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初話
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人間だった私は柴犬に転生した。名前はいろいろな呼び方をされているうちにあやふやになって、消え失せた。今では犬とかわんことしか呼ばれない。どうしてこうなったのか、とんと見当がつかない。人間だった頃は実家で暮らしながら、お菓子工場で働いていた。私がこの日々に終止符を打ったのは、まったく唐突のことであった。
私はその時、自転車で走っていた。そしてとある飲食店の前を横切った。その時、駐車場の入り口から、車が急に飛び出してきたのである。まったく唐突なことであったから、避ける暇もなかった。私は車の力で横に倒された。そして車道へと飛び出してしまった。
何とか起きあがろうとしたが、できなかった。私の体は自転車に押さえつけられていた。さらにその自転車が車の車輪に挟まれており、びくともしなかった。
もっとも、そのことにすぐに気づいたわけではない。ただ、後から考えてそうだと結論付けただけのことである。その時は早く抜け出さねばと焦るばかりで、どうして自分が抜け出せなかったのか全然わからなかった。
そうこうしているうちに向こうの方からトラックがやってきた。私は近づきつつある車を眺めながら、何とか自転車の下からはい出そうとし始めた。這い出そうとしている途中、ブレーキ音が聞こえた。その時、もしかしたらトラックが止まってくれるかもしれないと期待した。そんなことは起こらないのだと知ったのは、トラックが一メートルばかり手前に来ても、まだ移動しているのを見た時だった。トラックの巨大な車輪が私の体の上に乗っかった。体の上を重いものが通過していくのを感じた。車輪は私の体をぺちゃんこにした。私の口からは血が噴き出した。
体からは力が抜け、私は横たわっていることしかできなくなった。それからだんだんと視界が暗くなっていった。そしていつしか私は気を失っていったのである。
これが私の死ぬまでのいきさつである。そして気が付いたら私は犬の赤子となっていたのである。その時の時間間隔ときたら不思議なもので、まるで時がたったように感じられなかった。自分が意識を失った時と犬の赤子として目覚めた時との間にまるで間がないように感じられたのだ。むしろ初めて犬の赤子として目覚めた時、てっきり私は自分がまだ人間で、瞬きでもしただけなのかと思ったものである。
犬になってからの話をしよう。私は毛の茶色い柴犬となった。私は犬として生まれてから、しばらくペットショップで育てられた。ペットショップはそれなりにいい場所であったような気がする。住まいは四方一メートルもないくらいに狭いし、ご飯は一日三度しか出ないし、お手やおすわりをやらされる。居心地はよくなかった。しかし平和だった。それに元が人間であるから、お手であれおすわりであれ、こなすのは容易である。にもかかわらず、それらをこなすだけで頭のいい犬だとみなされ、何かと褒められたものである。
私がこのペットショップを離れたのは、生まれてから三か月くらいしたころのことである。その月のある日、私の方を指さして、夫婦とその娘と息子たちが僕のことを買うかどうかで談義していた。そうした談義はなかなか起こるものではない。たいていの人は私たちを眺めて終わるだけだ。大方、ペットショップを動物園の代わりにしているのだろう。それだけに、こうして談義が始まった後にはまず購入することに決まるのである。
そのことをなんとなく理解していた私は、買われるかどうかよりも、彼らの人となりを観察していた。
家族のうち、父親の方は談義のさなか、「俺は犬は嫌いだ」としかめ面をしながら言っていた。私はこの時点で父親が敵に回るだろうと予想した。ちなみにこの男の名前は高橋一郎という名前である。
母親の方はといえば、私を買うことになかなか好意的なようだった。しかしはばかりもなく大声ではしゃいでいたあたりから、落ち着きのない人間だと知れた。こういう輩ははしゃぎすぎて、犬に衣装を着けようとしたがったりするものだ。要注意人物であるように思われた。この母親の名前は美知子という。
娘の方はといえば、子供のくせにいやにすましていた。私という存在にそれほど関心がないようだった。この様子だと、私の餌がなくなっても、シーツに排せつ物が垂れ流してあっても、ほったらかしにするやもしれない。面倒な人物であると思われた。この娘は香織という。この娘のほうが息子より年上であり、この歳で小学五年生になる。
息子の方はといえば、母親を上回って落ち着きがない。大方、母親の遺伝子を受け継いでいるのであろう。私はこいつにはしっぽをつかまれたり、やたらい追いかけまわされるかもしれないと考えた。この男の子が一番危険だと思われた。この息子は俊哉という。今年で小学四年生になる。
私はこの家族の飼い犬になるのが嫌になった。それだから、できる限り行儀の悪いふりをした。小屋の中で暴れまわり、ちんちんをかいかいしたりしてやった。ところがこれがよくなかったようである。私がちんちんをかいかいするや否や、歓声が上がった。見ると、父親でさえ感心していた。どうやら私は犬として珍しい芸を披露してしまったようであった。私は自分の失策を悟った。そのあと、僕はこの家族に購入された。
この失策に関しては、買われて以後も、尾を引いている。何かにつけては、娘も息子も、ことあるごとにちんちんをかいかいさせようとしてくる。時にはおやつをちらつかせて、やらせようとする。それでもやらないと、私を捕まえて無理やり仰向けにし、前足をつかんで無理やり動かすのである。すると、私は前足をつかまれるのが嫌だから(これはどうも犬生来の本能のようで、前足をつかまれるだけで背筋がぞわぞわしてくるのである)仕方なく自分から動き始めるのである。娘や息子たちはそれを承知のうえで、このような強硬手段に訴えるのであった。今では、まずこのちんちんかいかいを断ることはないから、前足を無理につかまれるようなこともないが。
ところで、芸といえば、私はまずできない芸というものがない。おすわり、お手、何でもできる。そのことに関して、私はこの家族がほめてくれるものと信じていた。しかしこれが存外冷淡なもので、何にもほめてはくれない。私がペットシーツ以外のところで一度もトイレをしたことがないにもかかわらず、また滅多に吠えることもないにもかかわらず、まるでほめてくれない。どうやら彼らは犬がこうするのが当たり前だと思っているようである。そんなわけがあるものか。私が人間の知能と前世の記憶を持っているからこそ、こうまで行儀よくできるのである。頭がいいとされるボーダーコリーだってこうはいくまい。
またこの家族の人間は大変ものぐさな性格をしている。まず排せつ物をほとんどの場合、無視する。私がたとえば小便を排泄したとする。当然シーツの色が変わるからそれと気づくはずである。ところが父親や子供たちなどが僕のそばを通っても、平気で通り過ぎていく。こちらとしては小屋が臭くってたまらないし、唯一の拠点が汚いままではろくに立ち入ることだってできないから一刻も早く片付けてほしいわけである。それだけに無視を決め込まれると、無性に腹が立つ。よっぽど吠え掛かってやろうかと思う。実際、一度吠えてやったことがある。その時は父親の一郎にほえたててやった。すると逆に「うるさい」と一喝され、挙句の果てに丸めた雑誌で尻ペタをたたかれた。柴犬はしっぽを尻の上に巻き上げているため、尻を守るものがない。それだからなかなかつらい痛みであった。それ以来、私はシーツ交換の催促のために吠えることをしない。
