境界のクオリア

山碕田鶴

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27.慈雨 四

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「そうですか」

 晴久はステージにいる石崎を見た。店長と思しき貫禄のある年配の男と談笑している。
 あの人でも普通に笑うんだ。

「あーあ。つまんないわね。反応なし?」

 明美は呆れたように晴久を見た。

「あの、僕、石崎さんとは何でもないですから。ただの偶然の……知り合いです」
「あっそ。じゃあ、ササイさんいじって遊ぶからいいや」

 明美は意味ありげな視線を晴久に送ってから、もう一度「あーあ」と溜息混じりに声に出した。
 晴久は、明美の大げさな動きをぼんやりと見ていた。
   石崎さんの生活は、僕の立ち入る領域ではない。
 明美と石崎がどんな関係であろうと、晴久にはどうでもいいことだった。二人のこれまでの関係も、自分が存在することで変わるかもしれないこれからの関係も、晴久にはどうすることもできない。
   だから……。

 ……トンッ。

   記憶の中の感触がふっとよみがえった。
   小学生だった晴久の背中を押した大きな手だ。
   窓から見た夕焼け。散る梅。枯れた水仙。冷たく湿った土。
   カビと鉄さびの匂いが混じった赤茶色の景色の中に引き戻される感覚に、晴久は頭を振ってあらがった。
   自分が存在することで変わってしまったのかもしれない父母の関係。自分がいなければ穏やかだったかもしれない父母。自分にはどうしようもない過去。自分にはどうしようもない自分。

   だから、僕を責めないで。

   ああ、そうか。ちゃんと父の記憶もあったんだな。
   欄干の前で石崎に話した時には感じなかった手の温かさを晴久は今思い出していた。

「あの……さ。ひとつ、訂正しておくから」

 明美がおずおずと切り出した。

「一緒に暮らしてる、じゃなくて居候。ただの居候」
「え?  そうなんですか。でも、なんで……」
「あなたが泣きそうだったから」
「泣きそうって……」
「わかってるわよ。別にアタシは嫉妬なんかされてないって。それもなんか負けたみたいでムカつくんだけど、でもなんかアタシの言葉で変な顔したからさ」
「変な顔……で笑ってる?」
「そうっ、それよ。なんか酷いことしたみたいで後味悪いのよ」

 晴久は、石崎にも変な顔で笑っていると言われたことを思い出した。

「明美さーん、もう帰れますー?」

 突然、大声で呼ぶ声がした。
 フロア入り口から大柄な男が明美に近づいて来る。

「上は片付けたんで、ワタルたち先に帰りましたよー?」

 明美も背が高いが、さらに頭一つ大きい。年は明美と同じくらいか。強面だが、晴久に気づくと人懐っこい笑顔になった。

「どーもー。なんすか、この子?」

 晴久に挨拶して、それから明美に訊く。晴久は黙って会釈した。

「ササイさんのお客ぅ」
「ひぇっ?  お客?  ササイさんに?」

 かなり驚いた様子で晴久をまじまじと見る。

「ちょっと明美さん、失礼なことしてないすか?  なんかオドオドしてますよ。いじめたりしてないですよね。ササイさんに怒られますよ?」
「してないわよぉ、失礼ねえ。ケンちゃん誰の味方よ?」
「えー?  もちろん明美さんっすよ。ああ、もう一回。どうもです。憲次郎です。明美さんのサポートでイロイロやってます。もちろんササイさんほどじゃあないすけど」
「こんばんは。……お邪魔しています」

 晴久ももう一度会釈した。失礼だとは思ったが、名乗ることはできなかった。

「その子、ササイシン知らないわよ」
「そうなの?  仕事関係じゃないんだ。へえ」

 憲次郎はあっさり言った。明美のように責める様子はないので晴久はホッとした。
 イロイロってなんだろう。世界が違い過ぎて全くわからない。

「アタシは、この子に好きな曲訊いてただけなのぉ」
「明美さんは存在が怖いんすよ。だいたい、音楽の話さえすりゃ仲良くなれると思ってません?」
「仲良くなんてしないわよ。こんな、体も存在感もうっすい子、全然タイプじゃないし」
「ひっどいなあ、何すねてるんですかあ?  お客君、口が悪くてごめんねぇ。って、明美さん!  この子全然薄くないっすよ。ほらっ、細いけど鍛えてますって」

 憲次郎は強引に晴久を明美の前に差し出した。

「うわっ、ちょっと、いきなり触らないで下さいっ。何しているんですかっ」
「気にしない気にしない」

 明美は服の上から晴久の肩や脇腹をポンポンと叩いてまわった。軽く触れる程度ではあったが、晴久は緊張と恥ずかしさで涙目になっていた。

「やめて下さいって。なんか石崎さんにらんでいますよ?  部外者がうるさくしてすみませんっ。だから離して下さいって」
「あー、いいのよ。どうせ自分だけ仲間はずれで寂しいだけだから。それとも、自分も触りたいのかしらね?」

 明美は冷たく言い放った。

「ひえー」

 憲次郎が言う横で、晴久も同じことを口に出さず叫んでいた。
 憲次郎は、やっと解放されて息を切らせる晴久の頭をなでながら不思議そうに訊いた。

「でも石崎さんって……ササイさんのところの事務の人でしょ?  いつも電話連絡だけで、今日も来てないと思うけど……」

 明美は何も言わなかった。
 晴久は、自分の勘違いを理解した。男は「事務の石崎という人が許可したと言えばいい」と話したつもりだったのだろう。
 それならば、なぜ晴久の呼びかけに返事をしたのか。明らかな嘘をそのままにして、なぜ訂正しないのか。
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