34 / 50
7章
34
しおりを挟む
*****
約束の一週間は、思ったよりも早く来た。
時間ってほんとあっと言う間だ。
もっと悩んでいたいと思っても、時間はまってはくれない。
僕はずっと立ち止まっているのに、時計の針は進む。
ぐだぐだ考えている僕をおいたまま、時間は勝手に進んでいく。
前になんて進めなくて相変わらず後ろ向きのマイナス思考でぐだぐだいっているのに。
相変わらず仁さんのことでぐだぐだしている僕を、紫水さんと憲介さんは家に置いてくれた。
憲介さんもぶつくさ言うものの、本当は僕の身を案じているようで紫水さんの代わりに買い物に行って帰りが遅くなった時などは迎えにもきてくれた。
なんでも話せる友達のような関係…、ではないけれど、一緒にいると少し安心する。
お父さんみたいな感じなのかな。
厳しいし優しい言葉なんて滅多にかけてくれないけど、その言葉には気持ちが籠っていたり僕の身を案じてくれるものがほとんどだ。
厳ついし強面だから、そんな風にはみえないけど。
本当は優しい人なのだ。
口下手で態度に見せないだけで。
だから、いつもは人とちょっと距離を置く紫水さんも憲介さんなら隣に置くんだろう。
仁さんの家を出て、一週間後の今日。
憲介さんは仕事を午後休みを取ってくれて、僕の仁さんの家にあった荷物を運ぶのを一緒に手伝ってくれることになった。
紫水さんは病院のお医者様だから、どうしても急にはお休みが取れない。
手伝えなくてごめんね…、と出先で僕に謝っていた。
ごめん…といいたいのは僕のほうだ。
迷惑かけてごめんと何度言っても言い足りない。
ほんと、僕は紫水さんと憲介さんに甘えてしまっている。
僕が借りていた家は仁さんとの同居してからしばらくして解約してしまったので、僕は家なしだった。戻る家があれば逃げ込んでしまうから…と仁さんと同居するときに解約したのに、結局僕は人に頼って逃げてしまっている。
紫水さんはずっといてもいいっていっていたけれど…、そう甘えてばかりもいられない。
家から荷物を取りに行って、早くお金を貯めて出ないと…。
甘えてばかりだとずるずると甘えっぱなしになってしまう気がした。
最初は紫水さんと憲介さんのいちゃいちゃっぷりを見るのが嫌だったのに今ではそれになれてしまい、いいなぁと微笑ましく見ている自分がいた。
このままここに居続ければ、溺愛する二人を見てまた馬鹿みたいに仁さんを想って恋焦がれてしまいそうで…、僕は仕事の合間必死に住宅情報誌を読み新居を探した。
まだ時間がなくてチェックしかしていないけれど、あと1か月もすれば紫水さんの家からも出ていくことができるだろう。
仕事を切り上げた憲介さんと駅で待ち合わせて、仁さんの家へ向かった。
荷物を取りに行くのは夕刻にした。
仁さんはいつも帰りは遅いので、夕方にいけば鉢合わせることはないから。
もう返さなくてはいけない合鍵を使って、仁さんの家に入る。
仁さんはやはり仕事にいっているようで、家には誰もいなかった。
誰もいない室内に少し安堵した。
もし、仁さんが…、いや、まりんでもいれば憲介さんがいてもこの部屋に入る事はきっとできなかっただろうから。
憲介さんを伴って、久しぶりの仁さんの家へと足を踏み入れる。
久しぶりの仁さんの家。
たった1週間いなかっただけなのに、凄く久しぶりな気がした。
広くて小奇麗なリビング。
きちんと洗われた食器。
まりんと別れ荒れていた時は、物は乱雑におかれ足の踏み場もなかったのに。
いまは部屋は荒れてはおらず、すっきりとしていた。
いなくなった僕の代わりにまりんが片付けているのかな。
そう思うと、またぐじぐじと胸が痛んでいく。
「おい…、駿。ぼぉっとすんな。早く荷物纏めて、ここから立ち去るぞ。お前の部屋どこだ」
僕が部屋を見て、傷ついていたのがわかったのだろうか。
僕が感傷にふけるまえに、不機嫌そうな声で尋ねられた。
「あ、うん…。あっち…だよ…」
僕が部屋の場所を告げると、憲介さんはズカズカと僕を置いて部屋に進む。
「け、憲介さん…?
