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第35話 慌ただしい出勤

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 翌朝、ばたばたと慌ただしい音がして、誠司は目を覚ました。

「あっ、うるさくしてすみません。起こしてしまいましたね」
「いや、それはいい」

 この二日、華は家でパーカーやトレーナーなど、ゆったりした服装で過ごしていた。
 だが、今はグレーのシフォンブラウスに、黒のパンツ。華の髪は、右耳の下でお団子にまとめられている。それは完全に、外出用の出で立ちだった。


「どこかへ行くのか」
「はい、仕事に。でも少しのんびりし過ぎました。藪原さん、朝とお昼は冷蔵庫に用意してるので、温めて食べ下さい。あ、洗い物はそのまま置いといて下さいね」

 よほど急いでいるのだろう、華が誠司に視線を向けることはない。
 いつもより早口で、料理に高速でラップをして冷蔵庫にしまっていく華に、慌てて誠司も立ち上がる。

「はっ? 待て、俺も出る」
「いえ、ゆっくりして下さい。今、藪原さんの服も干してますので」

 ベランダを見ると、誠司の服がひらひらと風に揺れている。ベランダの戸を開けて、その洗濯物を掴むと、フローラルな香りが鼻を抜けた。
 誠司の服から、こんな香りが発しているなんて、もう数年は嗅いだことがないだろう。

「朝に干したので、まだ乾いてないですよ? あっもしかして、藪原さん何か予定がありますか!?」

 どうしようと、華は申し訳なさそうに眉を下げる。
 ずいぶん手触りも柔らかくなっている服を回収しながら、誠司はそれを否定した。


「予定はない。ただ俺だけ残して、何かあったらどうするつもりなんだ」
「えっと、それは……例えば、藪原さんが私のいない間に、家を漁ったりとか……そういうことですか?」
「それ以外に何がある」

 すると、華はそんなことはまるで考えていなかったのか、はたと動きを止める。
 そしてほんの少し、考えるような素振りを見せてから、目を細めて本棚を指さした。

「そこに入ってますから、ご自由にどうぞ」

 そこにある木箱の中には、華がストーカーに遭った際に、もらった金が百万円しまわれている。一昨日、誠司が受け取りを拒否したものだ。そして、華が隠す気もなく、そこから不用意に出し入れをしたものでもある。
 誠司が、返す言葉を失っていると、華の穏やかな声がする。

「それに、本当に何かしようとしてる人は、そんな事言わないと思います」

 本当にその気なら、確かに絶好のチャンスだ。それなら、黙ってやればいい。自分から、今から悪いことするので気を付けた方がいいですよ、なんて本人に忠告してからやる必要はないだろう。

「いや、そう……はぁ、あんたももうちょっと」

 忠告しようとした誠司の言葉を中断させたのは、華の手提げ鞄を咥えて、走ってきた琥珀だった。

「お姉さん、時間、時間!」
「あっ、駄目、遅刻しちゃう」

 ハッと今の状況を思い出した華は、瞬く間に料理をしまって、琥珀から鞄を受け取った。

「あれ!? 私、携帯どこに置いたっけ、あっ、制服!」

 華が用意していた制服をまとめてある袋を持つと、琥珀が携帯を持って走ってくる。

「ほらこれ!」
「わぁ、すごい! 琥珀くんありがとう!」

 それを受け取った華が、労いの意を込めて琥珀の頭をなでるが、琥珀は苦笑いをこぼした。
 優しい華の手は心地いいのだが、今は時間に追われているのだ。

「お姉さんいいよ! それどころじゃないだろ?」

 それでも、たっぷり七回はなでた華は、ようやく玄関に向かう。靴箱から、底の低い黒のパンプスを取り出した。

「あっ、口紅忘れた!」

 それ以外の化粧は終えているが、唇だけが華本人そのままの薄桃色だった。

「大丈夫! そのままで可愛いよ!」

 なんら問題はないから、早く出るように琥珀は伝える。

「ああ、もういっか!」
「うん!」
「じゃあ、いってきます。夕方には帰りますので!」
「いってらっしゃい」

 琥珀に手を振って、華は外からガチャリと鍵をかける。
 やばいやばいと言いながら、走り去っていく足音が聞こえて、琥珀はやれやれとそれを見送った。

「あ、誠司」

 足音も遠ざかって、琥珀がくるりと振り返ると、苦い顔をしている誠司がそこにいた。
 その手には、濡れた服と誠司の鞄が持たれているが、嵐のように出勤していった華に、誠司はあと一歩支度が間に合わなかったようだ。

「誠司なんで、そんな険しい顔してんの?」
「普通……他人を家に置いていかねぇだろ。不用心に大金置いていきやがって……」
「でも、誠司要らねぇんだろ?」
「そう言ったけどな、危ないのは金だけでもねぇ」
「他に何があんの?」
「向こうは女だぞ。下着とか、色々あんだろ」
「盗んの?」
「盗るわけねぇだろ!」

 よりいっそう眉間に皺を寄せて、誠司は語気を強める。文句ありげな誠司を気に留めずに、スタスタと琥珀はリビングに戻った。

「じゃあ、いいじゃん」
「は? 良くねぇだろ」
「誠司は何も盗らないんだろ? それで、お姉さんは、居ていいって言ってて。なにも悪くなくね?」

 けろりとそう言って、ベッドの上で大きなノビをする。

「あのな、そうは言ってもなぁ」
「じゃあどうすんだよ。俺たちも出てくのか? お姉さん朝早くから、俺たちにご飯作ってくれてたぞ」

 冷蔵庫には、華が時間に追われながらもせっせと作ってくれた朝ご飯と、昼ご飯がある。
 それに、あんなにも手厚く看病をしてくれた華に、ゆっくり礼も告げずに出て行くのはいかがなものだろうか。
 ちらりと琥珀が誠司を見ると、白旗を上げたのがわかった。納得いかぬ顔のまま、ベランダまで来ると、さっき取り込んだ服を干し始める。

「家にいるのか?」
「……こんな大金置いてある家、鍵開けっ放しでなんか出れねぇよ」

 上着から靴下まで、丁寧に洗われている洗濯物を干しながら、誠司は小さく愚痴をこぼした。

「はぁ、くそ……なんだ? 俺がおかしいのか?」
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