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Ep.3 約束を還す者

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 それはどんどん高度を下げて近付いてきていた、陽光に翠の鱗が輝いている。複雑で美しい模様の浮き出る皮膜がしなる、それに見覚えがあった――彼女は父の腕からするりと抜け出し、走り、屈み、脚部装甲の釦を押し、風と共に飛び上がる。

「アリスィア!」

 差し出された竜の腕に飛び乗り、叫べば、風が渦巻いた。

「ラナ!」

 前合わせの服が翻る。アリスィアが風の術を使ってラナの目の前、ウィータの手の中に降り立ち、ぎゅっと抱きついてきた。

「無事だったのね、よかった……色々終わった後に「竜の角」に行っても、いなかったから」

「アリスィアも「竜の角」に来る予定だったの?」

「そうよ、アーフェルズの演説が長くて退屈だったから、抜け出したの……見たのよ、夢を」

 彼女はラライーナの言葉にはっとした。鳶色の双眸と見つめ合う。

「――それって」

「飾り輪よ、誰が持っているの、残っていなかったら夢なんて見ないわ」

 ラナは振り返った。ウィータは既に音もなく着陸していて、その金の瞳で地上にいる父とイークを交互に見ながら首を傾げている。腕を地面に付けて下り易くした竜は、若者の方に鼻を近付け、引き倒して土と涎まみれにしていた。

「助けてくれ、ラナ――」

「ウィータ、やめてあげて」

 アリスィアは肩を竦めながら身軽な動きで竜の掌から飛び降り、イークに近付く。そして、竜の熱い求愛から逃れることが出来て起き上がった彼の、その左手首に嵌まっているものを見て、ラライーナは息を呑んだ。

「……これだわ、ラナ、貴方はこれをどうにかしようとしてここまで来たのでしょう」

「うん」

 頷くと、彼女を見ていた鳶色の双眸は、青年と父へ向く。眉間に皺が寄った。

「……皇帝と宰相ね、三人乗りは違法よ、どうしてここに?」

 グナエウスは腕を組んで、一言では表せないような複雑な微笑みを浮かべた。

「今は違うが、な……俺は、父親だ」

「……ラレーナ・キウィリウス・サナーレは死んだわ」

「そうだな、グナエウス・キウィリウスも、同じように革命で死んだ……ラナの父のグーノとでも名乗っておこう、保護者だ……何なら三人乗りの責任も取るぞ」

 父はそう言って鼻の奥で笑った。ラナは言わないことにした、この人がここまでの道程を彼女の免許証で飛行してきた――つまり、無免許運転である――という事実があり、責任を取るのは彼女自身であることを。偉そうに言えたことではないが、前職で鍛えた口から出まかせというやつだろうか、などと半ばどうでもいいことを考えながら、彼女は足元の小石を蹴る。

 鳶色の矛先はイークにも向いた。

「……じゃあ、そこにいるのは、ただのイーク?」

「……そうだぞ、皇帝は死んだ、ほら、髪型も違うではないか」

「……その言葉遣いは何?」

「私は下級貴族のイークで、皇帝陛下の誕生にあやかって名付けを受けた、そしてラナと家族になる予定の男だ……サヴォラ免許を取るという試練付きではあるが、グーノ殿から了承も貰ったぞ、配偶者の心配をして付いてくるのに、何もおかしいところはない」

