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OL時代

腫瘍とは?

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 都会にも秋は深まり、寒さもつのる。
 何ごともなく問題もなく日々は過ぎていく。
 ただ、あれ以来マキノがつぶやいた耳鳴りのことを母さんが執念深く覚えていて、会社が引ける頃に母さんと万里子にかわるがわる総合病院の耳鼻咽喉科を予約するよう迫られて、根負けして診察を受けることになった。

 確かに、耳鳴りは相変わらず続いていて、寝ようと思って枕に顔をうずめると耳元で何かが響いた。頭をぶるっと振ってみたり耳をふさいだりすると一瞬は音が途切れたような気がするのだが、すぐにまたぶうんぶうんと響きだす。耳に異常がなかったとしても煩わしい。家族の声もにぎやか過ぎたが、仕事を休んでまで自分から検診など行くはずもないから、いい機会なのかもしれないとは思う。
 
 総合病院に行って総合受付から耳鼻科受付へと手続きをしていく。病院にはあまり縁がないので、館内のあちこちにある案内表示を注意深く読まねばならなかった。
 耳鼻科では簡単な問診があり、聴力の検査を受けてから診察室に呼ばれた。耳鳴りごときで大げさな・・と思われていないか、少し気が引ける。医師は、ひととおり耳の中を見たり口を開けたり、アゴの骨を軽くコンコンと叩き、そして、言った。

「聴力にも問題はないし、悪いところはなさそうだね。静かなところでシーンという音がしても、それは異常ではないからね?」
まるでお年寄りに言い聞かせているようだ。
「シーンじゃありません。ぶーんって言う音で・・。」
と説明をしようとしたら、その医師はマキノの話をさえぎるように言葉をかぶた。
「耳鳴りは気のせいだと思うけど、喉になんかあるよ。」。
「なんかって何ですか?」
「腫瘍」
 重そうな単語があっさり返ってきた。図らずも小さくどきんとした。
 なので、聞こえたはずの言葉と自分の耳を試す意味もあって声に出して確認してみた。

「腫瘍とは?」
「正常ではない組織の事。できもの。良性または悪性の。」
「ガンの事?」
「そうとは限らないけれど、その可能性もある。」

 ほぅ。・・ほほぅ。やっぱりあっさり言うのだな。でもさほど気持ちは波立たない。
「検査室の方で待ってて。エコーと生検するから。」
 一旦診察室を出て、中央検査室の前の待合室のイスに座った。
 何と言ったかな。エコー?何かで聞いた・・超音波かな。
 せいけんとは?と考えかけて、そうか胃の内視鏡検査を受けたときもそんな言葉を聞いたのだとすぐに思い出した。
 あの時は、自分の体の中がモニターに映っているのを口がふさがったままフガフガと見ていた。自分の胃の中に入れられたカメラの先から小さなハサミのような物が伸び、胃の壁の一部をプツンと切り取った。胃の内側は痛みを感じる神経がないので、ぴくっとお腹の皮が引っ張られたような感覚だけが伝わる。鮮やかすぎる赤い血が胃壁にパッと飛び散るのが見えて、わざわざ傷をつけて検査をすることに理不尽さを覚えたものだ。

 待っているうちに、またすこしあれこれぐるっと考える。
「腫瘍はガンでした。」
と言われたら自分がどうするかを想像しようとしたが、死に結び付けることができなかった。
 そもそも、ガンの告知って最近の常識はどうなのか?
 私の知る限り、昔はもうすこし慎重に使われていたような気がする。パニクる人いないのかな。あの医師は、患者がどう思うか考えたことないのかも。心の痛みに寄り添うことのできない人なのか。 マキノはさっき目の前にいた白衣の男にそんなレッテルを貼ってみた。

 検査室の前に座り、白くて無機質な病院の壁と、何枚か貼られている病気や健康についての告知ポスターを眺めていると名前を呼ばれた。
 検査室の中は薄暗かった。
 服を一枚だけ脱いで襟ぐりのゆったりしたTシャツで看護士の言うままに診察台に寝転がった。大きめのバスタオルを胸までかけてもらい、そのまままた少し待たされた。

 今は十二月。外はずいぶん寒かったが、検査室はやや温度が高めになっている。
 衣服の着脱を考慮してだろうか。待ち時間は数分だったというのに、あまりに快適で少しウトウトした。
 我ながら呑気なものだ。

 しばらくすると、女性の検査士が「お待たせしましたね。」と言いながら近づいてきた。
 エコーはさっきの医師がするのではないようだ。大きな検査機器の受信部分に生暖かいジェルを塗って喉の辺りをヌルヌルとすべらせる。
「これがガンだとしたら手術?」とたずねてみた。
 女性の検査士は、一瞬手を止めてちらりとマキノの顔を一瞥し、また視線をモニターに戻した。
「ガンだったら手術になるけど、まだガンだと決まったわけではないよ。しかし、ちょっと大きいね。直径3cmぐらいかな・・。」
「・・死ぬの?」
「いや。こういう単体モノは、取ってしまえばあまり転移しないし、再発の可能性も低い。」
 女性検査士も先ほどの医師と同様、淡々と事実を告げているような印象だ。さっぱりした口調で根拠のない大丈夫という言葉も使わない。しかし先ほどの医師とどこが違うのかわからないが、態度やその空気に気遣いが感じられた。

