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    *


 心地よい風が吹く、高台の丘。
 眼下には茜色の夕陽に照らされた海原と白い街並みが広がっている。

 ここは――?

 周りを見渡しても誰もいない。
 立派な菩提樹が一本。

 その木陰に僕は立っている。
 なぜだろう、とても懐かしい気持ちだ。

「ちゃんとやってるか?」
「え……」
 いつの間にか隣に父が立っていた。

「何だ、そんな顔をして」
「あ、いや……」

 これは夢か……懐かしいな。
 父さん、もっと大きかった気がするなぁ……。

「俺が小さいわけじゃない、お前が大きくなったのさ」
「あ、あれ? 僕の声が……」

 そうか、夢だ。
 だから心の声が伝わるのか。

「お前には全部教えたつもりだ。胸を張っていいぞ、シチリ」
「……うん、ありがとう」

「シチリ、大きくなったわね」
 透き通るような声に、ハッとして振り向くと、そこには写真でしか見た覚えのない母が立っていた。

「か、母さんなの……?」
「寂しい思いをさせてごめんなさいね、シチリ。でも、あなたはオネットの子だから……きっと大丈夫」

「母さん、僕は……」

 母の細い指が僕の頬を撫でる。
 ひんやりとして、とっても柔らかい手だ……。

 その時、僕は何か、とても大事な何かを忘れているような気がした。

「シチリ、もう行きなさい」
「え?」

「大丈夫、また逢えるわ」

 二人は僕を抱きしめた。
 自然と涙が溢れる。

 その頬を伝う涙の温度で、僕は現実に戻された――。


    *


「こ、ここは……⁉」

 目を開けると、コーエンさんの家の中だった。
 瞬時に記憶が繋がる。

 そうだ! マイカ、マイカは⁉
 起き上がろうとするが、両肩に激痛が走る。

「ぐっ……!」
「シチリ!」

「マ、マイカ⁉」

 見ると、縄で縛られたマイカが椅子に座らされていた。
 な、なんてことを……!

