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50.工房乗っ取り計画

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水曜日は、カフェの定休日。

午前8時40分。マキノは、予約していた検診を受けに産婦人科へと来た。
この場所では、あまり心を揺らさないように努力しなければならない。

うれしくて、ドキドキして、緊張もし、戸惑い、悲しかったこの場所。

受付に診察券を出して、待合の椅子に座る。今日はいつもより空いている。
真面目な顔をしたカップルと、貫録のある大きなおなかの妊婦さんがいた。
胸がきゅっと締め付けられて、自分の鼓動が早くなったのを感じた。

・・だいじょうぶ・・なんでもない。
涙も出てこない。心は揺れてない。・・揺れてない。・・揺れてない。

だいじょうぶ・・・。

母さんは素直な気持ちでいればいいと言ってた。
悲しくて寂しくてつらいと思えばしっかり泣けばいい。笑いたくないときに、我慢して笑う必要はない。“悲しむための時間が必要なんだよ。”と言った。

「いつまでも浮上できなくなりそう・・。」
母さんの前では弱音を吐いた。

医師の“原因はわからない”という言葉も脳裏に刻まれていて、やはり何か自分が悪かったのではないかとぐるぐると考えてしまうし,無理にでも明るくしないと、沈んでいく気持ちにからめとられて動けなくなりそうな気がして、怖かった。

「平気でいられる方がよほど神経がおかしいわよ。怖かったり悲しかったりするのは、マキノの心が健康ってことなのよ。あなたのそばには支えてくれる人がたくさんいるでしょう? もちろん私もね。ちょっとぐらいぽーっとしてたって大丈夫よ。」

と母さんは笑っていた。



中待合に呼ばれた。
・・ここ、きらい。狭いし、緊張する。

診察台に乗るように声がかかった。
・・これも、きらい。変な格好させられて、痛い事されて。

カーテンに仕切られて、顔の見えないまま診察を受ける。
こちらの嫌な気持ちは届いていないかのように、優しい声がかかる。
「大丈夫ですよ~。」

なるべく頭の中をからっぽにしよう。・・・からっぽ・・・。


診察が終わったあと、もう一度呼ばれて、医師からの説明があった。
出血はまだわずかにあるけれど、子宮もきれいになっているので、順調に回復していることと、そろそろお風呂につかっても大丈夫と許可が出た。シャワーだけで済ませるのは寒くてつらかったから助かる。
あと1週間ほど様子を見て何もなければ、生活をもとどおりに戻しても大丈夫。そして、生理を1~2回見送れば、次の妊娠をのぞんでも大丈夫。・・と告げられた。


・・次の妊娠・・
その言葉が、ちくりと神経にふれた。

自分のおなかの中に、もし命が芽生えても、10カ月もの間、守りきることができるんだろうか・・。
今まであたりまえのように思っていた「子どもを授かって無事に産まれてくる」ということが、途方もない奇跡のように感じる。

おなかの大きな自分すら想像できないのに。
春樹と自分と赤ちゃんと3人・・。そんな生活が本当に手に入るのだろうか。
ものすごく遠いところにあるような気がして、漠然とした不安がよぎる。


自分が春樹に心配されてるのはわかってる。
今日の検診のことだって“どうだった?”って聞いてくるだろう。
わたしは、“順調に回復してるんだって。”と答えるだろう。
そのあとの・・生活をもどす事・・・。
なんだか、さっきから神経がざわざわとする。


何も問題はない・・何もないのに怖がってどうするの・・。



病院は予約だったので早く終わり、そのまま少し足を伸ばしてショッピングモールへと向かった。
フードコートでツナサラダのクレープとグリーンスムージーを食べて一息つく。

一人でのんびりして、気分が少し浮上してきた。
体にいいスムージーを飲んだからか、ツナのクレープがおいしかったからか“順調に回復”という良い結果だったのに、何故に気分が落っこちていたのか、わからなくなった。

今が、これからの生活のための大切な準備の時間。
自分の体だけれども、自分だけの体じゃない体。
ぐらぐらしてる場合じゃないな・・。



フードコートから敏ちゃんに電話をかけて、午後に自宅へ遊びに行ってもいいですか?という連絡を入れた。
敏ちゃんは「どうぞどうぞいらっしゃい。」と歓迎してくれた。
日用品と食料をすこし買って一度家に戻って荷物を置いてから、お土産にワッフルを持って敏ちゃんの家へと向かった。

