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19.偶然 六
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憂鬱な気分のまま足取り重く駅前に来ても、景色は何も変わらない。誰も晴久を知らず、気にとめることもない。ただひとりを除いて。
「偶然だな。……不機嫌そうだな」
晴久が座るベンチの前で、男は淡々と言った。どうしたとは訊かない。晴久が怒っていても笑っていても、きっと反応は変わらないだろう。
「今日はこのまま帰ります」
「そうか。ずいぶんと嫌われたものだな」
「そういうことでは……」
晴久が帰ると言っても、今まで何か言われたことはなかった。どうして今日に限って……。
晴久は急に不安になった。思わず男を見上げたが冷たく見返され、胸が締めつけられる思いがした。
「あの……すみません」
男の視線から逃げるようにうつむく。目を逸らしたことへの罪悪感で更に胸が苦しくなる。
「すみません……」
「なぜ謝る? お前は甘いな。少し強く出られるとすぐ、嫌われたくないという顔になる。そういうのは他人をつけ上がらせるぞ」
「でも、僕は嫌いになったわけじゃなくて……」
「私とお前の間に嫌いも好きもあるか。ただのオトモダチだろう。お前が帰ると言ったからといって、なぜ私が怒る? それくらい聞き流せ。いちいち考え過ぎるな。人の感情を気にし過ぎるな 」
男は晴久の隣に座った。深く溜息をついて晴久を横目で見ると、空を仰いだ。
「まだ腕は痛むか? 足は良くなったのか? ……お前の揉め事は私には関わりのないことだが、お前につけられる傷はうっとうしい。さっさと何とかしろ」
傷……やっぱり気になっていたのか。でも、酷くした自覚はないのか。
晴久の呆れたような顔を見て、男は心外だと言いたげに晴久を見返した。
「お前、私をサディストだとでも思っていたのか? 失礼な奴だな」
男の目が笑っていた。晴久は、それだけでほっとした。
どうしてこの人には、感情を酷く揺さぶられるのだろう。他人がどう思っているか常に気にしてしまうのは昔からだ。それでも、たった一言で、わずかな仕草でこんなに気持ちが揺れるのはおかしいだろう。
職場のことで頭がいっぱいなのに、全てぐちゃぐちゃにされて何も考えられなくなる。それでいいような気になってしまう。
「お前は常に情緒不安定だな。お前と私は偶然に会う。それだけだ。だから何も変わりようがない。不変の安定だろう。それでは不満か? ……それとも、好かれたいのか?」
「そういうのでは……」
違う。嫌われるのが怖いだけだ。
「私に嫌われるのが怖いか?」
「……はい」
「ただの偶然のオトモダチでもか?」
「はい」
誰であっても、どんな関係であっても、嫌われるのは怖い。他人がどう思うか気になるのも常に不安なのも、きっとそのせいだ。
晴久があまりにも力のこもった返事をしたからか、男はかすかに笑っていた。
「それなら、もうグダグダ考えるな。いちいち不安になるな。お前は、私が嫌う要素を持っていない」
「……?」
晴久は、何を言われたのか一瞬わからなかった。
「お前はいつも前を向いている。どれだけ弱っても進もうとする。まあ、かなり無謀で強引で危なっかしいが、そういうのは嫌いではない。何より、不幸なのに頑張っているとか、そんなくだらないことを言わない。だから、私は嫌いにならない」
「僕は、自分が不幸だと思ったことはありません」
「知っている」
晴久に向かって伸ばされた男の手が、鼻先で止まる。急に触ることはしない。男は晴久が見返すのを待っている。
目が合った瞬間、男は手の甲で晴久の額をそっと撫で上げると、そのまま髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫で回した。
「ちょっと! やめて下さいって」
「いいか。私は、嫌うことはありえない」