あ、あの…っそんなズカズカいっても…僕がいないと…」
「お前の部屋のもん、とりあえず全部持っていけばいいんだろ」
「あ、そうだけど…」
「なら、お前は部屋隅でじっとしてろ。邪魔だ」
「邪魔って…」
「それに、お前には子供がいんだろ。なら大人しくしてろ」
「う…」
そういわれたら、なにも言えない。
折角の憲介さんの優しさを無碍はできない。
僕は憲介さんの言葉に甘えて、憲介さんに必要なものだけ荷造りして貰うように頼む。
元々そんなにモノを置いていなかったしこうなるかもと片付けていたし、モノには執着がなかったから、荷造りそのものはすぐに終わった。
「おし、帰るか」
「あ、あの…憲介さん…」
帰ろうと荷物を箱詰めした段ボールを持ち上げて、憲介さんは立ち上がったのを引き留める。
「あ?」
「最後に…ちょっと、よってもいいかな…」
「あ?どこに…」
「仁さんの部屋。最後にちょっとだけ見たいんだ…」
「女々しい奴」
「う…」
「早くしろよ…。俺はお前の部屋で待ってる。終わったらとっとと車で帰るぞ」
「う、うん…」
最後にもう一度…、なんて女々しい。
でも最後にもう一度だけこの瞳に焼き付けておきたかった。
仁さんの部屋は僕が初めて抱かれた場所。
喧嘩したりもしたけど、あの部屋が一番仁さんと触れ合う時間が多かったから。
仁さんの部屋もリビングと同じく散らかってはおらず、モノはきちんとあるべき場所に収まっていた。
黒と白が基調とした、シンプルな部屋。
ベッドを中心に、モノがあまり置いていない棚。
僕がいなくても、なに一つかわってない。
ここには、僕なんていなくても何の支障もないんだ。
そう、仁さんの前から僕が消えても、仁さんは何ともない。何とも思わない…。
「あ…、あれ…」
どんどん落ちていった思考だったが、ふと部屋に何か違和感を感じた。
なんだろう…?
なにかわからないけど、どこか違う…気がする。
なにかが…、足りないような・・・?
「…なにが…、」
何が可笑しいんだろう…?
違和感を感じるんだ?
些細な、違和感。
些細な部分だけれど、どうも引っかかる。
どこか前と違うところ…、必死になって探していると徐に部屋のドアが開いた。
「あ…ごめん、憲介さん。ちょっとぼんやりしてて…」
憲介さんがしびれを切らしてやってきたのかな…、とドアの方を振り返れば…
「駿…」
部屋のドアには…部屋の主、仁さんがいた。
「じん…さん…」
なんで、仁さんが…。
まだ仁さんが帰宅する時間じゃない筈なのに…。
まだ余裕があるから、ここに留まっていられると思ったのに…。
逃げよう・・・と思うよりも、ただただ混乱し呆然して、仁さんが目の前にいるというのに、一歩もそこから動けなかった。
視線が、仁さんに吸い寄せられる。
瞳がかち合えば、もう捕らえられたように動けない。
まるで磁石のように、一度合ってしまえば離れられない。
離れようと思っても、仁さんとあってしまえばこんなにも簡単に落ちてしまう自分がいた。
「仁さ」
仁さんの名前を言い終わる前に、仁さんに抱きすくめられた。
カタン、っと、仁さんが持っていた鞄が音を立てて床に落ちる。
帰ってきて、すぐに部屋をのぞいたようで、息は乱れて服はスーツのまま。
仁さんは自分の肩口に僕の頭を押し付けて
「駿…、」
僕の首筋に顔を埋めた。
きつく離さぬように背と後頭部に回された腕。
逃げよう…、と思うよりも「つかまってしまった」と、瞬時に思った。
この腕に。大好きな、この腕に捕らわれてしまったと。
「駿…っ」
どうして、そんな切羽つまったように僕の名前を言うの…?