 青年は腕を組み、胸を張って言うのだ。流石は生まれも育ちも貴族と皇帝である、ラナはそんなことをこっそり思って、何も言わないことにした。

 アリスィアは肩を竦めて軽く溜め息をついた。

「何で腕輪を持っているのか謎だけれど、そういうことにしておいてあげるわ……そうだ、その腕輪よ」

 腕輪。三人は顔を見合わせる。イークは左腕を掲げた、翠の燐光を放つそれを見つめながら口を開くのはラライーナだ。

「破壊しなきゃいけないの」

「……其方、何か大鎚を持っていなかったか、あれを使えばよいではないか」

 彼が言えば、アリスィアは首を振った。

「出来ないのよ」

「何故だ」

 そう、夢で見たのだ、ラナは囁いた。

「もっと小さな鎚があるの」

 小さな鎚とこの腕輪が共鳴して瞬く、その瞬間を。

 父の眉間に皺が寄った。組まれた腕が解かれる。

「……それはあの場所だな?」

「アル・イー・シュリエに」

「そう、アル・イー・シュリエ」

 ラナとアリスィアの声が重なった。グナエウス改めグーノはそれを聞いて、得心したように頷くのだ。

「見たことがある、ティリアがそれを仕舞うのを……帝都に引っ越す前の晩だ」

「――父さん」

「最高ね、貴方……今はグーノさん?」

「上出来だな、俺はいなくてはならない人物だ……これを壊す必要があるのはティリアから聞いていた……わかっていて、修復して贈ったのは俺だが、な」

 父は微笑んだ。その横顔が何処か寂しそうなことに、ラナは気付いた。

「そうね……そうね、さあ、そのサヴォラは魔石切れでしょう、ウィータに乗って」

 翠色の竜――ウィータは、穏やかに喉の奥で唸る。今の相棒である黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダをここに残していくのは躊躇われたが、皆の表情は急いていた。ラナは再びラウァで目を覆い、前を向く。ふと、あることを思い付いて、さっきまで自分が蹴っていた地面に転がる小石を手に取り、固い地面の上に深く大きく、大陸共通文字を刻んでいった。



 痛いほど吹きつけてくる向かい風の中、ラウァを付けたまま、アーフェルズはちらりと後ろを振り返った。シルディアナ革命の結末は、今日のところは取り敢えずエレミアを頭にして市民らの手に委ねた。明日を生きる予定の彼の手の中には、色々な事後処理が残っている。その前にやっておきたいことがあった、彼は都であるシルディアナを離れ、革命の最中に飛び去って行ったらしい黒いサヴォラの行方を市民から訊き出し、証言の通りに「竜の角」へ行ってナグラスやオルフェと再び会うことは出来たが、どうやら彼は遅かったらしい。四半刻前に三人でここを出立した、と、料理人も女主人も言ったのだ。

 三人、というのが気になった。彼は自らも一人乗り用の風の蝶フェーレ・フィリに乗って、飛燕を展開させ、その軌跡を追った。その後ろからついてくるのはティルクの風の翼フェーレ・エイルーダだ。「竜の角」へ行く前に、ラナのおじはアーフェルズに向かって夢を見たという話を持ってきた。そうして、わかったことがある。

 行き先はアル・イー・シュリエ。

 然程時間は要しなかった。果たして、帝都であった地域から二刻程飛んだパンデルヒアの真ん中、荒れ地の始まりに、探していた黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダは停泊していた。魔石動力に供給していた風魔石が切れたのだろう、何かが動いている様子はない。ラナに渡した風の魔石は袋三つ、エイニャルンから行って、帝都を一周して、誰かを乗せてまたエイニャルンまで引き返しても十分足りる量だ。おかしい、と、彼は数多の風精霊が戯れて遊ぶ中で考える。

 近くにいるかもしれなかった、しかし、歩いた痕跡が殆どない。

「アーフェルズ!」

 と、背後で風の翼フェーレ・エイルーダを砂漠燕から蜜鳥の翼へ切り替えたティルクが叫ぶのが聞こえ、アーフェルズも大声を出した。

「どうかしたか、ティルク?」

「地面をよく見てみろ!」

 地面に何かあるのか、それを傷付けてはいけないと考えて、彼は黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダの上空で蜜鳥の翼を展開する。そして覗き込んだ眼下、荒涼とした大地に刻みつけられた文字を見て、会いたい人がいないその意味を一瞬にして理解した。

   百年の約束を守るべく竜の末裔と共に
   楔を穿たれたアル・イー・シュリエの廃村へ向かいます ラナ

「何だって」

 アーフェルズは思わず囁いた。百年の約束云々については既に夢を見たティルクから聞いている、だが、彼女があの楔の中に入ればどうなるか。彼は帝都でこっそり見ていた。

 だから、想像出来るのだ、疫病と呼ばれたものが彼女に降りかかった、その姿を。

「俺は行くぞ、アーフェルズ!」

 ティルクが叫んだ。叫びながら、アル・イー・シュリエの末裔である男は自らの重力で機体を器用にするりと北に向け、砂漠燕を最大出力に設定し、驚くべき速度で飛び去って行った。

