境界のクオリア

山碕田鶴

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49.月明

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 ……ルル……ラーラ……
 ……ララ、ラ……

 歌……歌声が聴こえる気がする。
 ささやくような声は、風に流され静かに消えていく。
 祈りにも似た音。
 どこからだろう。
 繰り返し、繰り返し、波のように……
 ……この曲を僕は知っている……
 目を開けた晴久は、街灯の薄明かりに照らされたペデストリアンデッキの床をぼんやりと見た。
 花びらが落ちている。
 過去の記憶や夢ではない。
 花びらが、赤い。

「あら、やだ。落ちちゃった」

 晴久の頭上から、柔らかな布に包まれた手が伸びて、花びらを優しくつまんだ。
 その瞬間、晴久は自分が横向きになっていて頭を上下から硬いものに挟まれ潰されるのがわかった。息ができない。

「くっ、苦しい……」
「やだっ、ごめーん」

 明美がすぐに上体を起こして、晴久の頭をなでた。

「明美さん?」

 晴久は、明美の膝枕でベンチに横になっていた。ふわふわとしたワンピースの生地が心地良い。
 起き上がろうとしたのを強引に押さえつけられて、晴久の頭は明美の膝上に固定された。

「あ、また赤くなってる。こういうの、初めて?  」

 晴久は黙ってうなずいた。明美は話しながら、晴久の頬や耳を指先でなでている。

「やだ、かわいい。ウブな年下の子と遊ぶのも楽しいかもね」
「遊びませんから。あ、……花の匂い……」
「ああ、バラよ。ほら、見える?  きれいでしょ。さっきライブハウスでもらっちゃった。バラ一輪差し出すなんてキザな男がいるものよねえ。でも、悪くないわね」

 明美は晴久に見えるようにして茎をくるくると回した。

「花びら、今拾って……」
「あ、こっち?」

 手に乗せた花びらを晴久に見せた。

「こっちもきれい。せっかくもらったのに、もったいないでしょ。ここで落としていったら、気持ちを捨てちゃうみたいじゃない?  持って帰って、バラ風呂とかバラベッド?  あはは、乙女チックね」
「あの……僕、倒れていましたか?」
「練習が終わって帰って来たら、お客君まだここに座っていたわよ。ぼーっとなってた。よくそんなんで犯罪にも巻き込まれず生きてきたわね。お腹もすかないの?  声をかけてもつついても反応がないから膝枕してみたの。これ、やってみたかったのよねー。イチャつくカップルを見るとイラつくけど、自分でやると楽しいのね!」
「イチャついていませんから」
「だって、今もアタシの手を触って……あれ?  泣いている?」

 晴久は、明美の手のひらに乗った花びらに触れていた。
 赤い色。花からこぼれ落ちても、大切に拾い上げられて大事にされている。

「……泣いていませんから」

 晴久が花びらをなでるのを明美はそのままにさせていた。
 赤い色。置いていかれることなく、手を差し伸べられて優しく包まれている。

「僕は、拾って欲しかった……。僕は、名前を呼んで欲しかった……」

 悲しいことは何もない。枯れた花びらは過去の記憶だ。
 ふと口をついて出た言葉は、過去との決別だ。

   この赤い花びらこそが、今の僕だと信じることができるから。

「なあに?  名前ならアタシが呼んであげるわよ?」
「え?」
「お客君」
「それは……」
「なあによ?  文句ある?  アタシとケンがつけてあげた、ありがたーいお名前でしょ。ねえ、お客君」
「……はい」
「お客君」
「はい」
「大丈夫よ、お客君。心配しないで」
「はい」
「アタシたちはお客君の仲間だから」
「はい」
「お客君はアタシたちの大事な生贄いけにえだから」
「……はい?  生贄って何ですか?」
「決まっているでしょ。ササイさんに差し出すのよ。君をお供えしておけば、アタシたちはずっとササイさんの近くにいさせてもらえるでしょ。安泰安泰。だから逃さないわよ。ついでにアタシはつまみ食いってね。あはは」

 明美の顔が近づいてくるのがわかった。体を固くした晴久の耳元で、明美はからかうように小さく笑った。

「どんな名前でも、今アタシは君だけを呼んでいるでしょ。君だって、ササイさんのことを石崎って呼んでいるじゃない」

 明美は晴久と重ねていた手を離した。

「ちゃんと自分の名前を呼んでほしいなら、ササイさんのこともちゃんと呼べば?  変な二人ね」

 ……ルル……ラ、ラ……

 明美は膝枕をしたまま、ささやくように歌い始めた。
 甘く濃い霧が広がっていく。

「その歌……」
「ん?  ササイさんがこの前弾いていた曲。譜面探しようがないし、ササイさんも知らないっていうから、もう一回弾いてもらったの」
「聴いて、すぐ覚えられるんですか?」
「ササイさんがちゃんと弾けていたら、合っていると思うけど」
「……すごいですね」
「そお?  ケンなんか、一回見た顔バッチリ覚えてて、そっちの方が無駄にすごいと思うけど」
「僕は……なんにもないです」
「わー、それ嫌みぃ。ササイさんと個人的に仲良しってだけで、もう十分すごいんですけどお?」
「それ、僕が何かしたわけではないです」
「あー……。まあ、ねえ。じゃあ、君は何を頑張った人?」
「何を、頑張った?」
「そう。アタシは歌っている。何があっても歌う。まだやってるって言われても歌う。別に頑張ったとは思っていないけれど。これがアタシ。君は、何かある?  自分にはコレがあるって思いたいのでしょう?」

 晴久は、いくら考えても明美のような何かがなかった。
 僕はずっと透明人間だった。僕はいらなかった。僕は存在しなかった。
 それでも、僕は今ここにいる……。

「……生きること。明日も生きること」

 それしか、ない。たったそれだけ。
 明美がハッとしたように一瞬動かなかったのが、膝枕の晴久にもわかった。

「……すごいね。生きるのを頑張ったって言えるほど、生きることを考えたのでしょう?  それ、すごいと思うけど?」

 明美は晴久の肩をトントンと軽く叩いてリズムを取りながら、また歌い始めた。

 ……ララ、ラ……ラー……

 記憶の中の色あせた曲が、明るく鮮やかに染められていく。
 晴久は膝枕のまま、優しい歌を明美の気が済むまで黙って聴いていた。
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