求められるような熱い声色に一瞬これは幻なのでは…と考えるが、抱きしめられた体温からこれは現実なのだと知る。
「駿…っ」
どうして、そんなに、泣きそうな声で僕の名前を呼ぶの…?
どうして、なんで…。
仁さんは僕の首筋に顔を埋め、僕は仁さんの肩口に顔を埋めているから仁さんの顔はうかがえない。
でも触れ合った肩口からは小さく震えているようだった。
僕の身体も仁さんに抱きしめられて小さく震えていた。
その震えは仁さんにあえた恐怖か喜びか…わからないけれど
「仁さん…、」
小さく仁さんの名前を呼ぶ。
「仁さん…」
少しは、心配してくれた…?
僕だけが、悩んでいたんじゃ…ない…?
ドキドキと胸が早鐘のように鳴った。
抱き合っているだけ。
他に愛の言葉も口づけもないのに。
なのに、こんなに簡単に仁さんは僕の心を動かす。
仁さんは、ズルい。ほんとに、ずるいよ。
せっかく決心してここまできたのに。
その決心も揺らぎそうになる。
このまま、この腕の中にずっといたいって…そう思ってしまう。
この腕を自分のものにしたい…、そう、願ってしまう。
なにもかも、忘れ、ただこの腕の中で温もりだけを追っていたいなんて…。
「仁さん…」
そっと、仁さんの背に腕を回し頬を寄せ、仁さんに身を委ねた。
温かな腕の中。
仁さんも僕を抱きしめる腕を緩めることはせず、僕をずっと抱きしめていた。
しばらく、僕と仁さんはただ抱き合っていた。
そこに言葉はなかった。
言葉よりも、この温もりを少しでも感じていたかった。
ただ、お互いがそこにいるのを確かめるように、きつくきつく抱きしめあっていた。
今まで離れていたぶんを補うかのように。抱き合うことしかできなかった。
「駿…、」
仁さんの発した声が合図だったように、肩口に埋めていた顔をあげる。
仁さんも、僕の方を見据え、背中に回していない方の手で僕の頬に手を添えた。
仁さんの黒い瞳は少し切なげに頼りなげに揺れていた。
―キス、したい。もっと、感じたい。
もっと。
もっと、傍に。
言葉にしなくても、お互いの気持ちは同じだったのだろう。
ゆっくりと近づいてきた仁さんの顔に自然と瞳を閉じた。
唇に吐息がかかり、あと少しで唇と唇が触れ合う…。
その瞬間に。
「仁…?いないの…?」
浮ついた熱を一瞬で冷ます声がした。
まりんの、こえ。
「…まりん…」
そう呟けば、近づいていた仁さんの顔は離れていった。
そうだ。ここは、まりんの場所。
仁さんは、僕の約束を破ってもまりんと一緒にいた…。
僕じゃない…。仁さんの隣は…まりんの場所。
「まりん…どうして…」
呆然としている仁さんの手を振り払った。
ここには、いられない。いちゃいけないんだ。
もう。
頭が一瞬でパニック状態になり、ただこの家から出なくては…と、速足で玄関へと向かう。
「駿…っ、」
腕から逃げた僕を追おうとしたのか、必死に僕を呼び止める声がした。
それでも、僕の足は止まらない。
「駿…?」
玄関で僕の姿をみとめ、目を丸くしているまりん。
そのまりんの横をすり抜けて…そのまま家を逃げるように後にした。
結局、あのまま仁さんの家から逃げるように出てきてしまった。
荷物も憲介さんも置いて。
ちゃんとしようって、決心したはずなのに。
仁さんを見て、仁さんの腕に抱きしめられたら…、そんな決意もあっという間に消え去ってしまった。
駄目駄目な自分に呆れる事しかできない。
仁さんも酷い。もう仁さんにはまりんがいるのに。
僕が家から出たあとも、まりんを呼んでいたんだろうか。
呼んでいたよね。だから今日も家にいたんだ。
もう、あそこに僕の居場所なんてない。
僕の居場所は…――。
居場所、は。
