情を見せる売り子を置き去り、彼女はサンドイッチをひとつ頬張る。
少し進んだ先で、路地脇にある青いダストボックスの上に、余ったサンドイッチを置いた。
彼女が過ぎ去ると同時、さらに小さな人影が駆ける。
◇
「じゃあな」
憲兵司令ガウス・イーデン少将のオフィスを訪れ、テルミナは礼儀を示した。
「――俺は不安だよ。テルミナ」
今日までは上司であるガウスが、執務机の上で結んだ両手に顎を乗せ息を吐いた。
「閣下は寛大なお方だが、屋敷にはうるさ方も多い」
テルミナは、新設される情報機関へ移籍し、勤務先もトールが住まう屋敷となる。
その広大な屋敷には、トール施政下において存在感は薄いが、重臣達の執務室もあった。
主たる重臣として、内務相、軍務相、国務相、財務相がおり、中でも内務相は礼儀礼節にとかく煩い男として有名である。
その上に、新設組織が軌道に乗るまで多忙になろうとの配慮から、屋敷にある居住区の一室が割り当てられていた。
いかにもトラブルが発生する予感に、ガウスは苛まれている。
あるいはそれは、娘が自らの手を離れることに怯える父の感情と、少しばかり近似していたのかもしれない。
「大丈夫だよ。アイツもいるし」
「閣下だ」
ガウスは訂正しつつ引き出しを開けると、包装された小さな箱を取り出す。
「ほら」
「――んだよ?」
「餞別だ」
「そういうの、送別会で渡すもんだろ?」
特務課主催で、今夜はテルミナの送別会が開かれる。
「生憎、午後から出張だ。フェリクス――いや帝都へ行く」
新生派オビタル帝国における帝都はフェリクスなのだ。
「へえ?――ベルニクの憲兵が帝都に出張る必要なんてあるのか?」
「ベルニク軍も暫定的に駐留しているからな」
帝国が直轄する軍事組織の整備は未だ途上にあった。
新生派勢力圏内に在る公領の旧帝国軍は、忠誠を誓わせた後に再編成をしている。
とはいえ、旧帝都を含む復活派勢力圏内の帝国軍は、士気は不明ながらエヴァンの指揮下にあった。
そのため、帝都を守る兵が不足しているのである。
ベルニク、オソロセア、マクギガンの三領邦から艦隊と兵を出し、これを以って守備兵としていた。
「フェリクスで厄介な話がある。特務課を――いや――そういえば、お前にはもう関係が無かったな」
出勤最終日に聞かせる内容ではないと考えガウスは話題を切り上げる。
「ともあれ、そういう訳だ。閣下の元で励め」
テルミナ・ニクシーは、常の皮肉な笑みを消して敬礼した。
◇
深夜を過ぎている。
送別会で飲まされ過ぎたせいか、泥酔とはいかないまでも身体は火照っていた。
心地良い気持ちで、歩き馴れた路地を進む。
「フン」
サンドイッチの消えた青いダストボックスを横目に確認し鼻を鳴らした。
気まぐれから始まり、惰性で長年続けていただけの事なのだ。
明日からどうなるのか、それは彼女の知った話では無い。
見知らぬ相手の幸運がひとつ減るだけだろう。
「おい」
良い気分のテルミナの背後から声がした。
テルミナがバヨネットに手を掛けて振り向くと、薄暗い照明の下に痩せた少年が立っている。この地域に回される予算は少なく、不十分なのは夜間照明の明るさだけでは無かった。
トール・ベルニクの光は、ここには未だ届かない。
「んだ、テメェ?」
見当は付くが、礼儀として名を尋ねた。本日のテルミナは礼節を知る。
「ねーちゃんのゴミを拾ってやってるモンだ」
「かっ、ゴミ――ふざけた野郎だな」
苛立つと同時、少しばかり可笑しみも湧いた。
外形的にはそうであろうし、媚が無いのも良い。
この地域には、目の前に立つ少年のような浮浪児が多数いる。
受け皿として教会は有るのだが、そこからも零れ落ちた連中だ。
事情はそれぞれにあるが、結局のところ産んだ奴が悪い、とテルミナは思う。
先史文明の良い点をひとつ上げるとするなら、生殖の管理にあったかもしれない。
だが、オビタル帝国はこれを完全に否定し、再び生殖と快楽を密結合とした。
「そのゴミは、明日からねーぞ」
「ガマから聞いた」
フードスタンドに立つ売り子の名である。
「そうかよ。ま、頑張って他のゴミを探せ」
「状態の良いゴミは少ないけど、努力はする」
会話をしてようやく分かったのだが、少年は教育をうけた子供の口調である。
元々はまともな家庭にいて――というケースなのかもしれない。
「ケーザイも上向きかけてるから、何とかなると思う」
「け、けーざい?テメェ意味分かって言ってるのか?」
少年は首を振った。
「ここらにも金が回って来る――ガマが言っていただけだよ。でも、アイツは馬鹿だから間違ってるかもしれない」
「チッ」
舌打ちをして、テルミナは少年の頭を叩いた。
「ガキが、ケーザイとか抜かすんじゃねーぞ。テメェなんざ――」
テルミナは、ずっと不思議に思っている事がある。
スラムにいた多数の浮浪児の中で、なぜ自分を選んだのか?
ガウス・イーデンは、なぜ自分を救ったのか?
その答えを、今ようやく得たように思った。
「――まあ、いいや」
浮浪児とて、基本的にはニューロデバイスが有る。
腕を伸ばしたテルミナは、少年が後ずさる間もなく触れた。
「ケーザイを知りたくなったら連絡を寄こせ」
「今、教えてくれ」
「そいつは、あーしの専門外だ。だから知ってる奴を紹介してやる」
テルミナ・ニクシーが就く新しいポストは、子供ひとりに教育を受けさせる程度の収入は十分にある。
後年、この出会いが彼女と、そしてベルニク領邦を救う。
因果は巡るものだ。
◇
軽くシャワーを浴び、ベッドに入ったところで、ガウスからの餞別を思い出す。
明日にしようと考えたが気になりだすと止まらず、再び起き上がって包装を解き小さな箱の蓋を開ける。
派手な色彩のカードと一枚の写像があった。
派手な色彩のカードにはポップなテイストで老婦人のイラストが描かれているが、無骨な眼帯をつけている点は見る者の心をざわつかせる。
「んだ、こりゃ?」
裏返すと『ミセス・ドルンの礼儀講座』と記載されていたので、テルミナは何度か悪態をつきながら投げ捨てた。
「ったく、ガウスの野郎……」
一方の写像には――、
ベルニク軍憲兵学校の制服を纏う緊張した面持ちの幼女――否、少女がいた。
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