ところが催促をしないとなると、当然相手の気持ちに期待するよりほかになくなる。結局、私のシーツを変えてくれるの母親の美知子だった。しかしこの美知子でさえ、シーツを変えてくれないときがある。家事などをしている時だ。そういうときになると、なかなかシーツは交換されない。ある時などは、シーツが交換されるまでの間に三時間以上無視されたことがある。
まだ問題はある。彼らは餌やりがとにかくずさんである。餌をやり忘れることもさることながら、餌を出しっぱなしにすることも問題である。普通、人間の食卓では食べ残しを捨てるなり冷蔵庫に入れるなりして片付けてくれる。ところが私にはそうしてはくれないのである。食べ残しの餌がそのままであるのを見ると、腐っているのじゃないかと思われて仕方がない。そのため私は食中毒の不安に常に脅かされている。
それなら食べきればいいではないかというかもしれないが、そういうわけにもいかない。餌を食べきると、途端に一郎が新たにえさを補充し始めるのである。大方、餌のやり忘れを危惧してのことだろう。しかしこれでは食っても食っても際限がない。こうしたことがあってからは、私は餌を食べ残すことにしている。
彼らがずさんな性格であることは、彼らの生活を見ていても知れる。まず、床が汚い。私のおもちゃが床に散乱しているばかりでなく、赤と黒のランドセル、いつ落としたとも知れないお菓子のかす、子供たちのおもちゃ、いつどこで使ったともしれない服などいろいろなものが散乱している。あまりにもいろいろなものがありすぎて、ちと歩きにくい。あまりにもいたたまれないから、私などは、自分のおもちゃを自分で部屋の隅に片付けている。
そのほかにも、押入れがひどい。この押し入れはいつも開きっぱなしのために中身がよく見える。なぜ開きっぱなしなのかと言って、物が扉からはみ出ていて閉まらないのである。そんな押し入れの中がどんな風になっているのかといえば、それはもう汚い。とにかくいろいろのものが乱雑に押し込まれている。よくも物が落ちないものだと思う。
そんな家の住人であるから、私の世話がずさんであることもうなずけるであろう。決して彼らが私に冷淡なためばかりではないのである。私に冷淡であり、かつずさんな生活をしているために私はかような苦労を強いられているのである。
この話で一つ、息子の俊哉にかかわる逸話を思い出した。事の始まりは、息子の俊哉が教科書をなくしたと喚き始めたことにある。
こうした話を聞きつけるや、母親の美知子はすぐに俊哉のそばにやってきた。こうしたことになると人間というものは実に素早い。人が失敗したり、何か事件を起こしたりした時が、人間が一番早く反応する時なのではないかと、私は常々思う。
「教科書をなくしたの?」
俊哉はうなずいた。
「どの教科書がないの?」
「音楽」
「どこやったか覚えてないの?」
「捨てちゃったかもしんない」
「捨てちゃったの!」
「かも知れない、だよ」
「かも知れないってあんた、捨てちゃったらないに決まってるじゃない」
「だから捨ててないって」
「じゃあどこやったの?」
その質問になると、途端に俊哉は口を閉ざした。
「大体、どうして捨てちゃうの、使うんでしょ、その教科書?」
「だって、前の年の教科書だもん」
「へんね、先生何にも言わなかったの?とっておきなさいとか」
「知らない」
俊哉は答えた。
母親はこの問題についてはそれ以上追求しなかった。
「しょうがないわね、そしたら香織に訊いてみるしかないわね」
そういって美知子は立ち上がると、二階の香織の部屋へと行った。
「香織!俊哉が教科書捨てちゃったみたいなんだけど、持ってない?」
「何、ママ?」
「だから、俊哉が教科書を捨てちゃったみたいなの、音楽の」
「捨ててないって」
すかさず俊哉は反論する。
「だから?」
「その教科書、まだ持ってないかって」
「どの教科書?」
「どれ?」
美知子が俊哉に尋ねた。
「あれだよ、あの、器楽のやつ」
「あれ?あれって四年生からずっと使うやつじゃん。先生から言われなかった?」
「ほら、やっぱり先生から言われてるんじゃない!」
ここぞとばかりに美知子が俊哉を叱りにかかる。
「知らないよ、そんなの」
「知らないわけないじゃない、このあほたれ!」
「知らないったら。だって、古いやつはいつの間にかなくなっちゃってたんだもん」
「そんなはずないでしょ。どこにやったの、教科書」
「待って母さん。俊哉は教科書、捨ててないかもしれない」
美知子は香織の方を向いた。けげんな表情をしている。
「どういうこと?」
「ほら、古い教科書とかさ、パパがとっておいた方がいいとか言って押し入れにしまっちゃったりするじゃない。だから、それと一緒に……」
「だとしたら大変じゃない。あそこから教科書探し出すの?」
「とりあえずパパに訊いてみたら?教科書をしまっちゃったかどうか」
「あなた、教科書知らない?」
返事はない。美知子は階段を上がり始めた。そして一郎の部屋へと入る。
「あなた」
一郎は部屋の中で寝ていた。布団の端からすね毛の生えた足がのぞいている。大方、パンツ一丁で寝ているのだろう。
「あなた、起きて」
「んん、何?」
「俊哉の器楽の教科書、押し入れにしまった?」
「器楽?器楽ね、覚えてないけど、古いやつは皆押し入れにしまってあるから」
「じゃあ、器楽の教科書も入ってるのね?」
「入ってる」
それきり一郎は動かない。また寝るつもりらしい。
「押し入れから教科書出すの手伝ってよ、寝てないで」
「んんうぅ」
「ねえ、子供たちとあたしだけじゃ押し入れのもの出すことができないの。重いものだってあるし。だから寝てないで起きてよ」
「やだ……」
やだ、という言葉の後に何事かつぶやいたようだが、うにゃうにゃと聞こえて、明瞭には聞こえない。その言葉の後に続いて、ブウっという音が聞こえた。一郎が放屁した音である。
その音を聞くや、美知子は足を振り上げた。そして一郎の尻を蹴った。
「手伝わんかい、おんどりゃあぁ!」
尻を蹴られて一郎がうめいた。美知子はかまわずどんどん蹴りをくれていく。
「いい加減にしねえと、大事なとこつぶすぞ、つぶすぞおい!」
「起きる、起きるよ」
起きると言っているのに、美知子はまだ蹴り続ける。どうやら、一郎の屁がよほどお気に召さなかったようである。
「起きると言ってるだろうが!」
一郎が起き上がり、美知子の足を払いのける。一郎の目はカッと見開かれている。
「起きる起きるって言って、いつも起きないでしょ、これぐらいしないと」
「起きると言ったら起きる。そんなことしなくても」
そういって一郎はベッドからはい出た。やはりパンツ一丁である。
「服を着てくるから待っててくれ」
「待つわよ。そんな恰好で来られたからたまったもんじゃないわ」
そういって美知子は階段を降りていった。僕はそちらについていった。一郎の部屋にいて一郎の着替える様子を見る気はない。
階下に降りると、美知子は押し入れのある部屋へと行った。美知子は押し入れの前に立ち、二人の子供は美知子の後ろに立っている。
「二人とも下がっていなさい。なんか落ちてくると困るから」
“下がっていなさい”なんて言うのは野良犬を相手にしている時か、さもなければ洪水の川を目の前にしたときぐらいだと思っていた。よもや押し入れの前で言うとは思わなかった。
美知子が押し入れを開ける。幸い、何も落ちてこなかった。いや、不幸にして、というべきか。なぜと言って、押し入れから物が落ちてこないのは、物がぎっしりと詰まっているからである。さながら石塁を築くがごとく、モノとモノとがはまりあい、一種の壁を作り出しているのであった。
「着替えてきたぞ」
一郎が下りてきたようである。
「あなた、これなによ。どうしてこんなごっちゃになっているの」
「どうしてこんなにも何も、最初っからこんなだった」
「そんなわけないでしょ、前はもうちょっときれいだったよ」