《さようなら、いままでありがとうございました。
ずっと、本当は仁さんが好きでした。
ずっとずっと好きでした。代わりなんて、嘘だよ。
誰よりも、仁さんが好きだよ。
仁さんの隣にいたいと思っていました。
でも…、僕は弱いから、仁さんから離れます。
僕は…本当はズルくて弱いから。
仁さんがまりんの元へ、まりんのことで心を動かすたびにドロドロに黒くなってしまうんです。だから、いま、さよならします。
仁さんの顔見ていえないから、メールで、さよならします。
さようなら。ありがとう。まりんと幸せに》
直接は言えなかったから、簡単なひとぶんをメールで仁さんに送った。
仁さんの返信は読みたくなかったから、送ってすぐに仁さんのアドレスを拒否設定にした。
これで、全部終わりだ。憲介さんがたぶん荷物も持ってきてくれるだろうし、もう会う必要もない。
「顔色悪いよ…?大丈夫…?」
憲介さんを置いて家へと戻った僕を玄関で出迎えてくれた紫水さん。
紫水さんは屈んで僕の顔を覗いた。
「大丈…」
くらり、と立ちくらみがする。
目の前が真っ暗になり、生気を失ったように体の力が抜ける。
ああ、急に走ったから…。
疲れちゃったのかな。
疲れたんだ、きっと。
「…駿…っ」
最後に僕が見たのは、いつも落ち着いている紫水さんが慌てて僕に近寄ってくる場面だった。
約束の一週間は、思ったよりも早く来た。
時間ってほんとあっと言う間だ。
もっと悩んでいたいと思っても、時間はまってはくれない。
僕はずっと立ち止まっているのに、時計の針は進む。
ぐだぐだ考えている僕をおいたまま、時間は勝手に進んでいく。
前になんて進めなくて相変わらず後ろ向きのマイナス思考でぐだぐだいっているのに。
相変わらず仁さんのことでぐだぐだしている僕を、紫水さんと憲介さんは家に置いてくれた。
憲介さんもぶつくさ言うものの、本当は僕の身を案じているようで紫水さんの代わりに買い物に行って帰りが遅くなった時などは迎えにもきてくれた。
なんでも話せる友達のような関係…、ではないけれど、一緒にいると少し安心する。
お父さんみたいな感じなのかな。
厳しいし優しい言葉なんて滅多にかけてくれないけど、その言葉には気持ちが籠っていたり僕の身を案じてくれるものがほとんどだ。
厳ついし強面だから、そんな風にはみえないけど。
本当は優しい人なのだ。
口下手で態度に見せないだけで。
だから、いつもは人とちょっと距離を置く紫水さんも憲介さんなら隣に置くんだろう。
仁さんの家を出て、一週間後の今日。
憲介さんは仕事を午後休みを取ってくれて、僕の仁さんの家にあった荷物を運ぶのを一緒に手伝ってくれることになった。
紫水さんは病院のお医者様だから、どうしても急にはお休みが取れない。
手伝えなくてごめんね…、と出先で僕に謝っていた。
ごめん…といいたいのは僕のほうだ。
迷惑かけてごめんと何度言っても言い足りない。
ほんと、僕は紫水さんと憲介さんに甘えてしまっている。
僕が借りていた家は仁さんとの同居してからしばらくして解約してしまったので、僕は家なしだった。戻る家があれば逃げ込んでしまうから…と仁さんと同居するときに解約したのに、結局僕は人に頼って逃げてしまっている。
紫水さんはずっといてもいいっていっていたけれど…、そう甘えてばかりもいられない。
家から荷物を取りに行って、早くお金を貯めて出ないと…。
甘えてばかりだとずるずると甘えっぱなしになってしまう気がした。
最初は紫水さんと憲介さんのいちゃいちゃっぷりを見るのが嫌だったのに今ではそれになれてしまい、いいなぁと微笑ましく見ている自分がいた。
