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Ep.3 約束を還す者

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「……ランケイアの倅ならその姉が保護して引き取っていったぞ、光精霊殿で治療中の筈だ、命に別状はないらしい」

 グナエウスがその肩を優しく抱き、そっと揺する。だが、机の上に置かれた左腕とイオクス材は打ち合って、一層激しい音を立てた。

「だが、だが……左目が」

「――それは残念だったが、まだ見えるものはあるさ」

「だが、キウィリウス」

 イークの両目から次々と涙が零れ落ちていく。彼が首を振るのに合わせて、切られた短い髪が数本、はらはらと食卓の向こうに散った。朝の光が「竜の角」の入り口の扉に嵌められたグランス鋼の窓から差し込んでくる、そんな絵画のような光景が紡ぐのは、苛烈なる最期。

「ギレークが、ウィーリウスが……炎に呑まれて……サフィは、そのせいで」

「……ウィーリウス?」

 ウィーリウス。ラナは息を呑んだ、その名を聞いたことがある。

「炎に呑まれたって、どういうこと、イーク」

「……ウィーリウスが、持っていたのだ、私が……私が、其方に贈った筈の、耳飾りを」

 彼女の胸の内を衝撃が貫く。まさか、と思った。

「……マルクス」

 思わず囁けば、イークが手を伸ばしてくる。その身体を茫然と受け止めて、ラナは震える腕を彼の背に回した。

「覇王の剣を……剣を持ったギレークが、私を待ち受けていた……もうここまでか、死ぬのなら、と、首を差し出したら……そこに、ウィーリウスが、私を」

 首筋に自分のものではない熱い涙が流れていくのを感じる。

「逃げろと、私を、庇って……庇ったら、ウィーリウスは、ギレークに喉を刺されて、そうしたら」

「どうして」

 どくり、と心臓が跳ねた。

「どうして? 私が訊きたかった……どうして、ウィーリウスが……あれを、持っていて……あやつ、私が其方に贈った耳飾りを、耳飾りを持っていて、叩きつけたのだ、そしたら」

 イークはしゃくり上げながら言うのだ、容易に想像出来る、振り上げられた腕、叩きつけられたそこから生まれ出るのは炎。彼女は思わず、固く目を瞑った。その目蓋の裏に蘇るのは炎の精霊王ヴァグールと、数多渦巻く火花、そして白い光――



 利き腕を失くしたその人が左腕を振るっているのを見ている。抱くのはただ愛しさのみであった。

 その視線に気付いて、夢の向こうで微笑むその表情は、しかし、明るい。

 ――どうした、休憩するか、クライア。

 その人は左手に握っていた小さな鎚を楔に立て掛けて置き、声を掛けてきた。首を振って、大丈夫だよと返せば、疑わし気にその双眸が細められる。それは澄み渡る美しい空のような蒼。

 ――無理をしていないだろうな。

 ――貴方こそ、アウルス。

 返せば、慣れぬ左腕をぐるりと回しながら、返ってくるのは微笑みだ。

 やがて、見える景色に風魔石の楔は打たれ、碧緑の森を抱く山と谷の麓、まだ建設途中の村をぐるりと取り囲むように真円の陣を描いた。祈りの込められた腕輪――元は剣となる筈だった飾り輪だ――をその中央、大地の上に置けば、それは翠の燐光を帯びる。

 ――その鎚を、アウルス。

 ――一人でやるつもりか?

 ――ううん、こうしてちゃんと、貴方もいる。

 アウルスが小さな鎚を手渡してくる。剣を打った大鎚も共に、腕輪に通した。

 そうして、それに触れる。燐光は煌めいた、朝焼けの中に二つ目の太陽の如く。

 ――風の精霊王の御名において、我が願いを、さだめのその日に、届けたまえ。

 唱える聖句を浚って、顕現するは、フェーレス。

 そよ風の向こうに微笑みを抱き、かの精霊王は腕を拡げ、翠の髪と実体無き衣をたなびかせながら、打たれた楔を地中から引き抜き、翠に光り輝く風の魔石へと変えて同じ場所を穿つ。その波動が二つの鎚を包み、収束する先は、竜の涙を繋ぎ合わせた麗しき蔓と花。

 ――約束を還す者アル・イー・シュリエの名を捧げん。

 腹が震え、喉は謳い、高らかに宣言した。

 そして、風が応える。

 ――アル・イー・シュリエ、クライア・サナーレ。

 大鎚が燐光を纏って瞬いた。次いで、小さな鎚と腕輪が、同時に瞬いた。

 百年のさだめの後に、剣と腕輪、全てが破壊されることを願って。



「ラナ、ラナ、苦しい」

 その声に、我に返って、顔を上げた。

 背中を弱々しく叩いてくる腕が二本、ラナは慌てて腕に入っていた力を緩める。すると、腕の中から、イークの上目遣いが彼女を見上げてくるのだ。

「其方……すまぬ、私が、もっと迂闊でなければ」

 マルクスとガイウス・ギレークのことを言っている、というのはわかっていた。しかし、彼女は今しがた見た光景の意味を考えていた。蔓と花の文様を翠の燐光が描く腕輪、それはずっと母……ティリアの形見として彼女が身に付けていたものだ。一度彼女から失われたそれの行方も、知っている。そして、自分にしがみ付いている彼の左腕に何が嵌まっていたかを思い出した。

 ラナはイークを引き剥がした。

「ラナ――」

 突然のことに、彼は傷付いたような表情になって何かを言おうとしたが、彼女が左腕を掴めば、戸惑いながらも視線をそこへ向けるのだ。

「……これ」

「……其方の腕輪、だったな」

「違う」

 ラナはイークの左手首を引き寄せる。夢で見たその姿と、同じ蔓と花を描くそれは、確かに。

「腕輪じゃない、これ……剣の、一部だった」

「……ミザリオス帝が、其方の先祖に」

「……知っているの?」

 訊けば、イークは嚥下の音を響かせてから、涙の乾かぬ双眸を細めて、頷くのだ。

「私も、夢を見たのだ、剣の間で」

「貴方も」

「……この腕輪が、剣と、共鳴していた」

 遠く何かを夢見るような表情で彼は囁いた。

 周囲から音は消えていた。ラナが顔を上げると、何か言いたげな父の視線と出会った。そこから光の方を振り向けば、オルフェが静かに佇んでいる。ナグラスを探せば、返ってくるのは強い眼光と、傾げられた首だ。

「イーク、私、見たの」

「……夢か?」

「うん、その腕輪を返して」

 彼女は立ち上がった。椅子の立てた音が陽光に影を引いて揺れる。

「私、行かなきゃ……アル・イー・シュリエに、小鎚があるから」

「――俺も行こう」

 はっきりとそう言って立ち上がったのが父だったことに、ラナは驚いた。振り仰げば、その厳しい表情に微笑みを浮かべ、次いでグナエウスは口を開く。

「俺が修復して、ティリアに贈った……誰にも言えない秘密の腕輪だからな」

「……父さん」

「ティリアにそっくりだ、何にでも突っ込んでいく、その勇ましさが」

 大きな力強い腕が伸びてきて、そっと彼女の肩から背中を抱き寄せる。その温かさに目を閉じて身体を委ねた瞬間、別の温もりが重なってきて、驚いて見てみれば、そこにあるのは泣き腫らしたイークの翠の瞳。

「イーク、君も共に来なさい」

「――キウィリウス」

 その両の腕にしっかりと家族を抱いて。そうして、父は囁くのだ。

「父親らしいことをしたくてね、シルダとサナーレの交わる、その向こうを見よう」

 ラナはラウァを三人分取り出した。



 悲しいことに、黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダの魔石動力の中にたっぷりと供給しておいた風魔石が尽きるのは普段の二倍早かった。キウィリウス家の領地トゥーリウスを真っ直ぐ東に越え、アダマンティウスの領地であるラ・カルシャローの北の端を掠め、警邏団長が治めるシリンシア南部を突っ切り、アル・イー・シュリエの一つ手前、広大なパンデルヒアの途中でぐんぐんと高度を下げ始めた。

 混乱に乗じてアル・イー・シュリエまで真っ直ぐに行くつもりであったが、砂漠燕の翼を展開して三人乗りをしたのが仇となったらしい。違法である理由の一つになっているとは思わないが、二度とやらないようにしよう、などと、風魔石を供給し直した脚部装甲の動力を入れて二人より先に大地へ向かって身を躍らせながら、ラナは思った。

 そうして緊急着陸をして暫く。ラウァを外して、うっすらと跡が残るだけになってしまったアエギュス街道の終わりに立ち、東に視線をやれば、人気の全くない荒涼とした大地に棘だらけのスピトがぽつぽつと、くすんだ緑色に生え育っている。彼女は思い出していた、もういない人や今近くにいる人から聞いた、伝説と事実がごったまぜになった荒れ地の物語を。それは、時には大精霊であったり、炎の異形であったりした。

 すっきりした短髪を弄るイークは、帝都から出たことがないのだろう、周囲を歩き回りながら、ひっきりなしに右、左と首をきょろきょろ動かしている。ラナは、声の聞こえた自分の隣、サヴォラの黒い流線型の胴に腰掛ける父を見た。こうして見ると、使用人のような服を着た一介のサヴォラ乗りに見えてしまうから不思議なものだ。板に付いている。

「確か十七歳だったな、ラナ」

「うん、そう」

 彼女は頷き、大地から空へとゆっくり、視線を上げた。たなびく雲は細く薄く、何処か物悲しい印象を受ける空は金色の陽光に溢れ、美しい薄蒼に輝いている。朝が空高くを駆けて昼に昇ろうとしていた。

「……いや、よく、生きていてくれた」

「父さん」

 此処にいればそのうちアルジョスタ・プレナの皆と会うだろう、ラナは気付くのだ。と、父の温かい右手が頬を撫でてくる。

「ここにいれば、これからきっと、俺達は会うだろうな、反乱軍の者に……俺達を引きずり下ろす為に動いていたのだろう、そしてラナもその為に動いていたのだろう……そうだな、共に暮らしてみたいとは思うが、本当にそれが出来るのか、とここまで来て思う……燃料が尽きた今、素早く移動する手段もない……地竜の眷属を探した方が早いかね」

「……取り敢えず、歩く?」

 寂しそうなその声音に、ラナは思わず父の右手に触れる。そうだな、歩こう、と返すその表情は、しかし何かを諦めていた。イークは何も言わず、二人の後ろから足音だけを立てて、ついてきている。

「この十三年間、何度も会いに行こうか、顔だけでも見に行こうかと考えた、だけど行けなかった……合わせる顔もなかった……今、会っていればよかったと後悔しているよ、もっと父親らしく、色々なことをしてやりたかった」

「……それは、これからでも大丈夫だよ」

 彼女がそう言えば、グナエウスは、そうか、と笑った。

「こうも思う、アル・イー・シュリエを焼いてしまったのは間違いだった」

「……どうして、そう決めたの?」

「その時は、事件や事故、病気の検証をしている取調局第一課の設備がそれ程整っていない状態で、属性の複雑に絡み合った術によるもの、ということしかわからなかったのだよ……この十年で帝都の人口も驚く程に増えていたからな、それに対処しろという声が大きくなっていた……ついこの間の賃上げ要求みたいに、仕事の要求がそこかしこで行われて、歩兵団や警邏団が走り回っていたな……帝都は古代から城壁を備えた町として完成していたから、大きな働き口を増やすのは困難だった、だから、疫病ということにして、処理をしてしまった……失敗だった」

 話を聞きながら歩くラナは、時々他のものに興味を示してふらりと近付いていくイークを観察した。少し向こうに生えているスピトの傍に寄って、何やら熱心に見つめている。棘に指を近付け、触り、痛かったのだろうかすぐに指を引っ込めた。

「そんな時に、サヴォラが増えてきた……ラナ、免許を持っていたね」

 父も彼女の視線を追って、青年を見つめるのだ。

「貴族は自宅のある帝都でも、治める地方の領地でも、自警の為に雇った者の為に、と、離発着用の尖塔を欲しがったのだよ……免許を取る者も多くなってきたからね、だから帝国民に働き口としてその建設を命じた、ただ、間に合わせの仕事だ、いつか尖塔建築現場での仕事も尽きる……今思えば、行き止まりだったのかもしれない、国の限界だったのかもしれない……薄々気付いてはいたがね、その次に何を描くべきなのかは想像出来なかった」

 イークがスピトと戯れるのに飽きて戻ってくる。パンデルヒアの北に目を向ければ、遠くに大河アルヴァが、霞む大気のその向こうに森と山を望むことが出来た。そこまで行けば何頭かの地竜の眷属と出会うことが出来るかもしれないが、力を貸してくれるだろうか。だが、三人はラライーナではない、竜の要求を満たせなければ、その先に待っているのは無駄な時間の浪費だ。

「……複雑だね、父さん」

「光精霊殿の胃薬には世話になったよ」

 風に砂が巻き上げられて大地の上を滑っていく。歩き続けるしかないのだろうか、そう思いながら、ラナはグナエウスの話に耳を傾けた。

「他国に攻め入ってその土地を利益の対象にすればよい、などと主張する貴族の輩もいたが、俺はそういう奴は皆、権力の座から叩き落してやった、只でさえ先々代や先代やらがヒューロア・ラライナやらラ・レファンスとやらかして国が疲弊した後だったしな、下手を打てば国が潰されてまた犠牲が増えるだろう……駄目だ、もう全て言い訳にしか過ぎない、為したことを、為せなかったことを悔いる、ただの愚かな人間だと罵られてもおかしくはない」

 父はそこで息をついて、空を見上げた。

 胸の奥が痛くなって、彼女は腕に力を込めて父に抱きつく。そこにはラナの知らなかったことが沢山存在していた。

「でもね、父さん……父さんが、私の父さんでよかった、ちゃんと、話を聴けたもの……どれだけシルディアナのことを考えていたか、私と母さんのことを考えていたか、ちゃんとわかったもの、父さんと一緒に来てよかった」

 どれだけ苦しかったのか、どれだけ後悔したのか、どれだけ――死を見てきたか。

「――ラナ」

「もう、起こってしまったことで、もうどうしようもなかったのよ、終わってしまったし……でもね、まだ終わっていないこともあるでしょう、父さんは行こうって言ってくれた」

「……そうか」

「そうだよ、父さん」

 父のがっしりとした腕がしっかりと背中に回ってくる。ラナがその肉付きのよい胸に顔を埋めると、上から柔らかな低い声が降ってきた。

「ありがとう、ラナ」

 と、乱れた風の音がすぐ側を通り抜けていく。続いて上空からサヴォラではない奇妙な音が聞こえ、二人はその方向を見上げる――同時にイークが叫んだ。

「竜だ、此方に向かってくる!」
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