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第37話 藤うなぎ

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 玄関から、廊下、そしてリビングと、華が歩くところに電気が点いていく。明るくなったリビングで、ベッドに腰をかけている誠司が華の視界に入り、びくりと肩を竦ませた。


「きゃあっ!」

 小さく悲鳴を上げた華は、目を見開いて、誠司を凝視する。それからすぐに、大きく息をついた。

「ま、真っ暗だったので……もういらっしゃらないのかと思いました」

 はやる鼓動を抑えるように、胸に手を当てた華は「良かった」と安堵を含む言葉を落とした。

「でもその、よければ、なぜ真っ暗だったのか……聞いてもいいですか……?」

 寝ているのならまだしも、暗闇の中で座っているなど正気の沙汰ではない。華が気になるのも、無理がないだろう。部屋が荒らされているよりも、別の恐怖を覚えるかもしれない。

 かなり困惑気味な華に、隠すべきではないと考えたのだろう。誠司は気まずそうにしながらも、先ほど琥珀に伝えた理由を告げた。
 それが分かると、そんな事は気にしなくても良かったと、華はおかしそうに笑い声を上げた。

「そうだ。藪原さん、あれから具合はどうですか?」

 色々と安心したのか、華に柔らかな雰囲気が戻る。誠司の全快を確認すると、頷いた。
 そして、華は悪戯を企んでいる子どものように、含みのある笑顔を見せる。


「藪原さん、夕食にしましょう」
「いや、俺たちはもう出て」

 言葉の途中で、華は持っていたビニール袋から、黒色の木製の箱を取り出して。ぱかりと、蓋を開けてみせる。
 その瞬間に、これ以上なく食欲を誘う香ばしい匂いが漂った。

「うな重です。藪原さん、お好きですか」

 それは、下にあるご飯が見えないほど、肉厚な鰻で覆われていた。照りのある鰻は、もはや美しいと称してもいいだろう。

「特上のさらに上。藤。鰻二枚乗せ、ご飯特盛……一人前で九千円です」
「九っ……」

 あまりの金額に、誠司が言葉を失っていると、華はそっと本棚を指差した。

「大丈夫です。あそこから出ます。……まずは、馬鹿みたいに高いご飯を頼んでみました」

 それは明らかに、ストーカーから貰った金の使い所に悩む華へ「馬鹿みたいに高い服でも買え」と言った誠司の言葉を意識しての行動だった。
 

「一緒に……食べませんか?」

 ごくりと、唾液を飲み込む音がする。うな重の香りに誘われて、もれなく全員の口内は、それが湧き水のように溢れかえっていた。

 先ほどまで、ずっと帰ると言っていた誠司も、うな重を前に光の速さで陥落する。すぐさま、流れるような動きで席に着いたのだ。
 
 それを見て、華も心得たと言わんばかりに、無言で食卓の上にうな重を置く。

 誠司はささっとビニールから残りのうな重や箸を取り出して、その間に華が茶の用意をする。


「いや、なんか……うな重凄いな?」

 琥珀はその光景を、ポカンと見つめていた。
 高級うな重に出会うと、人間は最高のコンビプレーが出来るらしい。誠司と華の間には、会話などないというのに、打ち合わせ済みかと疑うくらいの速やかな役割分担だ。


 瞬く間に準備が終わって、二人の前にはうな重、琥珀の前には、華お手製のおじやが用意された。

「あれっ、俺のは?」

 もちろん、おじやが嫌なわけではない。本当に有難いと思っている。
 だが、だがしかしだ、部屋中にうな重の匂いが充満している今、それを食したいと思うのも当然だろう。

「俺の……」


 ちょうど、誠司が豪快にうな重へ箸を入れるところが見える。それを羨ましく見つめていると、誠司はたっぷり三回とったそれを蓋の上へと移した。

「ほら」

 琥珀の目の前に、こんもりと盛られたうな重が床へ置かれる。

「誠司……! いいのか?」

 「ありがとう」と告げた礼に、返事どころか目も合わせない安定の無愛想さだが。半分近くを分けてくれた誠司の優しさが、琥珀の身に染みた。

「あっ……」

 感謝と感動の熱視線を誠司に向けていたら、華の声が漏れた。それに気付いた誠司は、自分の行動を省みる。

 せっかく買って来てくれたものだ。勝手に分けることは失礼だったのではないか。
 それに、華は琥珀に対してとても友好的だが、その正体が神であることは知らない。犬に高級食品を与えることを、勿体ないと思ってもおかしくないだろう。

「あー……悪い。勝手に。駄目だったか」
「え、なんで駄目? 返した方がいいのか?」

 少し、しゅんとしながら二人が華を窺う。だが、華の言いたい事はまるで別のところにあったようだ。

「いえ、あの……琥珀くんの身体に悪くないですか? あまりたくさんあげるのは……」

 飼い主である誠司の飼育方法に、他人が口を出すのが躊躇われるのか、華の歯切れは悪い。
 基本的に、人間の食べ物は動物の身体に悪い。特に、このような味付けが濃いものは、動物が欲しがっても与えるべきではないのだ。それも神である琥珀には、関係のないことだが。


「ああ……それなら大丈夫だ。そいつは、あれだ。ちょっと身体が特殊らしくてな、何をやっても問題ねぇらしい」

 誠司の雑過ぎる説明に、華は不思議そうな顔を見せたが、そうだったのかと素直に受け止める。そして、すぐに先ほどの誠司と同じ行動を取った。

「あっだったら、私のもどうぞ」
「え、いいの!!」

 また半分近くが琥珀の前に置かれて、琥珀に笑顔が溢れる。二人のおかげで、琥珀の取り分が一番多くなった。

 二人を見上げれば、華はにこりと微笑んでくれて、誠司はすでに一口目を運んでいるところだった。

「うぉっ……」

 普段、質素な食生活をしている誠司に、うな重はよほどの衝撃を与えたらしい。
 珍しく目をまんまるにして、箸を持ったまま動きを止めている誠司に、琥珀と華から笑いが溢れる。

「ははっ、そんなうめぇの?」
「ふふ。気に入って貰えたみたいで、良かったです」

 いただきますと、二人も誠司のあとに続く。なるほど、確かにこれは絶品だった。



 
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