このままここに居続ければ、溺愛する二人を見てまた馬鹿みたいに仁さんを想って恋焦がれてしまいそうで…、僕は仕事の合間必死に住宅情報誌を読み新居を探した。
まだ時間がなくてチェックしかしていないけれど、あと1か月もすれば紫水さんの家からも出ていくことができるだろう。
仕事を切り上げた憲介さんと駅で待ち合わせて、仁さんの家へ向かった。
荷物を取りに行くのは夕刻にした。
仁さんはいつも帰りは遅いので、夕方にいけば鉢合わせることはないから。
もう返さなくてはいけない合鍵を使って、仁さんの家に入る。
仁さんはやはり仕事にいっているようで、家には誰もいなかった。
誰もいない室内に少し安堵した。
もし、仁さんが…、いや、まりんでもいれば憲介さんがいてもこの部屋に入る事はきっとできなかっただろうから。
憲介さんを伴って、久しぶりの仁さんの家へと足を踏み入れる。
久しぶりの仁さんの家。
たった1週間いなかっただけなのに、凄く久しぶりな気がした。
広くて小奇麗なリビング。
きちんと洗われた食器。
まりんと別れ荒れていた時は、物は乱雑におかれ足の踏み場もなかったのに。
いまは部屋は荒れてはおらず、すっきりとしていた。
いなくなった僕の代わりにまりんが片付けているのかな。
そう思うと、またぐじぐじと胸が痛んでいく。
「おい…、駿。ぼぉっとすんな。早く荷物纏めて、ここから立ち去るぞ。お前の部屋どこだ」
僕が部屋を見て、傷ついていたのがわかったのだろうか。
僕が感傷にふけるまえに、不機嫌そうな声で尋ねられた。
「あ、うん…。あっち…だよ…」
僕が部屋の場所を告げると、憲介さんはズカズカと僕を置いて部屋に進む。
「け、憲介さん…?
あ、あの…っそんなズカズカいっても…僕がいないと…」
「お前の部屋のもん、とりあえず全部持っていけばいいんだろ」
「あ、そうだけど…」
「なら、お前は部屋隅でじっとしてろ。邪魔だ」
「邪魔って…」
「それに、お前には子供がいんだろ。なら大人しくしてろ」
「う…」
そういわれたら、なにも言えない。
折角の憲介さんの優しさを無碍はできない。
僕は憲介さんの言葉に甘えて、憲介さんに必要なものだけ荷造りして貰うように頼む。
元々そんなにモノを置いていなかったしこうなるかもと片付けていたし、モノには執着がなかったから、荷造りそのものはすぐに終わった。
「おし、帰るか」
「あ、あの…憲介さん…」
帰ろうと荷物を箱詰めした段ボールを持ち上げて、憲介さんは立ち上がったのを引き留める。
「あ?」
「最後に…ちょっと、よってもいいかな…」
「あ?どこに…」
「仁さんの部屋。最後にちょっとだけ見たいんだ…」
「女々しい奴」
「う…」
「早くしろよ…。俺はお前の部屋で待ってる。終わったらとっとと車で帰るぞ」
「う、うん…」
最後にもう一度…、なんて女々しい。
でも最後にもう一度だけこの瞳に焼き付けておきたかった。
仁さんの部屋は僕が初めて抱かれた場所。
喧嘩したりもしたけど、あの部屋が一番仁さんと触れ合う時間が多かったから。
仁さんの部屋もリビングと同じく散らかってはおらず、モノはきちんとあるべき場所に収まっていた。
黒と白が基調とした、シンプルな部屋。
ベッドを中心に、モノがあまり置いていない棚。
僕がいなくても、なに一つかわってない。
ここには、僕なんていなくても何の支障もないんだ。
そう、仁さんの前から僕が消えても、仁さんは何ともない。何とも思わない…。
「あ…、あれ…」
どんどん落ちていった思考だったが、ふと部屋に何か違和感を感じた。
なんだろう…?
なにかわからないけど、どこか違う…気がする。
なにかが…、足りないような・・・?
「…なにが…、」
何が可笑しいんだろう…?
違和感を感じるんだ?