今日のノルマは、あと、おしゃべりをするだけ。


敏ちゃんの家は、木造の昔ながらの家だ。この辺りの家はみんな敷地が広くて庭があって、お隣さんと離れているし、田舎は住宅事情がゆったりしている。

立派な玄関から上がってもいいのだが、普段はダイニングの横の勝手口から家族全員が出入りしているようで「勝手口から失礼します。」と言いながら、マキノもその入り口から上がらせてもらった。
そのままダイニングテーブルの席に勧められて座って、コーヒーを淹れてもらいながら、マキノは敏ちゃんにもヒロトの事を説明し、みたらしの工房でどうやっていくべきかという相談を持ちかけた。

「じゃあ、朝市工房の採算は、カフェとは別で考えるってことにするのね?」
「そう。人件費ももちろん分けて、でも初期投資分はこちらで負担してあげたいの。それをひっくるめて貸し出してお家賃をもらう感じで、長期計画でカフェの採算を合わせられたらいいかなって。」

「初期投資はいいのよ。人を雇うのも悪くない。ひとつ問題を上げるとしたらよ。もしヒロト君が頓挫したらの話よね。どかっと増えた仕事が、どかっと全部マキノちゃんにかかってくるんよ? やるって言ってできなかったら、信用も無くすしさ。」
「んー。 わかってる。でも、これを投げ出す選択肢が思いつかない。大丈夫だと思うんだもの。」
「人が良すぎ。信用し過ぎよ・・・マキノちゃん。」
「だから、そこをですね。わたしのにぶい危機管理能力という不安要素を念頭に置いた上で、敏ちゃんにやり方考えてほしいわけで・・。」
「・・・。」
「頼れるのは敏ちゃんだけです。」
「そうねぇ・・・。」
敏ちゃんはメガネの右端を中指でくいっとあげた。
いつもの癖だ。このしぐさを見ると、“できる女性”って感じる。

「田舎だからさ、おばちゃん達って愛想よく見えてもテリトリーを侵されるのを嫌うところがあるでしょう?だから、徐々に侵食していくしかないよね。」
「みたらし部門には手を出さないつもりだけど?」
「まったく出さないのも可愛げがないでしょう。出し過ぎてアテにされても困るけど。」

「あとね、思ってたんですけどね、ヒロト君ってお寿司が得意でしょう?スーパーに出せないかな。かわいいのを作って。そういうの、よくない?」
「あらいいわね。でも、売込みが必要だよ?頑張れる?」
「うん・・やってみようと思う。・・・ところでお家賃の交渉どうしようかなぁ・・」
「おばちゃん達はあの工房の間借り賃3000円って? 安いわよねぇ。」
「その分ももう、うちで負担したらどうなるかな?」
「それこそ、乗っ取られたと思うんじゃない?あっちから言ってくるまで黙ってた方がいいよ。あの工房・・キッチンで許可取って、隣の座敷も使えるでしょう?あれ全部借りて、家主さんには2万ぐらいでいいんじゃないかな。だから、残りの1万7千円をカフェで負担って感じでいけばどうだろ。勝手に言ってるけど普通で考えたらそれでも安いな。聞いてみないとわかんないね。」
「これから乃木阪さんとこに行こうかな。」
「ダメダメ。もうちょっと待って。根回し根回しだよ。私からまずは乃木阪さんに言っておいてあげる。考える時間あげたほうがいい。マキノちゃん登場のタイミングは言うから。とりあえず当座はお弁当作りと、朝市出品の分だけね。」
「根回し作戦だね。」
「そう。今度ヒロト君に試食作らせて持って行くといいよ。食べ物で吊ると、手っ取り早いんじゃない?好感度も上がるし宣伝効果抜群だよ。」
「・・敏ちゃんのほうが・・乗って来たね。」
「やるからにはねぇ。・・そうしておばちゃんと仲良くなって、労働力としてあてにできそうな人材を取り込んでゆく・・・フフフ」
「そんなにうまくいくかしら。」
「一度には無理だよ、じわじわ頑張ってもらいましょう。ヒロトに。」

力強い敏ちゃんの言葉に、マキノはうむ・・とうなずいた。
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