 あまりにも一瞬の出来事だったのでアーフェルズは暫しあっけにとられていた。それから我に返り、自身も機体を北に向け、飛燕を展開させた。

 あの文字は、刻みつけられてからさほど時間が経っていない。このまま放っておけば不味いことが起こるのではないか、という予感が、心の中に渦巻いていた。



 ウィータの足に結えつけられた縄を体に巻き付け、今までに乗ったサヴォラとはまた違った不思議な浮遊感に揺られ、竜の背にいるアリスィアと大声で会話をしながら、彼らは草原と低い山岳地帯一つとを越えてその焼け跡に到着した。その時には太陽は既に高く上がり、降り立ったグーノが額に汗をかくほどだった。

「ここがアル・イー・シュリエの村……」

 ラナは呟く。草原の終わり、森との境目に、十三年前に焼かれた村はあった。彼女の右隣で父が唇を噛み、うなだれたのが見える。その背に右腕を回すと小さな声で、すまない、と、ありがとう、が返ってきた。

 地面に横たわる焦げた柱や梁は粗方分解され、苔生した残骸が日陰にひっそりと息をひそめている。彼らは見つかっても何も言わないし、逃げもしない。ただ、物言わぬ碧緑の生命達はじっと動かずに、村の入口に佇む来訪者の様子を窺っている。

「ラナ、楔の……村の中に入るのは、まだよした方がいいわ。もしかしたら影響が出るかもしれないから」

 と、アリスィアが名を呼んでこう言ったものだから、彼女はどうして、と思ったことを疑問としてそのまま投げかけた。

「影響って何?」

「シルディアナの人々が疫病だ、と考えたものの正体よ」

 ラライーナはそう答えながら、自ら村の中へ歩を進める。

 果たしてその身には何も起こらなかった。

 アリスィアは振り返り、再び口を開く。

「私はラライーナだから、何も起こらない……そうね、イーク、グーノ、おそらく二人とも大丈夫だから……村の楔の中で、覇王の剣――ケイラト=ドラゴニアを破壊する為の衝動が、鍛冶師の子孫だけに発現する筈……私が祖なる竜から聞いたことが全て正しければ」

「さあ、こっちへ来て……その前にイーク、ラナにその腕輪を渡して欲しいの、鎚と剣が楔の中で共鳴し合ってとんでもないことが起こる可能性があるから、万が一の為よ」

 呼ばれ、ラナの両隣にいた二人は躊躇いがちに一歩踏み出し、イークは何も疑問に思わず、振り返って右後方にいる彼女に腕輪――覇王の剣の柄の飾りを差し出した。

 彼の指が触れる。母ティリアの形見が、今再び彼女の手に戻ってきた。

 それを確認すると男達は視線を交わし合い、意を決したようにアリスィアの傍まで歩いて行った。楔の中に入る時に流れた一瞬の緊張は、一陣の風と安堵の息がさらっていった、二人の身には何も起こらない。彼らはそこでまた顔を見合わせ、何とはなしに頷いた。

「大丈夫だったみたいね、じゃあ、殿方には私と協力してこの楔――村の中にある筈の小鎚を探してきて欲しいのだけれど、ラナは……そうね、村の入り口でそれを持ったままウィータと一緒に待っていて頂戴」

 ラライーナは言い、グーノを先導に、三人は村の奥へと姿を消した。

 疫病の発生源となり、焼かれることになった母の故郷。取り残されたラナは竜の近くに寄って、その場に座り込み、考えた。しかし、自らを竜の末裔と称したアリスィアはこう言ったのだ、シルディアナの人々が疫病だ、と考えた――楔の、村の中に入るのは、まだよした方がいい。アル・イー・シュリエの血を半分引いている彼女だからこそ、だったのだろうか。

「……疫病だと思われていたもの?」

 彼女は囁いた。そして、その“疫病”が起こった時に楔――村の中にはおらず帝都にいた彼女の母とティルクは、聞く限り何事もなく生きていた。そして、彼女自身も。

 アル・イー・シュリエの民は、大鎚を振るったクライア・サナーレの末裔だ。それはもう、彼女やティルクが、腕輪がなくても何度も何度も夢を見ているからわかっている。

 そして、パンデルヒアの真ん中で、父が言っていたではないか。属性の複雑に絡み合った術によるもの、というのが、ケイラト=ドラゴニアと呼ばれる覇王の剣の破壊を遂行する確実なものなのだとしたら。

「それだ……きっと、それだ」

 ウィータが何事か、と言わんばかりに大きな金色の瞳で覗き込んできたが、ラナは無視した。彼女は何も考えず腕輪を握り締める、その瞬間、それに共鳴して、翠の燐光は風を伴って溢れ出た。

