境界のクオリア

山碕田鶴

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11.岐路

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   深夜の空は星がよく見える。既に終電の時間は過ぎて、歓楽街の一部を除けばどこも静まり返っていた。賑わいの余韻を残す澱んだ風がアーケードを吹き抜けて、晴久の足もとに絡みつく。

   僕はたぶん、きっかけが欲しかった。

   僕は他人との距離が遠過ぎる。だから、いつだって誰かに踏み込まれたと感じ、いつまでたっても他人行儀だと言われてしまう。
   周囲と距離感が違い過ぎて折り合いがつけられない。どうにかしたいのに、どうにもできずにいた。
   あの人に会ったら、何かが変わる気がした。変わるきっかけだけでも見つけられる気がした。
   迷ったけれど、後悔はしたくなかった。会って後悔することは考えなかった。
   あの人は「また会ったな」と挨拶したきり、他に何も言わなかった。詮索もなく、関心もなく、当然のように僕を闇に連れ出した。
   何も話すことはない。この人はどうして人の視線を集めるのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら隣を歩く。
   歩道に面した店の窓ガラスに映るのは、全く接点のなさそうな二人の男だ。この人の近寄り難い雰囲気は、僕がひとりで歩いているような錯覚を起こさせる。
   でも、時々振り向いて、立ち止まって、僕を待つ。感情のない笑顔ではなく、感情の隠れた無表情で。それは拒絶ではない。だから僕は少し安心する。 
   僕という存在と、それに触れる存在がいて、初めて境界を知る。
   これまで、自他の境界を誰かと確認し合うことなどなかった。そこに線を引いたからといって、線に気づき、立ち入らないでいてくれる人などいなかった。
   僕は、人がこんなに優しいことを知らなかった。
   僕にとっての優しさは、決して心に触れないこと。その手は僕の指先に触れない。その目は僕の瞳の奥を覗かない。
   遠く、遠く境界線に立ち、ただ僕の輪郭を確かめる。それなのに、僕がここに存在するとはっきり教えてくれる。
   寄せる波は静かに僕を呼び、また静かに引いていく。僕は波に揺られるまま、遥か沖を眺め見る。波のしずくが頬を濡らす。
   見晴らす先は満ちる海だ。僕の足は水底に届くことなく、一度潜れば溺れて窒息するのだろう。苦しみは僕の安寧に似ている。
   暗い波にさらわれて流されるまま深く沈んだ僕は、音もなく闇に溶ける。
   自分が消えたことさえ気づかず安らかに今日を死に、静寂のなかに解放される。そこにあるのは、明日に生まれることができるという確信だ。
   盗み見た瞳も、わずかに頬にかかる髪も夜の闇だった。眠りに落ちる間際の無防備に投げ出されたその手と指先を見ながら、この人はつくづく他人だと思い知った。



   どうせ終電を逃すからと言って初めから駅前のビジネスホテルに朝までいる気の男を残して、帰路を急ぐ晴久は出勤までの段取りを考えていた。
   家に帰ったら、少しは眠れるだろうか。いや、それよりも起きられるだろうか。
   あまりにも普通に普通のことを考えている自分に安心する。

   怖いもの知らず。怖いもの見たさ。無謀。無自覚。無鉄砲。

   本当にその通りだと思った。自分でも呆れるくらいにそう思う。

   だが、無謬。

   あの人はそう言った。
   むびゅう……誤っていない、判断に間違いはないという意味だ。
   間違っていないとそのまま言ってもらえたら、素直に喜んでいたかもしれない。難しい言い方をされてもよくわからないし、嬉しさが半減する気がする。
   晴久は、気難しそうな顔を思い出して誰もいないのに笑いをこらえた。
   駅からだいぶ歩き、人通りのない住宅街にある自宅アパートの前で、ふと空を見上げた。いつもと変わらない景色だが、夜明け間近に星を見るのは初めてだった。
   きっと僕は一つの大きな選択をした。それでも、僕の昨日と僕の明日は続いている。僕は大丈夫だ。
   晴久は服の袖でそっと頬をぬぐった。次々と伝う光はまるで星が降るようだった。
   それが悲しみでないことだけは、晴久にははっきりとわかっていた。
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