「・・単体ってどういうこと?」
「乳がんや、子宮がん、甲状腺がんみたいな、独立した臓器みたいなの。」
「ふうん・・。」
 大雑把な説明だったが、もともとそんなに実感していなかった危機感がまたさらに薄れた。マキノの寝ている位置からもモニターは見えた。エコーが読み取った画像がぐにぐにと動いていたが、マキノが見ても何もわからなかった。

 エコーの検査のあと、最初の診察をした医師が来て、看護士に指示をだしマキノには特に何も言わず細胞採取の作業をした。喉に針のようなものをチクリと刺し、ぴっと小さく引っ張るような感覚。これが生検なのだろう。痛みはあったがどうということはなかった。一度で終わりかと思ったが、何個所か場所を変える。医師ではなく横にいた看護士が「数か所、お調べしますね。」と付け足すように言葉をかけてくれた。激痛ではなくとも何度も痛い目に合うのは不快だ。初めから教えておいてくれれば心構えができたのに。

 次の受診の予約は2週間後。そのときに結果が伝えられる。
 診察の終わりぎわに、医師は言った。
「ああ、耳鳴りが気になるなら、ビタミン剤出しておこうか?気休めだけど。」
「はい・・いただきます。」
 気休めとか、思っていても言わなければいいのに。その医師がカルテに何か書きこんでいるのを見ながら、マキノはこっそり鼻の上にしわを寄せた。


 ガンかもしれないと脅されたまま、幾日かが過ぎていった。
 その間に、甲状腺癌のことはいろいろと調べた。癌の種類や転移の状態にもよるが、他の癌よりも高そうだ。だからと言って楽観的にもなれないし、悲観的にならねばならないこともなし。

 今現在、恋人もいないし、打ち込んでいることもないし、世の中にはさほど未練はない気がした。
 でも、このまま終わってもいいのか?自分が生きた意味は何なのか?
 未練がないこととと、人生の終わりを納得することは全然違う。

 ついこのあいだ、少しだけ前向きに、ささやかに、自分に素直に生きたいと思ったのではなかったか・・。
 やりたいこともして。
 日々に悔いを残さず生きようと・・。
 そう、やりたいことをして・・。

 やりたいこと。やりたいこと・・。
 私のやりたいこととは・・何か。

 あるような、ないような、あるような。
 あるような・・・。


 そして2週間後。結果を聞きに病院へ向かう。
 この医師の言葉にあまり感情を動かしちゃいけないというのは前回で学習済みだ。

「ガンではありませんでしたが、グレーだね。」
とのこと。・・ふうん。
「グレーですか・・」
「うん。2週間後に再検査しようと思いますが・・次もグレーだったら・・」
 そこで医師は言葉を濁した。
・・ええ? ちょっと待ってっ!
「ちょっと待ってください。次の検査でもグレーだったらずっと何度も再検査ですか?」

 前回、生の細胞を取って調べておいてガンが出なかったらって出るまで検査??無意味な痛い目を何度も何度もしなくちゃいけないなんて、仕事も毎度休まないといけないし。
 喉が穴だらけになるよ。この人、本気??ちゃんと判定できる病院はないの?

 そんなマキノの思いが伝わったかのように医師は言った。
「そうだねぇ。この病院で何か見つかっても手術はできないから、甲状腺の専門医に診てもらった方がいいかもしれないね。」
「・・・。」
「紹介状書くよ。どこか行きたい病院、心当たりある?」
「心当たりなんて、ありません。」

 医師は、だまって県内の医大病院に当てて紹介状を書いた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 マキノは紹介状をもらったものの、予約もしないままぐずぐずしていた。行かなきゃとは思うけれど、どうも気が進まない。病院というものが信用できない。

 会社では、平均的にテンションの低いマキノに、サクラが、いつ手料理を食べさせてくれるのかと度々聞いてくる。このところ、ぼーっとすることが多かったので、気分転換にサクラとおしゃべりもいいかもしれない。
「そうだなぁ、今度の土曜日、明後日、お泊りに来る?」
「おおぉ、やった!じゃあね、私はお酒を用意するからね!」
「お酒ねぇ・・サクラちゃん、最近食べることに執着してない?ダイエットしてはストレスで反動が来てるみたいだけど、太ってないよ?気にしなくていいと思うな。」
「そ・・そうかしらね。」

「じゃ、苦手な物は?好き嫌いはある?」
「・・青シソとフキだけです。」
「わかったよ。」

 ふむ、じゃあ、何作ろうっかな。 マキノの頭にいくつかの献立が浮かんだ。
 
 相手が気を遣わないいサクラでも、しっかりと準備は整える。
 それが自分にとっての楽しみでもある。
 明後日・・と身近な日を選んだことで、急にスイッチが切りかわった。
 ようし、やろうじゃないの。

 マキノは、思いついた献立とその材料をメモに書き留めはじめた。
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