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第75話 前向きに考える

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 琥珀の短い家出は終わり、神社に帰ってきて一週間が経つ。


「あー、やっぱりここが落ち着くなぁ」

 賽銭箱の前に広がるスペースで、琥珀はうつ伏せになり、手足を目一杯伸ばしていた。 
 良く晴れた日で、地面も太陽のぬくもりを吸収して温かい。

 来たばかりの頃は野宿なんて、と遺憾だったが、今では鳥居が見えるここに、帰ってきた感がある。この生活にも、随分と馴染んでしまったものだ。

 ぬくぬくと自然の温かみを感じながら、琥珀はちらりと左に視線を向ける。

 階段を上がってすぐ左に、クスノキが植えられている。誠司の家ほどではないが、立派な木だ。その下でレジャーシートを広げ、お茶を楽しんでいるのは誠司と華である。


 昼過ぎに、華はおずおずとケーキを持ってやってきた。家出中にも来てないそうなので、華と会うのは田淵との一件以来だ。
 琥珀もケーキを貰ったあとで、一人日向ぼっこしてくると言い、誠司たちから離れた。

 琥珀がいると、どうしても誠司の意識が琥珀にも向けられて、格好つけたがる。二人きりにした時は、穏やかな時間になるのだ。


「高峰さん、この間は変なところ見せて悪かった。田淵に絡まれた時、嫌な思いしなかったか?」
「い、いえ! むしろ、その……色々、勝手なことをして、すみません」

 それは口を挟んだこともあるだろうが、おそらく平手打ちのことだ。琥珀と誠司は、華の豪快な平手を思い出す。二人が同じタイミングで吹きだすと、華は顔を赤くした。

「な、なんで笑うんですか」

「いやあれは、笑うしかないだろ。高峰さん意外とパワーあるな」

「だ、だって、あの時は、どうしようもなく腹が立ってしまって」

 華の言葉が尻すぼみになり、恥ずかしいのか、ブランケットで手遊びをする。

「悪いとは言ってない。助かったよ。……本当に」

 誠司はゆっくりと感謝を伝えたあと、マグカップに残った紅茶をゆらゆらと揺らした。

「あれから色々考えてな、もう昔のことばっか考えて過ごすのは止めることにした。高嶺さんが聞いた通り、ろくでもねえ人生で。全部どうでも良くなって、今まで腐ってたんだ。考えてみりゃ、それもしょーもねぇよな」

「……しょうもない、というより藪原さんが勿体ないと思います」

 その意見には、琥珀も同意だ。誠司の根は優しく、善人だ。世間から離れるのではなく、溶け込んで生きるべき人間である。

「仕返しは、高峰さんが十分やってくれたしな」

 誠司は隣にいる華に向けて、にっと片方の口角を上げた。

「もうっ、掘り返さないでください」

「はは。まあ、前向きに生きてみるさ。懐かし過ぎて、やり方も忘れちまってるけどな」

「前向き……に」

 華はひとりごとのように呟いてから、黙ってしまった。不自然な沈黙に、誠司は様子を窺う。

「どうした?」

「えっと、少し、少し、待って下さい」

 両手を広げて、ストップの合図をする華に、誠司は不思議に思いながらも従った。
 華は難しい顔をして、たっぷり十分は唸っていた。ようやく顔を上げた時、華はピッと正座をして誠司と向き直る。


「や、藪原さん」

 ただならぬ気配を察したのか、誠司も何事だと、胡坐をかいたまま華に身体を向けた。

「私のことも前向きに、考えてもらえませんか」

「えっ」と思わず声が出たのは、寝たふりをしていた琥珀だった。華の現すことはつまり、男女の、そういうことだろう。
 胸熱な展開に、琥珀は起き上がりかけた体を慌てて抑える。
 聞いているこっちの心拍数が上がってきた。
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