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38.【幕間】ゴーシュ・ムスクルの場合(2)
しおりを挟む確か、八つになる年の頃だった。どんな集まりだったとか、そんなことはもう覚えていないけれど、あの時のことは鮮明に覚えている。
王宮の廊下の片隅で、膝に顔を埋め、縮こまるようにしてしゃがむ小さな姿。豪奢な屋内で明らかに異質な存在だったけれど、気付いたからには放っておくことはできなかった。
「……大丈夫?」
一歩離れたところから恐る恐る声を掛ける。弾かれたように顔を上げたのは、信じられないことにあのジェシカ・クランベルだった。
突然声を掛けられて驚いたのか、目を丸くしてこちらを見つめている。
見れば、真っ白で柔らかそうな頬に涙の跡がある。栗色の髪はわずかに乱れ、顔に貼り付いていた。
普段はエメラルドのようにキラキラと光輝く瞳が、涙でぐっしょりと濡れている。ポロッと零れ落ちた雫が頬を伝う様が、子供ながらに綺麗だと思った。
「大丈夫?」
「うっ、う、うう~~」
顔をくしゃりと歪ませて、込み上げる感情を抑えるように彼女はつやつやとした赤い唇を噛む。
もう一度聞くと時折しゃくりあげながら教えてくれた。
淑女としてのマナーや勉強が大変なこと。魔法で火を使うのが怖いこと。
「頑張りたい、のに……! 泣いちゃって、悔し、いいぃっ」
そう言って、ぼろぼろと涙を流す。
俺は彼女の泣き顔を見て、子供ながらに衝撃を受けた。
――なんていじらしいんだろう。
なんて可愛いんだろう。
なんて、なんて……
まだ幼くて言葉は追いつかなかったけれど、胸に込み上げてくるものがあって、唇を引き結びながら彼女が泣き止むまでじっと側に立っていた。
それからだ。彼女を目で追いかけるようになって、姿が見えないと分かるとこっそり探すようになった。見つけても何をするでもなく側にいるだけだったから、きっと彼女は過去のことなんてすっかり忘れているだろう。
一度、可哀相に思って彼女に問い掛けたことがある。
「辛いならやめてしまっていいんじゃないか?」
公爵家のご令嬢であれば、自分で出来なくても人を雇うなりいくらでもどうにか出来そうな気がする。
それとも、クランベル公爵が彼女を王子妃とするために余程必死なのだろうか。彼女はエドワードの相手に最も相応しいと言われているから。
そのことを考えると胸がつきんと痛む。
俺の申し出に対して彼女は首を横に振った。
「だめだよ。自分のことは自分で守れるようにならないといけない、ってクロードが」
「公爵令嬢なら誰かが守ってくれるだろ」
「そう、だけど。でも……私を守りたいからたくさん教えてるんだって。私が、大切だから……」
そう小さく呟いた彼女が、大切なものを守るようにぎゅっと自分の体を抱き締める。
言っていることは大して分からなかったけれど、それでも自分のために頑張ろうとしていることは分かった。いじらしいその姿に堪らなく心が揺さぶられる。
そのときだ。俺が自分の将来を考えたのは。
いくら好ましく思っていても、彼女はエドワードの一番の婚約者候補。
釣り合わない思いならせめて――俺は、彼女を守る騎士になりたい。
自分が体を張ることで、少しでも彼女の重荷を減らしてあげたいと思ったんだ。
これが騎士団入団を志すきっかけ。だから騎士団に入ることは手段であって、夢や目的ではない。
あれから、「淑女は人前で涙を見せないの」などと言うようになり、彼女が泣いている姿を見ることはなくなった。
弱音を吐いていた過去などなかったかのように、今では洗練された淑女そのもの。
夜会に出れば華やかな容姿で見る者の心を奪い、けれど隙のない言動で踏み込ませることなく余韻だけ残して去っていく。
本当に完璧だ。そんな完璧な彼女が何故かエドワードの婚約者に選ばれなかったことで、俺やレイスを含めた様々な貴族子息がクランベル家に婚約の打診をしたけれど、ことごとく跳ね返されてしまった。
誰のものでもないのに、誰のものにもならない。それが余計に、狂おしいほど心をかき乱される。
そんな完璧だった彼女は、アメリが転校してきてから、随分と振り回されているようだ。俺自身、迷惑を被ることもあるけれど、アメリの前では淑女の武装を解いて素の表情を見せているのは、良い変化だと思う。
隣を見ると、アメリはキラキラした目で俺の答えを待っている。
ワクワクとした表情を見せるアメリに、俺は笑って答えた。
騎士団を志した理由? そんなの……
「悪いが内緒だ」
とびきり大切な思い出だから、誰にも話さず自分だけの宝物にしたいんだ。
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