 その場にいた竜の首を仰け反らせ、竜の力を孕む鋼は雲を映し晴天の下に煌き、幾つもの大きな波動を命の鼓動が如く、生んだ。

 森がざわめき、鳥達が耳障りな鳴き声を上げて飛んでいった。彼女自身は何ともなかった――ただ、感じる圧倒的なものの奔流に畏怖を覚えていただけだった。ふと、地面が暗く濁る。空を振り仰げば雲が次から次へと沸き、あっという間に蒼を覆い尽くした。

 風が集まり始めている。精霊達のざわめきが大きくなる。

 その中に、黒色のサヴォラが一機、全速力で近付いてくるのが見えた――あれはおじではないか?

「――ティルク?」

 そしてすぐそこには村の入り口がある。ラナが其方を振り返れば丁度、小鎚を探し当てた父を先頭に、三人が小走りで戻ってくる所だった。

 アリスィアはラナが握り締めている腕輪を、空を、後ずさりするウィータを見てまずい、と囁き、グーノはすぐそこまで迫ったサヴォラの影に気付いて身を強張らせ、鎚を持つイークは真っ直ぐに彼女と腕輪を見つめる――

「ラナ!」

 間違いなくティルクの声が、叫んだのが聞こえた。

 真っ先に動いたのはラライーナだった、彼女はラナを引っ張り、貸して、と一言、腕輪をひったくった。

「イーク!」

 アリスィアは呼び、廃墟群の真ん中へ向かって彼の腕を掴んで走り出した。父がそれを追い、ラナ本人は茫然としてそれを見送る、着地したサヴォラからティルクが下りてきて無事か、と問えども返事が出来ない――

「何故あの連中と共にいた、ラナ!」

「ティルク、腕輪を破壊しないと――」

「皇帝と宰相か――」

 回された腕は風を受け続けたせいか少し冷たい、だがその感触は一瞬で消え去る。

「駄目、行っちゃ駄目!」

 ラナが言ったことなど耳に入れず、目に映る景色の中で彼女のおじは短剣を右手に風の如く駆けて楔を越えた――



 再生に向かう大地の上。

 並ぶ楔、その円の中心に置いた覇王の剣の柄飾りに向かって、イークは小鎚を振り上げる。

 刹那、彼は殴り飛ばされた。

 小鎚は宙を舞い、地面に叩きつけられた彼はあたりをまさぐって何かを掴んだ。見れば、図らずもそれは彼女の腕輪、咄嗟に起き上がって構えたその対極を見据えれば、虚ろな表情を浮かべるのは、ティルクと呼ばれる男。

 ごくりと唾を呑んだ時、ティルクが言うのだ。

「覇を為す剣を破壊せよ」

 その足元に転がるのは祝福された鎚、彼はそれを拾い上げ、からっぽになってしまった蒼の、アル・イー・シュリエの目で見つめ、もう一度言う――

「覇を為す剣を破壊せよ」

 何が覇を為す剣だ、イークは強く思った。自我を失った男は鎚を振り上げる、祖なる竜の祝福は、祝福を受けた者の願いは呪いに等しいではないか、愛する者の家族をたった今奪い、己めがけて振り下ろされる鎚に向かって彼は腕輪を左腕に嵌めた――愛する者さえもこちらに向かってくるのが視界の端に、彼女がからっぽになるなど許せない――

「砕け、ティルク――おじうえ!」

 ――彼は初めてその名を呼んだ。

 衝撃を受けた、生まれた光の向こうに、微笑みを湛えたフェーレスが明滅する――それは満面の笑みへと変わり、翠の豪奢な衣装と髪が大気を統べ、力強くしなやかな若木の如し腕が伸びれば、風が、集まり始めていた雲を浚っていく。嵐が消えた。

 彼の腕が、光り輝いている。

 竜の祝福を受けた美しい腕輪に音を立てて罅が入った、それが澄んだ音を立てて粉々に砕け散り、破片が粒子に変わる。

 衝撃と共に、翠光が弾けた。

 青空の下、遥かなる太古の記憶と共に無数の精霊が翼を広げ、精霊王と共に鮮やかなる世界が紡ぐは、歓びの歌。

「イーク、イーク!」

 イークは風のもたらした衝撃に吹っ飛んだ、鋭い痛みが脳髄に弾ける。アーフェルズの――否、アルトヴァルト・シルダ――兄の、叫び声を聞いたような気がして、彼は何も分からなくなった。
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