男がどんな顔で言ったのか、頭を揺すられていた晴久は見ることができなかった。ただその声は、かつて自分に寄り添い続けた時計台の曲に似て、晴久の心を支えてくれている気がした。
「偶然だな。……不機嫌そうだな」
晴久が座るベンチの前で、男は淡々と言った。どうしたとは訊かない。晴久が怒っていても笑っていても、きっと反応は変わらないだろう。
「今日はこのまま帰ります」
「そうか。ずいぶんと嫌われたものだな」
「そういうことでは……」
晴久が帰ると言っても、今まで何か言われたことはなかった。どうして今日に限って……。
晴久は急に不安になった。思わず男を見上げたが冷たく見返され、胸が締めつけられる思いがした。
「あの……すみません」
男の視線から逃げるようにうつむく。目を逸らしたことへの罪悪感で更に胸が苦しくなる。
「すみません……」
「なぜ謝る? お前は甘いな。少し強く出られるとすぐ、嫌われたくないという顔になる。そういうのは他人をつけ上がらせるぞ」
「でも、僕は嫌いになったわけじゃなくて……」
「私とお前の間に嫌いも好きもあるか。ただのオトモダチだろう。お前が帰ると言ったからといって、なぜ私が怒る? それくらい聞き流せ。いちいち考え過ぎるな。人の感情を気にし過ぎるな 」
男は晴久の隣に座った。深く溜息をついて晴久を横目で見ると、空を仰いだ。
「まだ腕は痛むか? 足は良くなったのか? ……お前の揉め事は私には関わりのないことだが、お前につけられる傷はうっとうしい。さっさと何とかしろ」
傷……やっぱり気になっていたのか。でも、酷くした自覚はないのか。
晴久の呆れたような顔を見て、男は心外だと言いたげに晴久を見返した。
「お前、私をサディストだとでも思っていたのか? 失礼な奴だな」
男の目が笑っていた。晴久は、それだけでほっとした。
どうしてこの人には、感情を酷く揺さぶられるのだろう。他人がどう思っているか常に気にしてしまうのは昔からだ。それでも、たった一言で、わずかな仕草でこんなに気持ちが揺れるのはおかしいだろう。
職場のことで頭がいっぱいなのに、全てぐちゃぐちゃにされて何も考えられなくなる。それでいいような気になってしまう。
「お前は常に情緒不安定だな。お前と私は偶然に会う。それだけだ。だから何も変わりようがない。不変の安定だろう。それでは不満か? ……それとも、好かれたいのか?」
「そういうのでは……」
違う。嫌われるのが怖いだけだ。
「私に嫌われるのが怖いか?」
「……はい」
「ただの偶然のオトモダチでもか?」
「はい」
誰であっても、どんな関係であっても、嫌われるのは怖い。他人がどう思うか気になるのも常に不安なのも、きっとそのせいだ。
晴久があまりにも力のこもった返事をしたからか、男はかすかに笑っていた。
「それなら、もうグダグダ考えるな。いちいち不安になるな。お前は、私が嫌う要素を持っていない」
「……?」
晴久は、何を言われたのか一瞬わからなかった。
「お前はいつも前を向いている。どれだけ弱っても進もうとする。まあ、かなり無謀で強引で危なっかしいが、そういうのは嫌いではない。何より、不幸なのに頑張っているとか、そんなくだらないことを言わない。だから、私は嫌いにならない」
「僕は、自分が不幸だと思ったことはありません」
「知っている」
晴久に向かって伸ばされた男の手が、鼻先で止まる。急に触ることはしない。男は晴久が見返すのを待っている。
目が合った瞬間、男は手の甲で晴久の額をそっと撫で上げると、そのまま髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫で回した。
「ちょっと! やめて下さいって」
「いいか。私は、嫌うことはありえない」
男がどんな顔で言ったのか、頭を揺すられていた晴久は見ることができなかった。ただその声は、かつて自分に寄り添い続けた時計台の曲に似て、晴久の心を支えてくれている気がした。
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