182年の人生

山碕田鶴

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1913ー1940 小林建夫

19-(2/2)

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「御足労いただいて恐縮です。こちらの湖の鰻も浜名湖に劣らず旨いでしょう? ここの鰻は蒸さずに焼く関西風です。ですが、さばき方は西の腹開きではなく東京と同じ背開きなのですよ。この辺りの地域がちょうど東西の境目らしいですね。まあ、周辺のお店は全て蒸して焼く関東風だったりするようで、単に創業店主の好みかもしれませんがね。タレだって、東でも西でも、こんなに濃くて甘いのはありません」
「小林さん、こんな田舎育ちというのにずいぶんと博識でいらっしゃる」
「いやあ、鰻ごときで博識ですか? 店の宣伝文句ですよ。私は鰻を食えるような身分ではありませんでしたから」

 佐藤は笑いながら常に私を観察している。言葉一つも逃さないらしい。
 店の女将が追加の酒を運んで来た。

「小林さんが全部お話して下さるから、私から改めて料理のご説明を申し上げることはございませんねえ。このお方、ちょいと変わっていましてね。料理人がさばくところを見たいだとか店を構えたのはいつからだとか、まあ細々とあれこれ聞くんですよ。お教えしているうちに今度は村長さんやらあちこちの社長さんやらに話して下さるのか、お客様が次々いらして。今度は東京からのお客人ですか? どうぞごゆっくり」

 愛想良く振る舞う女将の後ろ姿を佐藤は目で追い続けた。
 こんな田舎の料理屋であれほど人目を惹く女将に出会えるとは思わなかったか?
 ほうけた顔の佐藤に私は満足した。これくらい驚いてくれると接待のしがいがあるというものだ。

「あの、僕だけ酒をいただいていますが小林さんは?」
「恥ずかしながら、下戸げこでして。これでは商談もままならない。どうぞ私の分も佐藤さんが味わって下さい」

 そう、小林は酒が飲めない。身体がいっさい受けつけないのだ。小林になって初めて口にした酒は、苦くて毒のようだった。人生の楽しみを半分失ったのかと本気で落涙した。
 だが、酒を欲するのは肉体の要求であったらしく、小林になってからの私に宴席を懐かしむ気持ちは全く起きなかった。目の前で美味そうに酒をあおる佐藤を見ても、羨ましいとも何とも思わない。

「小林さんは吉澤の社長と直談判して出資を得ることになったのでしょう?  ずいぶんと豪胆な方だ。それに、周辺の小規模工場と結社を作るそうではないですか」
「一度死にかけていますから。なんだって怖くはありません」
「そう、それですよ。あなたの半生を追った連載の見出しは『渡船賃とせちんを払えなかった男』にしようと思っております。吉澤の反応は良かったですよ」
「佐藤さん、これはやはり吉澤さんのさしがねですか」
「そりゃあそうですよ。汽車賃も宿代も全て吉澤から出ていますから」
「それなら、わざわざ私に会わなくても適当に話を作って書けばよろしいではありませんか?」
「いや、書かねばならないことは決まっていますが、せっかく会える機会ができたんです。もったいないでしょう。一期一会ですよ」

 佐藤もまた好奇心旺盛な男であった。
 佐藤が書いた「渡船賃を払えなかった男」は相当に評判が良かったようだ。
 吉澤組は益々業績を伸ばしたらしい。
 小林の会社も日々成長し、村も周辺地域も確実に豊かになり始めた。
 小林建夫たけおは報徳の聖者として皆に知られる存在となっていった。



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