「前がどうだったか知らんが、俺が教科書を入れるときにはもうこんなだった」
「あなたが教科書を入れちゃったからこんなぎゅうぎゅうになったんじゃないの?」
「そんなはずはない。教科書って言ったって、ほんの少しだ」
「じゃあ、私のせいだっていうの?」
「押し入れのことなんか俺が知るか。日中は仕事に行っているんだから」
「私だって仕事に行ってるわよ」
「だから、たいてい押し入れからものを出し入れしているのはお前だろう」
一郎は美知子を指さした。
「私はそんなにものを出し入れしないわよ。最後に押し入れから物を出し入れしたのはあなたよ、古い教科書を入れたっていうんだから。多分四月くらいのことでしょ。私、二月に炬燵しまってから押し入れに触ってないもの」
美知子が指をさし返した。美知子に理があると、一郎は見たらしい。一郎はやり返された形になってしまった。
「とにかく教科書を出そう。確か、この辺にあるはずだから」
一郎は言った。一郎の指さしたところには、がらくたしかない。
「どこにあるの?」
「この奥」
「なんで奥なの?」
「この奥に、教科書をしまってあるスペースがあるんだ」
「手前から入れていけばいいのに」
「いいよ、俺が出すから」
そういって一郎が前に出た。そして一郎が一番上に積んである、小型ヒーターに手をかける。それを引っ張り出そうとするが、どうもうまく抜けないらしい。何度かゆすってようやく抜けた。
すると、そのすぐ下にあった箱のようなものがぐらりと傾いた。それが落下して、一郎の素足をつぶした。一郎は悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「いってえ」
「私がものを支えておくから、その間にどんどん物をとっていって」
美知子が言った。
「やっぱ危険だね、あの押し入れ」
美知子の後ろで、香織が俊哉に向かっていった。
「エベレストなみだ」
俊哉が言った。私にはどういうことだか意味が分からなかった。
押し入れの解体作業は、長きにわたって続いた。ようやく、教科書が見えたころには床には山とガラクタが積まれていた。
それから教科書の束を家族全員で探した。量はさほどでもないからすぐにその束の中に器楽の教科書がないことが分かった。
「ないじゃない、器楽の教科書」
「ああ、思い出した」
一郎が言った。
「何、どうしたの」
「ほら、香織の時で器楽の教科書は使うって知ってたから、一郎の机の棚に入れておいたんだったよ」
「早く思い出しなさいよ、このあほたれ!」
「悪い」
それから一郎の言うとおり、机の中から教科書が出てきて、事なきを得た。
あまりにもずぼらなことから起こったこの出来事であるが、こうなったのは何も、この家族がずぼらだからというばかりのことではないような気もする。思えば、俊哉が自分の机に入っている教科書すら探し当てられなかったからというのもある。どうやら俊哉はよほどの抜け作と見える。
俊哉の抜けているところといえば、ほかにもこんな出来事があった。
私を飼い始めたころ、最初の二、三日は父や母が散歩に連れて行っていた。おそらく、初めての散歩ということで慎重になっていたのであろう。
それでもしばらくすると、小型犬相手の散歩なら子供でも大丈夫だと気が付いたのだろう。俊哉がもともと散歩に行きたいとよくごねていたこともあってか、五日目くらいに俊哉が私を散歩に連れていくことになった。
最初のうちはそれほど困ることもなかった。いやむしろ、困ることがあるはずがなかった。私は交通ルールも知っているから信号を無視することもないし、外で粗相をするつもりはさらさらなかったから、その処理で俊哉の手を煩わすはずもなかった。
問題なのは、運動公園についた時であった。運動公園のグラウンドに入ると、俊哉は急にしゃがみこんだ。
「わんわん、行って来いよ」
そう言って俊哉は私の首輪からリードを外してしまったのである。
これをやられた時には、私も驚いた。よほどきちんとしつけた犬をリードなしで散歩するという話は聞いたことがある。けれども普通の犬ならまず逃げる。ましてや飼い始めたころなら。それにもかかわらず、俊哉はリードを外したのである。
この時私はよほど逃げ出そうかとも思った。もとよりそれほど暮らしやすい家でもなかったし、家族に愛着もない。毎日一つの場所に拘束されてばかりの日々にもいい加減、飽きてきていた。
だが逃げる私を追いかけて事故に遭われても困る。それに万が一逃げおおせたところで、俊哉が困る。せっかく買ったばかりの犬が逃げ出してしまったことで、俊哉は途方に暮れることだろう。もしかしたら泣き出すかもしれない。挙句の果てに家に帰れば、両親からも怒られるやもしれない。何しろ私という犬は十五万円以上したのだから、なかなかの出費であった。私が逃げ出せば、詐欺師に十五万円だまし取られたのと何ら変わらない。
結局私は運動場を俊哉に呼び出されるまで走り回った後(幸い運動場に人はおらず、迷惑をかけることもなかった)、再びリードをつけられることもないまま家に帰った。
家に帰ってきたとき、私を見た両親は驚いていた。リードをつけていないのにもかかわらず、子供のあとにぴったりとくっついてきていたからだった。
この時より、僕はリードをつけられることなく散歩させてもらえるようになった。そしてさらにしばらくしたころには、素行のよそが認められたからなのか、はたまた面倒くさくなったからなのか、ただ外に出されるだけになった。それはひとりで散歩に行っていい、ということであった。
ところで散歩といえば、とうとう香織だけは私の散歩に行かなかった。なぜ彼女が私の散歩に一度も行ったことがないのかと言って、それはものぐさだからだと思う。香織は家事とかそういったことを手伝うことはなく、さらに言えば、部屋の片付けもろくにしない。
香織の部屋の片づけのことで、こんな逸話がある。ある時、家じゅうに美知子の怒鳴り声が響いた。美知子がいたのは二階の、香織の部屋であった。
「どうしてこんなに汚いの!」
「いいじゃん別に」
「よくない!掃除しろ!」
香織はいやいやながらといった具合に動き始めた。けれども一向に何かを片付けようという気配がない。見ると、視線が空中をさまよっているように見受けられた。どうやら香織は片づけ方というものをそもそも知らないらしい。どこから手を付けてよいのかわからないのである。
「もういい。どいて」
見かねた美知子がとうとう自分から片づけを始めてしまった。それにしても、ずさんな美知子が人の部屋の汚さを責めることになるとは思いもしなかった。しかしその美知子の汚い押し入れ以上に、香織の部屋は汚かった。
「なにこれ?」
美知子が持ち上げたのは、中身の入ったペットボトルである。
「いつのやつ?」
「知らない」
美知子はペットボトルを処理した後、また片づけを再開した。すると今度はタッパーを取り出した。
「道理でないと思ったら」
恐ろしいことにタッパーの中には中身が入っていた。中身のものの色は茶色い。果たして元からそういう色だったのか、それとも腐ってしまったためにそういう色になってしまったのか。
「ちゃんと片づけないからこんなのがあるのよ」
「だって開けたくなかったんだもん」
「私だって開けたかないわ!」
美知子はタッパーを下に持って行って処理した。それからまた部屋の片づけを再開する。美知子はまだ床の整理を行っている。そもそも香織の部屋は床中にものが落ちていて、物の上を歩かざるを得ない状況にある。これでよくも教科書をなくさないでいられるものだ、俊哉のように。
美知子が悲鳴を上げた。何事かと思ってみると、美知子は手をしきりにズボンの太もものあたりにこすりつけている。
壁のあたりに、一部ぽっかり床が見えるところがある。そこに三本ばかり、キノコが生えていた。