些細な、違和感。
些細な部分だけれど、どうも引っかかる。
どこか前と違うところ…、必死になって探していると徐に部屋のドアが開いた。
「あ…ごめん、憲介さん。ちょっとぼんやりしてて…」
憲介さんがしびれを切らしてやってきたのかな…、とドアの方を振り返れば…
「駿…」
部屋のドアには…部屋の主、仁さんがいた。
「じん…さん…」
なんで、仁さんが…。
まだ仁さんが帰宅する時間じゃない筈なのに…。
まだ余裕があるから、ここに留まっていられると思ったのに…。
逃げよう・・・と思うよりも、ただただ混乱し呆然して、仁さんが目の前にいるというのに、一歩もそこから動けなかった。
視線が、仁さんに吸い寄せられる。
瞳がかち合えば、もう捕らえられたように動けない。
まるで磁石のように、一度合ってしまえば離れられない。
離れようと思っても、仁さんとあってしまえばこんなにも簡単に落ちてしまう自分がいた。
「仁さ」
仁さんの名前を言い終わる前に、仁さんに抱きすくめられた。
カタン、っと、仁さんが持っていた鞄が音を立てて床に落ちる。
帰ってきて、すぐに部屋をのぞいたようで、息は乱れて服はスーツのまま。
仁さんは自分の肩口に僕の頭を押し付けて
「駿…、」
僕の首筋に顔を埋めた。
きつく離さぬように背と後頭部に回された腕。
逃げよう…、と思うよりも「つかまってしまった」と、瞬時に思った。
この腕に。大好きな、この腕に捕らわれてしまったと。
「駿…っ」
どうして、そんな切羽つまったように僕の名前を言うの…?
求められるような熱い声色に一瞬これは幻なのでは…と考えるが、抱きしめられた体温からこれは現実なのだと知る。
「駿…っ」
どうして、そんなに、泣きそうな声で僕の名前を呼ぶの…?
どうして、なんで…。
仁さんは僕の首筋に顔を埋め、僕は仁さんの肩口に顔を埋めているから仁さんの顔はうかがえない。
でも触れ合った肩口からは小さく震えているようだった。
僕の身体も仁さんに抱きしめられて小さく震えていた。
その震えは仁さんにあえた恐怖か喜びか…わからないけれど
「仁さん…、」
小さく仁さんの名前を呼ぶ。
「仁さん…」
少しは、心配してくれた…?
僕だけが、悩んでいたんじゃ…ない…?
ドキドキと胸が早鐘のように鳴った。
抱き合っているだけ。
他に愛の言葉も口づけもないのに。
なのに、こんなに簡単に仁さんは僕の心を動かす。
仁さんは、ズルい。ほんとに、ずるいよ。
せっかく決心してここまできたのに。
その決心も揺らぎそうになる。
このまま、この腕の中にずっといたいって…そう思ってしまう。
この腕を自分のものにしたい…、そう、願ってしまう。
なにもかも、忘れ、ただこの腕の中で温もりだけを追っていたいなんて…。
「仁さん…」
そっと、仁さんの背に腕を回し頬を寄せ、仁さんに身を委ねた。
温かな腕の中。
仁さんも僕を抱きしめる腕を緩めることはせず、僕をずっと抱きしめていた。
しばらく、僕と仁さんはただ抱き合っていた。
そこに言葉はなかった。
言葉よりも、この温もりを少しでも感じていたかった。
ただ、お互いがそこにいるのを確かめるように、きつくきつく抱きしめあっていた。
今まで離れていたぶんを補うかのように。抱き合うことしかできなかった。
「駿…、」
仁さんの発した声が合図だったように、肩口に埋めていた顔をあげる。
仁さんも、僕の方を見据え、背中に回していない方の手で僕の頬に手を添えた。
仁さんの黒い瞳は少し切なげに頼りなげに揺れていた。
―キス、したい。もっと、感じたい。
もっと。
もっと、傍に。
言葉にしなくても、お互いの気持ちは同じだったのだろう。
ゆっくりと近づいてきた仁さんの顔に自然と瞳を閉じた。
唇に吐息がかかり、あと少しで唇と唇が触れ合う…。
その瞬間に。
「仁…?いないの…?」
浮ついた熱を一瞬で冷ます声がした。
まりんの、こえ。
「…まりん…」
そう呟けば、近づいていた仁さんの顔は離れていった。
そうだ。ここは、まりんの場所。
仁さんは、僕の約束を破ってもまりんと一緒にいた…。
僕じゃない…。仁さんの隣は…まりんの場所。
「まりん…どうして…」
呆然としている仁さんの手を振り払った。
ここには、いられない。いちゃいけないんだ。
もう。
頭が一瞬でパニック状態になり、ただこの家から出なくては…と、速足で玄関へと向かう。
「駿…っ、」