「おや、目覚めてしまいましたか……できれば苦しまずに済ませてあげたかったのですがね」
「マイカに触れるな! 許さないぞ!」

「と、おっしゃってますが?」
「シチリ、お願い……逃げて……」

「何を言ってる! もうすぐバートンさん達もやってくるさ、それまでの辛抱だ!」

 マイカが顔を横に振った。

「ごめんなさい……私、約束を守れなくて……」
「会話を邪魔して申し訳ないのですが、誰が来ても同じことですよ。それまでに終わらせます」

 ミハイルはそう言って、マイカの隣に立った。

「やめろ! 指一本でも触れればお前を殺す!」
「少し黙りましょうか」

 突然、体の自由が奪われた――。
 ミハイルの瞳が妖しい紫色に輝いている。

「さて、お訊ねしますが……あなたは何者なのですか?」
「わ、私は……」

「私にはわかりますよ……あなたから、僅かですが聖女の力を感じます。不思議ですねぇ……生まれつきでしょうか? それとも何か秘密が……?」

 そう言って、マイカの銀髪に触れた。

 ――くそぉおおお!!!
 動かない体にありったけの力を込める。

 だが、呻き声一つ漏らすことができない。

「ははぁ~、この髪……最後の聖女と言われたベルナデットと同じですね。偶然でしょうか?」
「知りません……」

「出身は? 両親は? なぜこの町に?」

 マイカの周りをゆっくりと歩きながら、ミハイルは質問を続けた。
 そして、マイカの顔を覗き込む。

「答えられませんか?」
「くっ……」マイカが顔を背ける。

 ミハイルは「いいでしょう」とマイカに背を向け、僕の方へ歩いてきた。
 そして、僕の頭に足を置く。
 動けない体でも、ご丁寧にも痛みは感じるようだ。

「シチリ!」
「ほぅ、この若者が大事なのですね。では、お答え下さい。さぁ!」

 グッと足に力が入る。
 ぐあ、あ、頭が……潰れそうだ……。

「あぁ! シチリ! いや、シチリーーっ!」
「母は? 父は? くっくっく……答えられない! はっはっは! そうか……あなたは、いや、お前はホムンクルスだな?」

 ミハイルが不気味な笑みを浮かべる。

「ホムンクルスは短命と聞くが……これは浄化するより、持ち帰った方がよさそうだ」

 やめろ……やめてくれ……。

 お願いだ……お願いします……。

 マイカを傷つけ……ないでくれ……。
 嫌だ……何を失ってもいい。

 彼女だけは……。
 マイカの姿が涙で歪む。

 自分の無力が許せなかった。

 ミハイルが僕を踏んだまま、
「シチリという青年よ、安心しなさい。大聖堂はあなた達と共にある――」と憐れみを含んだ声で言う。

「い、いやぁあああーーーーーっ!!!」

 マイカの叫び声と同時に、何かが床を突き破ってきた。

「――なっ⁉」

 地鳴りと木床の割れる音。
 家全体が揺れている。

 ミハイルが姿勢を低くして警戒態勢を取った。
 床を突き破ったものの正体は植物の根――だが、まるで生きた触手のようにうねうねと蠢いている。

「これがあなたの本当の力というわけですか……」

 マイカを見ると、全身に黄金の燐光を纏っていた。

 スッとマイカがミハイルに向かって手を翳す。
 すると呼応するように無数の根がミハイルの足に絡みついた。

「むっ⁉」
 ミハイルは体勢を崩しながらも、紫色に輝く目でマイカを睨んだ。

『――戒めの楔――』

 だが、マイカに変化はなかった。

「な、なぜだ! なぜ効かない⁉」

 初めてミハイルが狼狽える。
 必死に手を向けたり、睨んだりしているが、そうしている間にも巨大な大蛇に飲み込まれるように、ミハイルの体を木の根が覆い隠していく。

「や、やめろ! 大聖堂我々を敵に回すつもりか! や……この……」

 ふっと体に自由が戻った。

「ぐ……うぅ……マイカ……」

 しかし、もう僕の体は動かなかった。
 この手で彼女を抱きしめることもできない。

 なんてざまだ……。
 狭くなった視界に、マイカの足が映った。

「マ、マイカ……」

「シチリよ、今の私は……恐らくお前の知るマイカではありません。今の私は聖女ベルナデットの一部であり、彼女の中にあったもの……」

 な、何を言ってるんだ……。

「この悲劇を招いたのは私……私は彼女を通して知りました。もはや、世界は私を必要としていない。私は……忘れられた存在にならなくてはなりません」
「う、うぅ……」

「シチリよ、あなたに彼女……いえ、マイカを託します」

 マイカが僕と奥にいるモーレスさん達に手を翳す。

 僕達は緑色の温かな光に包まれた。
 すると体から痛みが消え、恐ろしい速さで傷が癒えてしまった。

「こ、これは……⁉」

 僕が起き上がると同時に、マイカが糸の切れた人形のように倒れた。

「マイカ⁉」
 慌ててマイカを抱き起こす。

「マイカ! マイカ!」

 真っ白な頬に手を当て、僕は名前を呼び続けた。
 頼む……お願いだ、目を開けてくれ……!

 聖女がいるのなら、神様も見てるんだろ⁉
 頼むよ……彼女がいない世界なんて……僕はいったいどうすれば……。
 涙がマイカの頬にこぼれ落ちた。

「ん……んん……シチリ?」

 薄く目を開け、マイカが意識を取り戻した。

「マイカ……⁉」

 僕は彼女を抱きしめる。
 マイカの温もり、匂い、鼓動、存在のすべてに心から感謝した。

「シチリ、く、苦しいです……」
「あ、ごめん!」

 ぱっと手を離すと、奥でミレイさんがじたばたと暴れていた。

「す、すみません、今、解きますから!」

 僕とマイカは二人に駆け寄り、縄を解いた。
 ミレイさんはその場に座り込み、
「やれやれ……まったく、夢でも見てたのかねぇ……」とミハイルを包んだ木の根を見つめた。

「くっくっく、こんなこと説明しようにも……誰も信じねぇよな」
 モーレスさんが笑う。

「おふたりとも、身体は大丈夫ですか?」

 マイカが心配そうに訊ねると、モーレスさんが、
「大丈夫も何も――」と言いかけたのを、横からミレイさんが割り込む。
「平気さ、それよりもシチリ。あんた、マイカを連れて西へ向かいな」

「え? そんな急に……」
「いいからヴェルダッドを出るんだ」

 ミレイさんの言葉にどう答えていいものかわからず、助けを求めようとモーレスさんに目を向ける。
 すると、モーレスさんはボリボリと頭を掻き、大きく息を吐いた。

「……シチリ、腹をくくれ」
「そんな……モーレスさんまで」

 ――パンッ。
 僕の頬をモーレスさんが張った。

「シチリ⁉」

 マイカがハッと息をのんだ。
 頬に手を当て、呆然としていると、モーレスさんが僕の両肩に手を置いた。

「いいか、ここであったことは忘れろ。ヴェルダッドを出れば大聖堂連中も追ってこない。そして……もう、ここへは戻るな」
「モーレスさ……!」

 僕はモーレスさんの涙を初めて見た。

 父と同じくらい強くて、僕を育ててくれた人。

 いつも僕の前を歩いてくれた人。

 期待に応えようとするが、僕の口から出たのはまだ甘えたりない子供の言葉だった。

「でも、く、国を出るなんて……通行証もないんですよ! 無理です! 家もあります! 父と母の遺品も……」

 スッとモーレスさんが手を伸ばす。
 僕はまた叩かれると思い、グッと目を瞑った。

 だが、次の瞬間、モーレスさんの大きな手が僕の髪をくしゃくしゃにする。

「ずっと、お前を見てきたんだ……わかるさ。大丈夫、お前ならできる」
「モーレスさん……」

「なにを感傷に浸ってんだい、さぁ、シチリ、覚悟を決めな!」

 ミレイさんの檄に、僕は心を決めた。
 ひとり不安げなマイカの手を取る。

「マイカ、僕と行こう」
「は、はい!」

 僕はマイカと手を繋いだまま、モーレスさんとミレイさんに頭を下げた。

「いままで……ありがとうございました!」

「行け、シチリ!」
「後は任せな、振り返るんじゃないよ!」

 こぼれ落ちそうな涙を拭い、僕はマイカと家を飛び出した。
 この手の温もりを守るために――。
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