「ねえ、おかしいんじゃないのこの部屋」
美知子は言った。
「おかしいのは住んでる私自身、よく知ってるよ」
「じゃあこのキノコのことも知ってたの?」
「それは……知ってた」
「なんで抜かなかったの?」
「毒があるかもしれないし、触りたくなかったから」
なるほど、確かに毒はあったことだろう。
美知子は手袋をはめ、キノコを下に持って行って処理した。
それからまた美知子の部屋の清掃作業が再開された。床のごみを袋に詰めていき、必要なものは外に放り出す。部屋の中にはもはや、置き場がないのである。
床が一通り片付くと、美知子と香織はベッドの下を片付け始めた。
「ねえ、ベッドの下、紙だらけじゃない、本当にもう――」
その言葉の後に悲鳴が続いた。
「ゴキブリ、ゴキブリ!」
ベッドの下からゴキブリが三匹這い出してきていた。これを見た香織は部屋から逃げ出した。
「もうやだ、この部屋!」
香織は叫んだ。
「あんたの部屋でしょうが!」
それに対して美知子が叫び返した。
「ねえもう掃除するのやだ」
「じゃ、このままこの部屋にいる?」
「やだ。ねえ、俊哉。部屋、交換しよ」
「ふざけんなバーカ」
当然の返答だ。
「あんたねえ、自分で掃除してきれいにしていられるようにしなさいよ」
「無理だよ、だってゴキブリいるもん。掃除してるときに出たらどうするの?」
「そしたら、たたきなさい。スリッパとかで」
「無理!」
「いいからやる!」
結局、香織は美知子に無理やり部屋に引きずり込まれ、掃除をさせられた。それである程度、部屋は片付いた。きれいにとは言わないが。ただ、掃除の途中にゴキブリが見つかることはなかった。ゴキブリが部屋を出るところを、私は見ていない。おそらくまだ、香織の部屋にいるものと思われた。
そのことを考えた香織はひどくおびえていたが、夜はこの部屋で眠った。それからしばらくはゴキブリ騒ぎが起こることもなかった。
私はこの出来事以来、この部屋に入ったことはない。何もゴキブリが怖いのではない。ゴキブリなど、とうの昔にどこかへ逃げ去ったに決まっている。そうではなく、香織の汚い部屋は、呼吸することさえはばかられるほど、汚染されているように思われるからである。いわば、腐海と似たようなものだと考えているのである。
腐海と似たようなもの、と考えているということはそれなりににおいもやはりするわけである。その匂いが、犬となった僕の特別鋭敏な嗅覚をひどく刺激することがあるかといえば、そういうわけでもない。不思議なもので、嗅覚こそ確かに鋭敏になりはしたものの、ちょっときついにおい、例えば靴下のにおいなどをかいだからと言って、卒倒しそうになることはない。人間が靴下のにおいをかいで気絶しないように、犬も耐えうることができるようである。
犬になってからというもの、いろいろと生活が変わった。第一に体が変わった。頭はより床に近くなり、器用な指を持つ手が消えた。おかげで、自分でお菓子の袋の一つも開けられず、床に置いてある靴下がほとんど眼前にあるような状態になってしまった。
しかしそう悪いことばかりでもない。犬のこの体は、それなりの利点があるからこそこのように進化したものと見える。まず足が四本あるから、かなり速く走れる。そこいらの人間なんぞに負けるものではない。先日、ランニング中の男と競争をしたことがあるが、余裕で勝利した。足が速いばかりではない。全然疲れもしないのである。人間の頃よりも、はるかに遠くの距離まで歩いて行ける。つい先日などは隣の市の、隣の市まで散歩していって帰ってきたものである。
それに顔が地面に近いと、においの跡を容易にたどることができる。この匂いというやつがなかなか奥が深い。においを少しかぐだけで、何がここにいたのかとか、時には雨のにおいさえかぐことができて、天候の具合まで読むことができる。
閑話休題、私は人間の頃から疑問だったことがあって、もし犬になったら、果たして犬のしゃべっていることが聞こえてくるのか、それとも犬はしょせん犬で、そもそも言語という概念を持たないのだろうか、というものである。要するに、犬は話せるのか話せないのか、というものである。
結論から言えば、私以外の犬は話せない。私は散歩に出かけては、方々の犬と顔を付き合わせた。するとそもそも犬には人間のような高等なコミュニケーションをとる手段自体ないことが発覚した。
犬である私から見ても、犬は相変わらず犬だった。初対面と出会うと、相手の尻のにおいをかぐ。気に入らないと気違いみたいに吠える。ところかまわず排泄する。
そういったわけで、犬になってから犬語やなんかでほかの犬と会話をする、という私の夢はかなわなかった。
私は会話がしたくてもできなかったが、私の家にも似たような奴がいる。一郎である。この一郎という男はとにかく人と話したがらない。いわゆる口下手だからである。滅多に人を家に招くことはない。私の知る限りでは、付き合いなりなんなりで人が家を訪問することも一度や二度はあるはずなのであるが、この家に限っては、私が来てから一度もない。
一郎は羊羹を作る工場に勤めている。なるほど、いかにもただ羊羹とだけ向き合っていたい、と言いそうな男でもある。
ところが本人はそんなことはないようで、始終仕事を辞めたいとこぼしている。そのわけが、「僕には肉体労働が似合わない、知的労働のほうが向いているのだ」らしい。
その知的労働が果たして何なのかといえば、この男にとってはどうやら、小説らしい。この男は仕事を辞めたいというと同時に、小説家になるのだとものたまっている。実際、この男は家でたまに愚にもつかない小説を書いている。なぜ愚にもつかない、と知っているのかといえば読んだことがあるからである。この男の部屋に忍び込み、ちょいとノートを盗み見ればたいていのことはわかる。その内容が本当にへんてこりんで、魚が家を泳いでいる内容の小説があるかと思えば、今度は尻で扉をたたいて開けるという内容の小説があるのだ。この男がふざけて描いているのであればまだ救いようもある。しかし私はこの男が小説を書いているときの様子を見たことがあるが、いたって真面目そのものであった。あんなものをまじめに書くなんてどんな頭をしているのだろうかと疑わざるを得ないところである。
こんな頭のおかしい男と結婚した美知子は、一体どういう了見で結婚したのだろうか。そんなことを疑問に思うかもしれない。その答えに関しては、美知子もまた頭がおかしいから、とでも言っておこう。
美知子はよくヒステリーを起こす。自分が無精なくせに香織の部屋の汚いことで怒るのもさることながら、ある時は俊哉が洗濯物を出しただけで
「そんなほいほい洗濯物を出さないで!」
と叱ったことがある。その時は梅雨時で洗濯物がかなりたまっていた。だからイライラしていたのかもしれない。とはいえ一度着た服を洗濯しないでどうしろというのだろう。かわいそうに、その時の一郎は一度脱ぎ掛けた服をもう一度着なおして、もう一日使った。
どうしてそんな女と一郎は結婚したのか、と皆さんは疑問に思うかもしれない。あるいは思わないかもしれない。というのも、美知子は美人だ。一郎はそれに惹かれたのである。美人である上に、自分と結婚してもいいと言ってくれる。これほどいい女はないというわけだ。一郎という男は馬鹿なもので、人形を買うのと女と結婚するのをおんなじ判断基準で行っている。
そんなろくでもないことからできた家族は割合平和に存続できている。一郎は相変わらず小説を書くためにパソコンの前に座っている。その時間の大半は考え込んでいて、たまにそのまま眠り込んでしまうこともある。
美知子はついさっきまで笑っていたかと思えば急にヒステリーを起こしている。俊哉はそんな母親を無視して私のしっぽを引っ張って遊ぼうとしている。抜け作だからこそ、犬の嫌がることがわからないのである。
香織は相変わらず汚い部屋にこもっている。よくもあんな部屋にこもっていられるものだと思う。
多分私はこんな家で、それなりに暮らしていきながら、そのうち寿命を迎えていくのだと思う。
私はその時、自転車で走っていた。そしてとある飲食店の前を横切った。その時、駐車場の入り口から、車が急に飛び出してきたのである。まったく唐突なことであったから、避ける暇もなかった。私は車の力で横に倒された。そして車道へと飛び出してしまった。
何とか起きあがろうとしたが、できなかった。私の体は自転車に押さえつけられていた。さらにその自転車が車の車輪に挟まれており、びくともしなかった。
もっとも、そのことにすぐに気づいたわけではない。ただ、後から考えてそうだと結論付けただけのことである。その時は早く抜け出さねばと焦るばかりで、どうして自分が抜け出せなかったのか全然わからなかった。
そうこうしているうちに向こうの方からトラックがやってきた。私は近づきつつある車を眺めながら、何とか自転車の下からはい出そうとし始めた。這い出そうとしている途中、ブレーキ音が聞こえた。その時、もしかしたらトラックが止まってくれるかもしれないと期待した。そんなことは起こらないのだと知ったのは、トラックが一メートルばかり手前に来ても、まだ移動しているのを見た時だった。トラックの巨大な車輪が私の体の上に乗っかった。体の上を重いものが通過していくのを感じた。車輪は私の体をぺちゃんこにした。私の口からは血が噴き出した。
体からは力が抜け、私は横たわっていることしかできなくなった。それからだんだんと視界が暗くなっていった。そしていつしか私は気を失っていったのである。
これが私の死ぬまでのいきさつである。そして気が付いたら私は犬の赤子となっていたのである。その時の時間間隔ときたら不思議なもので、まるで時がたったように感じられなかった。自分が意識を失った時と犬の赤子として目覚めた時との間にまるで間がないように感じられたのだ。むしろ初めて犬の赤子として目覚めた時、てっきり私は自分がまだ人間で、瞬きでもしただけなのかと思ったものである。
犬になってからの話をしよう。私は毛の茶色い柴犬となった。私は犬として生まれてから、しばらくペットショップで育てられた。ペットショップはそれなりにいい場所であったような気がする。住まいは四方一メートルもないくらいに狭いし、ご飯は一日三度しか出ないし、お手やおすわりをやらされる。居心地はよくなかった。しかし平和だった。それに元が人間であるから、お手であれおすわりであれ、こなすのは容易である。にもかかわらず、それらをこなすだけで頭のいい犬だとみなされ、何かと褒められたものである。
私がこのペットショップを離れたのは、生まれてから三か月くらいしたころのことである。その月のある日、私の方を指さして、夫婦とその娘と息子たちが僕のことを買うかどうかで談義していた。そうした談義はなかなか起こるものではない。たいていの人は私たちを眺めて終わるだけだ。大方、ペットショップを動物園の代わりにしているのだろう。それだけに、こうして談義が始まった後にはまず購入することに決まるのである。
そのことをなんとなく理解していた私は、買われるかどうかよりも、彼らの人となりを観察していた。
家族のうち、父親の方は談義のさなか、「俺は犬は嫌いだ」としかめ面をしながら言っていた。私はこの時点で父親が敵に回るだろうと予想した。ちなみにこの男の名前は高橋一郎という名前である。
母親の方はといえば、私を買うことになかなか好意的なようだった。しかしはばかりもなく大声ではしゃいでいたあたりから、落ち着きのない人間だと知れた。こういう輩ははしゃぎすぎて、犬に衣装を着けようとしたがったりするものだ。要注意人物であるように思われた。この母親の名前は美知子という。
娘の方はといえば、子供のくせにいやにすましていた。私という存在にそれほど関心がないようだった。この様子だと、私の餌がなくなっても、シーツに排せつ物が垂れ流してあっても、ほったらかしにするやもしれない。面倒な人物であると思われた。この娘は香織という。この娘のほうが息子より年上であり、この歳で小学五年生になる。
息子の方はといえば、母親を上回って落ち着きがない。大方、母親の遺伝子を受け継いでいるのであろう。私はこいつにはしっぽをつかまれたり、やたらい追いかけまわされるかもしれないと考えた。この男の子が一番危険だと思われた。この息子は俊哉という。今年で小学四年生になる。
私はこの家族の飼い犬になるのが嫌になった。それだから、できる限り行儀の悪いふりをした。小屋の中で暴れまわり、ちんちんをかいかいしたりしてやった。ところがこれがよくなかったようである。私がちんちんをかいかいするや否や、歓声が上がった。見ると、父親でさえ感心していた。どうやら私は犬として珍しい芸を披露してしまったようであった。私は自分の失策を悟った。そのあと、僕はこの家族に購入された。
この失策に関しては、買われて以後も、尾を引いている。何かにつけては、娘も息子も、ことあるごとにちんちんをかいかいさせようとしてくる。時にはおやつをちらつかせて、やらせようとする。それでもやらないと、私を捕まえて無理やり仰向けにし、前足をつかんで無理やり動かすのである。すると、私は前足をつかまれるのが嫌だから(これはどうも犬生来の本能のようで、前足をつかまれるだけで背筋がぞわぞわしてくるのである)仕方なく自分から動き始めるのである。娘や息子たちはそれを承知のうえで、このような強硬手段に訴えるのであった。今では、まずこのちんちんかいかいを断ることはないから、前足を無理につかまれるようなこともないが。
ところで、芸といえば、私はまずできない芸というものがない。おすわり、お手、何でもできる。そのことに関して、私はこの家族がほめてくれるものと信じていた。しかしこれが存外冷淡なもので、何にもほめてはくれない。私がペットシーツ以外のところで一度もトイレをしたことがないにもかかわらず、また滅多に吠えることもないにもかかわらず、まるでほめてくれない。どうやら彼らは犬がこうするのが当たり前だと思っているようである。そんなわけがあるものか。私が人間の知能と前世の記憶を持っているからこそ、こうまで行儀よくできるのである。頭がいいとされるボーダーコリーだってこうはいくまい。
またこの家族の人間は大変ものぐさな性格をしている。まず排せつ物をほとんどの場合、無視する。私がたとえば小便を排泄したとする。当然シーツの色が変わるからそれと気づくはずである。ところが父親や子供たちなどが僕のそばを通っても、平気で通り過ぎていく。こちらとしては小屋が臭くってたまらないし、唯一の拠点が汚いままではろくに立ち入ることだってできないから一刻も早く片付けてほしいわけである。それだけに無視を決め込まれると、無性に腹が立つ。よっぽど吠え掛かってやろうかと思う。実際、一度吠えてやったことがある。その時は父親の一郎にほえたててやった。すると逆に「うるさい」と一喝され、挙句の果てに丸めた雑誌で尻ペタをたたかれた。柴犬はしっぽを尻の上に巻き上げているため、尻を守るものがない。それだからなかなかつらい痛みであった。それ以来、私はシーツ交換の催促のために吠えることをしない。
ところが催促をしないとなると、当然相手の気持ちに期待するよりほかになくなる。結局、私のシーツを変えてくれるの母親の美知子だった。しかしこの美知子でさえ、シーツを変えてくれないときがある。家事などをしている時だ。そういうときになると、なかなかシーツは交換されない。ある時などは、シーツが交換されるまでの間に三時間以上無視されたことがある。
まだ問題はある。彼らは餌やりがとにかくずさんである。餌をやり忘れることもさることながら、餌を出しっぱなしにすることも問題である。普通、人間の食卓では食べ残しを捨てるなり冷蔵庫に入れるなりして片付けてくれる。ところが私にはそうしてはくれないのである。食べ残しの餌がそのままであるのを見ると、腐っているのじゃないかと思われて仕方がない。そのため私は食中毒の不安に常に脅かされている。
それなら食べきればいいではないかというかもしれないが、そういうわけにもいかない。餌を食べきると、途端に一郎が新たにえさを補充し始めるのである。大方、餌のやり忘れを危惧してのことだろう。しかしこれでは食っても食っても際限がない。こうしたことがあってからは、私は餌を食べ残すことにしている。
彼らがずさんな性格であることは、彼らの生活を見ていても知れる。まず、床が汚い。私のおもちゃが床に散乱しているばかりでなく、赤と黒のランドセル、いつ落としたとも知れないお菓子のかす、子供たちのおもちゃ、いつどこで使ったともしれない服などいろいろなものが散乱している。あまりにもいろいろなものがありすぎて、ちと歩きにくい。あまりにもいたたまれないから、私などは、自分のおもちゃを自分で部屋の隅に片付けている。
そのほかにも、押入れがひどい。この押し入れはいつも開きっぱなしのために中身がよく見える。なぜ開きっぱなしなのかと言って、物が扉からはみ出ていて閉まらないのである。そんな押し入れの中がどんな風になっているのかといえば、それはもう汚い。とにかくいろいろのものが乱雑に押し込まれている。よくも物が落ちないものだと思う。
そんな家の住人であるから、私の世話がずさんであることもうなずけるであろう。決して彼らが私に冷淡なためばかりではないのである。私に冷淡であり、かつずさんな生活をしているために私はかような苦労を強いられているのである。
この話で一つ、息子の俊哉にかかわる逸話を思い出した。事の始まりは、息子の俊哉が教科書をなくしたと喚き始めたことにある。
こうした話を聞きつけるや、母親の美知子はすぐに俊哉のそばにやってきた。こうしたことになると人間というものは実に素早い。人が失敗したり、何か事件を起こしたりした時が、人間が一番早く反応する時なのではないかと、私は常々思う。
「教科書をなくしたの?」
俊哉はうなずいた。
「どの教科書がないの?」
「音楽」
「どこやったか覚えてないの?」
「捨てちゃったかもしんない」
「捨てちゃったの!」
「かも知れない、だよ」
「かも知れないってあんた、捨てちゃったらないに決まってるじゃない」
「だから捨ててないって」
「じゃあどこやったの?」
その質問になると、途端に俊哉は口を閉ざした。
「大体、どうして捨てちゃうの、使うんでしょ、その教科書?」
「だって、前の年の教科書だもん」
「へんね、先生何にも言わなかったの?とっておきなさいとか」
「知らない」
俊哉は答えた。
母親はこの問題についてはそれ以上追求しなかった。
「しょうがないわね、そしたら香織に訊いてみるしかないわね」
そういって美知子は立ち上がると、二階の香織の部屋へと行った。
「香織!俊哉が教科書捨てちゃったみたいなんだけど、持ってない?」
「何、ママ?」
「だから、俊哉が教科書を捨てちゃったみたいなの、音楽の」
「捨ててないって」
すかさず俊哉は反論する。
「だから?」
「その教科書、まだ持ってないかって」
「どの教科書?」
「どれ?」
美知子が俊哉に尋ねた。
「あれだよ、あの、器楽のやつ」
「あれ?あれって四年生からずっと使うやつじゃん。先生から言われなかった?」
「ほら、やっぱり先生から言われてるんじゃない!」
ここぞとばかりに美知子が俊哉を叱りにかかる。
「知らないよ、そんなの」
「知らないわけないじゃない、このあほたれ!」
「知らないったら。だって、古いやつはいつの間にかなくなっちゃってたんだもん」
「そんなはずないでしょ。どこにやったの、教科書」
「待って母さん。俊哉は教科書、捨ててないかもしれない」
美知子は香織の方を向いた。けげんな表情をしている。
「どういうこと?」
「ほら、古い教科書とかさ、パパがとっておいた方がいいとか言って押し入れにしまっちゃったりするじゃない。だから、それと一緒に……」
「だとしたら大変じゃない。あそこから教科書探し出すの?」
「とりあえずパパに訊いてみたら?教科書をしまっちゃったかどうか」
「あなた、教科書知らない?」
返事はない。美知子は階段を上がり始めた。そして一郎の部屋へと入る。
「あなた」
一郎は部屋の中で寝ていた。布団の端からすね毛の生えた足がのぞいている。大方、パンツ一丁で寝ているのだろう。
「あなた、起きて」
「んん、何?」
「俊哉の器楽の教科書、押し入れにしまった?」
「器楽?器楽ね、覚えてないけど、古いやつは皆押し入れにしまってあるから」
「じゃあ、器楽の教科書も入ってるのね?」
「入ってる」
それきり一郎は動かない。また寝るつもりらしい。
「押し入れから教科書出すの手伝ってよ、寝てないで」
「んんうぅ」
「ねえ、子供たちとあたしだけじゃ押し入れのもの出すことができないの。重いものだってあるし。だから寝てないで起きてよ」
「やだ……」
やだ、という言葉の後に何事かつぶやいたようだが、うにゃうにゃと聞こえて、明瞭には聞こえない。その言葉の後に続いて、ブウっという音が聞こえた。一郎が放屁した音である。
その音を聞くや、美知子は足を振り上げた。そして一郎の尻を蹴った。
「手伝わんかい、おんどりゃあぁ!」
尻を蹴られて一郎がうめいた。美知子はかまわずどんどん蹴りをくれていく。
「いい加減にしねえと、大事なとこつぶすぞ、つぶすぞおい!」
「起きる、起きるよ」
起きると言っているのに、美知子はまだ蹴り続ける。どうやら、一郎の屁がよほどお気に召さなかったようである。
「起きると言ってるだろうが!」
一郎が起き上がり、美知子の足を払いのける。一郎の目はカッと見開かれている。
「起きる起きるって言って、いつも起きないでしょ、これぐらいしないと」
「起きると言ったら起きる。そんなことしなくても」
そういって一郎はベッドからはい出た。やはりパンツ一丁である。
「服を着てくるから待っててくれ」
「待つわよ。そんな恰好で来られたからたまったもんじゃないわ」
そういって美知子は階段を降りていった。僕はそちらについていった。一郎の部屋にいて一郎の着替える様子を見る気はない。
階下に降りると、美知子は押し入れのある部屋へと行った。美知子は押し入れの前に立ち、二人の子供は美知子の後ろに立っている。
「二人とも下がっていなさい。なんか落ちてくると困るから」
“下がっていなさい”なんて言うのは野良犬を相手にしている時か、さもなければ洪水の川を目の前にしたときぐらいだと思っていた。よもや押し入れの前で言うとは思わなかった。
美知子が押し入れを開ける。幸い、何も落ちてこなかった。いや、不幸にして、というべきか。なぜと言って、押し入れから物が落ちてこないのは、物がぎっしりと詰まっているからである。さながら石塁を築くがごとく、モノとモノとがはまりあい、一種の壁を作り出しているのであった。
「着替えてきたぞ」
一郎が下りてきたようである。
「あなた、これなによ。どうしてこんなごっちゃになっているの」
「どうしてこんなにも何も、最初っからこんなだった」
「そんなわけないでしょ、前はもうちょっときれいだったよ」
「前がどうだったか知らんが、俺が教科書を入れるときにはもうこんなだった」
「あなたが教科書を入れちゃったからこんなぎゅうぎゅうになったんじゃないの?」
「そんなはずはない。教科書って言ったって、ほんの少しだ」
「じゃあ、私のせいだっていうの?」
「押し入れのことなんか俺が知るか。日中は仕事に行っているんだから」
「私だって仕事に行ってるわよ」
「だから、たいてい押し入れからものを出し入れしているのはお前だろう」
一郎は美知子を指さした。
「私はそんなにものを出し入れしないわよ。最後に押し入れから物を出し入れしたのはあなたよ、古い教科書を入れたっていうんだから。多分四月くらいのことでしょ。私、二月に炬燵しまってから押し入れに触ってないもの」
美知子が指をさし返した。美知子に理があると、一郎は見たらしい。一郎はやり返された形になってしまった。
「とにかく教科書を出そう。確か、この辺にあるはずだから」
一郎は言った。一郎の指さしたところには、がらくたしかない。
「どこにあるの?」
「この奥」
「なんで奥なの?」
「この奥に、教科書をしまってあるスペースがあるんだ」
「手前から入れていけばいいのに」
「いいよ、俺が出すから」
そういって一郎が前に出た。そして一郎が一番上に積んである、小型ヒーターに手をかける。それを引っ張り出そうとするが、どうもうまく抜けないらしい。何度かゆすってようやく抜けた。
すると、そのすぐ下にあった箱のようなものがぐらりと傾いた。それが落下して、一郎の素足をつぶした。一郎は悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「いってえ」
「私がものを支えておくから、その間にどんどん物をとっていって」
美知子が言った。
「やっぱ危険だね、あの押し入れ」
美知子の後ろで、香織が俊哉に向かっていった。
「エベレストなみだ」
俊哉が言った。私にはどういうことだか意味が分からなかった。
押し入れの解体作業は、長きにわたって続いた。ようやく、教科書が見えたころには床には山とガラクタが積まれていた。
それから教科書の束を家族全員で探した。量はさほどでもないからすぐにその束の中に器楽の教科書がないことが分かった。
「ないじゃない、器楽の教科書」
「ああ、思い出した」
一郎が言った。
「何、どうしたの」
「ほら、香織の時で器楽の教科書は使うって知ってたから、一郎の机の棚に入れておいたんだったよ」
「早く思い出しなさいよ、このあほたれ!」
「悪い」
それから一郎の言うとおり、机の中から教科書が出てきて、事なきを得た。
あまりにもずぼらなことから起こったこの出来事であるが、こうなったのは何も、この家族がずぼらだからというばかりのことではないような気もする。思えば、俊哉が自分の机に入っている教科書すら探し当てられなかったからというのもある。どうやら俊哉はよほどの抜け作と見える。
俊哉の抜けているところといえば、ほかにもこんな出来事があった。
私を飼い始めたころ、最初の二、三日は父や母が散歩に連れて行っていた。おそらく、初めての散歩ということで慎重になっていたのであろう。
それでもしばらくすると、小型犬相手の散歩なら子供でも大丈夫だと気が付いたのだろう。俊哉がもともと散歩に行きたいとよくごねていたこともあってか、五日目くらいに俊哉が私を散歩に連れていくことになった。
最初のうちはそれほど困ることもなかった。いやむしろ、困ることがあるはずがなかった。私は交通ルールも知っているから信号を無視することもないし、外で粗相をするつもりはさらさらなかったから、その処理で俊哉の手を煩わすはずもなかった。
問題なのは、運動公園についた時であった。運動公園のグラウンドに入ると、俊哉は急にしゃがみこんだ。
「わんわん、行って来いよ」
そう言って俊哉は私の首輪からリードを外してしまったのである。
これをやられた時には、私も驚いた。よほどきちんとしつけた犬をリードなしで散歩するという話は聞いたことがある。けれども普通の犬ならまず逃げる。ましてや飼い始めたころなら。それにもかかわらず、俊哉はリードを外したのである。
この時私はよほど逃げ出そうかとも思った。もとよりそれほど暮らしやすい家でもなかったし、家族に愛着もない。毎日一つの場所に拘束されてばかりの日々にもいい加減、飽きてきていた。
だが逃げる私を追いかけて事故に遭われても困る。それに万が一逃げおおせたところで、俊哉が困る。せっかく買ったばかりの犬が逃げ出してしまったことで、俊哉は途方に暮れることだろう。もしかしたら泣き出すかもしれない。挙句の果てに家に帰れば、両親からも怒られるやもしれない。何しろ私という犬は十五万円以上したのだから、なかなかの出費であった。私が逃げ出せば、詐欺師に十五万円だまし取られたのと何ら変わらない。
結局私は運動場を俊哉に呼び出されるまで走り回った後(幸い運動場に人はおらず、迷惑をかけることもなかった)、再びリードをつけられることもないまま家に帰った。
家に帰ってきたとき、私を見た両親は驚いていた。リードをつけていないのにもかかわらず、子供のあとにぴったりとくっついてきていたからだった。
この時より、僕はリードをつけられることなく散歩させてもらえるようになった。そしてさらにしばらくしたころには、素行のよそが認められたからなのか、はたまた面倒くさくなったからなのか、ただ外に出されるだけになった。それはひとりで散歩に行っていい、ということであった。
ところで散歩といえば、とうとう香織だけは私の散歩に行かなかった。なぜ彼女が私の散歩に一度も行ったことがないのかと言って、それはものぐさだからだと思う。香織は家事とかそういったことを手伝うことはなく、さらに言えば、部屋の片付けもろくにしない。
香織の部屋の片づけのことで、こんな逸話がある。ある時、家じゅうに美知子の怒鳴り声が響いた。美知子がいたのは二階の、香織の部屋であった。
「どうしてこんなに汚いの!」
「いいじゃん別に」
「よくない!掃除しろ!」
香織はいやいやながらといった具合に動き始めた。けれども一向に何かを片付けようという気配がない。見ると、視線が空中をさまよっているように見受けられた。どうやら香織は片づけ方というものをそもそも知らないらしい。どこから手を付けてよいのかわからないのである。
「もういい。どいて」
見かねた美知子がとうとう自分から片づけを始めてしまった。それにしても、ずさんな美知子が人の部屋の汚さを責めることになるとは思いもしなかった。しかしその美知子の汚い押し入れ以上に、香織の部屋は汚かった。
「なにこれ?」
美知子が持ち上げたのは、中身の入ったペットボトルである。
「いつのやつ?」
「知らない」
美知子はペットボトルを処理した後、また片づけを再開した。すると今度はタッパーを取り出した。
「道理でないと思ったら」
恐ろしいことにタッパーの中には中身が入っていた。中身のものの色は茶色い。果たして元からそういう色だったのか、それとも腐ってしまったためにそういう色になってしまったのか。
「ちゃんと片づけないからこんなのがあるのよ」
「だって開けたくなかったんだもん」
「私だって開けたかないわ!」
美知子はタッパーを下に持って行って処理した。それからまた部屋の片づけを再開する。美知子はまだ床の整理を行っている。そもそも香織の部屋は床中にものが落ちていて、物の上を歩かざるを得ない状況にある。これでよくも教科書をなくさないでいられるものだ、俊哉のように。
美知子が悲鳴を上げた。何事かと思ってみると、美知子は手をしきりにズボンの太もものあたりにこすりつけている。
壁のあたりに、一部ぽっかり床が見えるところがある。そこに三本ばかり、キノコが生えていた。
「ねえ、おかしいんじゃないのこの部屋」
美知子は言った。
「おかしいのは住んでる私自身、よく知ってるよ」
「じゃあこのキノコのことも知ってたの?」
「それは……知ってた」
「なんで抜かなかったの?」
「毒があるかもしれないし、触りたくなかったから」
なるほど、確かに毒はあったことだろう。
美知子は手袋をはめ、キノコを下に持って行って処理した。
それからまた美知子の部屋の清掃作業が再開された。床のごみを袋に詰めていき、必要なものは外に放り出す。部屋の中にはもはや、置き場がないのである。
床が一通り片付くと、美知子と香織はベッドの下を片付け始めた。
「ねえ、ベッドの下、紙だらけじゃない、本当にもう――」
その言葉の後に悲鳴が続いた。
「ゴキブリ、ゴキブリ!」
ベッドの下からゴキブリが三匹這い出してきていた。これを見た香織は部屋から逃げ出した。
「もうやだ、この部屋!」
香織は叫んだ。
「あんたの部屋でしょうが!」
それに対して美知子が叫び返した。
「ねえもう掃除するのやだ」
「じゃ、このままこの部屋にいる?」
「やだ。ねえ、俊哉。部屋、交換しよ」
「ふざけんなバーカ」
当然の返答だ。
「あんたねえ、自分で掃除してきれいにしていられるようにしなさいよ」
「無理だよ、だってゴキブリいるもん。掃除してるときに出たらどうするの?」
「そしたら、たたきなさい。スリッパとかで」
「無理!」
「いいからやる!」
結局、香織は美知子に無理やり部屋に引きずり込まれ、掃除をさせられた。それである程度、部屋は片付いた。きれいにとは言わないが。ただ、掃除の途中にゴキブリが見つかることはなかった。ゴキブリが部屋を出るところを、私は見ていない。おそらくまだ、香織の部屋にいるものと思われた。
そのことを考えた香織はひどくおびえていたが、夜はこの部屋で眠った。それからしばらくはゴキブリ騒ぎが起こることもなかった。
私はこの出来事以来、この部屋に入ったことはない。何もゴキブリが怖いのではない。ゴキブリなど、とうの昔にどこかへ逃げ去ったに決まっている。そうではなく、香織の汚い部屋は、呼吸することさえはばかられるほど、汚染されているように思われるからである。いわば、腐海と似たようなものだと考えているのである。
腐海と似たようなもの、と考えているということはそれなりににおいもやはりするわけである。その匂いが、犬となった僕の特別鋭敏な嗅覚をひどく刺激することがあるかといえば、そういうわけでもない。不思議なもので、嗅覚こそ確かに鋭敏になりはしたものの、ちょっときついにおい、例えば靴下のにおいなどをかいだからと言って、卒倒しそうになることはない。人間が靴下のにおいをかいで気絶しないように、犬も耐えうることができるようである。
犬になってからというもの、いろいろと生活が変わった。第一に体が変わった。頭はより床に近くなり、器用な指を持つ手が消えた。おかげで、自分でお菓子の袋の一つも開けられず、床に置いてある靴下がほとんど眼前にあるような状態になってしまった。
しかしそう悪いことばかりでもない。犬のこの体は、それなりの利点があるからこそこのように進化したものと見える。まず足が四本あるから、かなり速く走れる。そこいらの人間なんぞに負けるものではない。先日、ランニング中の男と競争をしたことがあるが、余裕で勝利した。足が速いばかりではない。全然疲れもしないのである。人間の頃よりも、はるかに遠くの距離まで歩いて行ける。つい先日などは隣の市の、隣の市まで散歩していって帰ってきたものである。
それに顔が地面に近いと、においの跡を容易にたどることができる。この匂いというやつがなかなか奥が深い。においを少しかぐだけで、何がここにいたのかとか、時には雨のにおいさえかぐことができて、天候の具合まで読むことができる。
閑話休題、私は人間の頃から疑問だったことがあって、もし犬になったら、果たして犬のしゃべっていることが聞こえてくるのか、それとも犬はしょせん犬で、そもそも言語という概念を持たないのだろうか、というものである。要するに、犬は話せるのか話せないのか、というものである。
結論から言えば、私以外の犬は話せない。私は散歩に出かけては、方々の犬と顔を付き合わせた。するとそもそも犬には人間のような高等なコミュニケーションをとる手段自体ないことが発覚した。
犬である私から見ても、犬は相変わらず犬だった。初対面と出会うと、相手の尻のにおいをかぐ。気に入らないと気違いみたいに吠える。ところかまわず排泄する。
そういったわけで、犬になってから犬語やなんかでほかの犬と会話をする、という私の夢はかなわなかった。
私は会話がしたくてもできなかったが、私の家にも似たような奴がいる。一郎である。この一郎という男はとにかく人と話したがらない。いわゆる口下手だからである。滅多に人を家に招くことはない。私の知る限りでは、付き合いなりなんなりで人が家を訪問することも一度や二度はあるはずなのであるが、この家に限っては、私が来てから一度もない。
一郎は羊羹を作る工場に勤めている。なるほど、いかにもただ羊羹とだけ向き合っていたい、と言いそうな男でもある。
ところが本人はそんなことはないようで、始終仕事を辞めたいとこぼしている。そのわけが、「僕には肉体労働が似合わない、知的労働のほうが向いているのだ」らしい。
その知的労働が果たして何なのかといえば、この男にとってはどうやら、小説らしい。この男は仕事を辞めたいというと同時に、小説家になるのだとものたまっている。実際、この男は家でたまに愚にもつかない小説を書いている。なぜ愚にもつかない、と知っているのかといえば読んだことがあるからである。この男の部屋に忍び込み、ちょいとノートを盗み見ればたいていのことはわかる。その内容が本当にへんてこりんで、魚が家を泳いでいる内容の小説があるかと思えば、今度は尻で扉をたたいて開けるという内容の小説があるのだ。この男がふざけて描いているのであればまだ救いようもある。しかし私はこの男が小説を書いているときの様子を見たことがあるが、いたって真面目そのものであった。あんなものをまじめに書くなんてどんな頭をしているのだろうかと疑わざるを得ないところである。
こんな頭のおかしい男と結婚した美知子は、一体どういう了見で結婚したのだろうか。そんなことを疑問に思うかもしれない。その答えに関しては、美知子もまた頭がおかしいから、とでも言っておこう。
美知子はよくヒステリーを起こす。自分が無精なくせに香織の部屋の汚いことで怒るのもさることながら、ある時は俊哉が洗濯物を出しただけで
「そんなほいほい洗濯物を出さないで!」
と叱ったことがある。その時は梅雨時で洗濯物がかなりたまっていた。だからイライラしていたのかもしれない。とはいえ一度着た服を洗濯しないでどうしろというのだろう。かわいそうに、その時の一郎は一度脱ぎ掛けた服をもう一度着なおして、もう一日使った。
どうしてそんな女と一郎は結婚したのか、と皆さんは疑問に思うかもしれない。あるいは思わないかもしれない。というのも、美知子は美人だ。一郎はそれに惹かれたのである。美人である上に、自分と結婚してもいいと言ってくれる。これほどいい女はないというわけだ。一郎という男は馬鹿なもので、人形を買うのと女と結婚するのをおんなじ判断基準で行っている。
そんなろくでもないことからできた家族は割合平和に存続できている。一郎は相変わらず小説を書くためにパソコンの前に座っている。その時間の大半は考え込んでいて、たまにそのまま眠り込んでしまうこともある。
美知子はついさっきまで笑っていたかと思えば急にヒステリーを起こしている。俊哉はそんな母親を無視して私のしっぽを引っ張って遊ぼうとしている。抜け作だからこそ、犬の嫌がることがわからないのである。
香織は相変わらず汚い部屋にこもっている。よくもあんな部屋にこもっていられるものだと思う。
多分私はこんな家で、それなりに暮らしていきながら、そのうち寿命を迎えていくのだと思う。
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