腕から逃げた僕を追おうとしたのか、必死に僕を呼び止める声がした。
それでも、僕の足は止まらない。
「駿…?」
玄関で僕の姿をみとめ、目を丸くしているまりん。
そのまりんの横をすり抜けて…そのまま家を逃げるように後にした。
結局、あのまま仁さんの家から逃げるように出てきてしまった。
荷物も憲介さんも置いて。
ちゃんとしようって、決心したはずなのに。
仁さんを見て、仁さんの腕に抱きしめられたら…、そんな決意もあっという間に消え去ってしまった。
駄目駄目な自分に呆れる事しかできない。
仁さんも酷い。もう仁さんにはまりんがいるのに。
僕が家から出たあとも、まりんを呼んでいたんだろうか。
呼んでいたよね。だから今日も家にいたんだ。
もう、あそこに僕の居場所なんてない。
僕の居場所は…――。
居場所、は。
《さようなら、いままでありがとうございました。
ずっと、本当は仁さんが好きでした。
ずっとずっと好きでした。代わりなんて、嘘だよ。
誰よりも、仁さんが好きだよ。
仁さんの隣にいたいと思っていました。
でも…、僕は弱いから、仁さんから離れます。
僕は…本当はズルくて弱いから。
仁さんがまりんの元へ、まりんのことで心を動かすたびにドロドロに黒くなってしまうんです。だから、いま、さよならします。
仁さんの顔見ていえないから、メールで、さよならします。
さようなら。ありがとう。まりんと幸せに》
直接は言えなかったから、簡単なひとぶんをメールで仁さんに送った。
仁さんの返信は読みたくなかったから、送ってすぐに仁さんのアドレスを拒否設定にした。
これで、全部終わりだ。憲介さんがたぶん荷物も持ってきてくれるだろうし、もう会う必要もない。
「顔色悪いよ…?大丈夫…?」
憲介さんを置いて家へと戻った僕を玄関で出迎えてくれた紫水さん。
紫水さんは屈んで僕の顔を覗いた。
「大丈…」
くらり、と立ちくらみがする。
目の前が真っ暗になり、生気を失ったように体の力が抜ける。
ああ、急に走ったから…。
疲れちゃったのかな。
疲れたんだ、きっと。
「…駿…っ」
最後に僕が見たのは、いつも落ち着いている紫水さんが慌てて僕に近寄ってくる場面だった。
1
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説
花いちもんめ
月夜野レオン
BL
樹は小さい頃から涼が好きだった。でも涼は、花いちもんめでは真っ先に指名される人気者で、自分は最後まで指名されない不人気者。
ある事件から対人恐怖症になってしまい、遠くから涼をそっと見つめるだけの日々。
大学生になりバイトを始めたカフェで夏樹はアルファの男にしつこく付きまとわれる。
涼がアメリカに婚約者と渡ると聞き、絶望しているところに男が大学にまで押しかけてくる。
「孕めないオメガでいいですか?」に続く、オメガバース第二弾です。
記憶喪失の君と…
R(アール)
BL
陽は湊と恋人だった。
ひねくれて誰からも愛されないような陽を湊だけが可愛いと、好きだと言ってくれた。
順風満帆な生活を送っているなか、湊が記憶喪失になり、陽のことだけを忘れてしまって…!
ハッピーエンド保証
僕は本当に幸せでした〜刹那の向こう 君と過ごした日々〜
エル
BL
(2024.6.19 完結)
両親と離れ一人孤独だった慶太。
容姿もよく社交的で常に人気者だった玲人。
高校で出会った彼等は惹かれあう。
「君と出会えて良かった。」「…そんなわけねぇだろ。」
甘くて苦い、辛く苦しくそれでも幸せだと。
そんな恋物語。
浮気×健気。2人にとっての『ハッピーエンド』を目指してます。
*1ページ当たりの文字数少なめですが毎日更新を心がけています。
ハッピーエンド
藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。
レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。
ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。
それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。
※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる