槇村焔

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5章

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■■■

 少しでも、貴方の傍にいたい。
あなたが他の誰を好きでも。
僕なんて、本命を前にしたら置いて行かれる存在で…、でも貴方の傍にいたくて。
貴方が邪見にしないから、貴方の傍に勝手に居座っている。

貴方の笑顔を取り戻したい。
最初は、ただそう思って、それだけの為に傍にいたのに。


今では、貴方の心に残りたいと思ってる。

〝好きです。貴方が、好きで堪らないんです〟
そう言葉にすれば、何か変わるのかな。

なにか、貴方と僕とを変える〝きっかけ〟になれたのだろうか。


僕はいつだって、勇気がなくてその言葉を言えないでいる。
泣いて縋るほど好きなのに。


 仁さんが不安になく僕を慰めて抱いてくれたあの日。
仁さんは、どんな僕でも好きだと言ってくれた。
好き。ずっと欲しかった言葉。
でも、僕はその真意を聞き返すことはできなかった。
どうせ、弟の様に好きで、仁さんの本当の好きはまりんなんでしょう?って。
弱虫な僕はいつだって逃げている。
今ある現実から。
向き合うことができない自分。


「駿」
いつだって、物語は唐突だ。
それが、セオリー。
それは、どんなにいい事柄でも、悪い事柄でも。

 夕方の仁さんの家へと帰宅中。
今日も今日とて、スーパーで夕飯の食材を買ってスーパーの袋をさげて帰っていた帰り道。
僕は突然背後から、名前を呼び止められた。
女性の、声。
聞き覚えがありすぎるその声。
少し高くて耳に残る久しぶりに聞くその声色に、僕の身体は自然と恐怖に震えた。

「…まりん…」
まりん。
振り返れば背後には会いたくなかった彼女が僕の目の前にいた。


「元気?駿」
水色の大き目なワンピースに少女めいた人形のように整った顔が僕の顔を見つめながら、口を開いた。
最後に別れてから1年以上たつのに、彼女を前にすればどうしようもない恐怖が僕を襲う。
カタカタと身体は小刻みに震え、息も細くなっていく。

「駿?」
パチパチと長い睫毛を瞬かせながら、まりんは僕を見つめる。
髪の毛より濃いまりんの焦げ茶の瞳。
無表情にまりんは僕を見据えていた。


電話があった日から、数えて2か月後。
そろそろなにかアクションがあるかと身構えていた時だった。

まりんと別れて1年とちょっと。
子供ができたといって家を飛び出したまりんだったけれど、今、彼女の傍に子供はいない。
もし、子供を産んでいたのなら、まだ1歳にも満たない乳飲み子なはずなのに…。
その傍らに、いるはずの子供の姿はなかった。

どういうことだ?
まさか、流産でも…。

妊娠していたからか、まりんの身体は記憶より少しふっくらしていた。
太った、とかじゃなくて、妊娠特有の太り方であった。

少女のような顔をしているが、胸は若干大きくなった気がする。
その顔と身体のアンバランス差が、成長期に入った少女のようでもあった。

つかつかと僕の方へ近づいてくる。
逃げ出したいのに、僕の身体はまりんを前にかなしばりにあったように動けなくなっていた。


「久しぶりね」
「……」
「奇遇ね、って言葉が欲しい?
それとも、偶然じゃないわよって言葉が欲しい?」
僕を見て、ゆったりとした笑みで微笑むまりん。

たまたまだったらいいが、そんなことないだろう。
 
まりんのその言い草がたまただではないと僕に告げていた。

仁さんに会いにでもきたのか。
そう考えるのが普通だろう。

 会話などさらさらしたくなかったが、足が動いてくれなかった。
それに、わざわざ電話をしてくるくらいだ。
なにか仁さんに話もあったのかもしれない。
家に帰れば仁さんがいる。
仁さんが待つ家にまりんを連れて行きたくなかった。

「子供、生まれたの?」

仁さんのことを僕の口からまりんに話したくなかったから、子供のことを尋ねた。声が少し震えていたかもしれない。

まりんが妊娠してから1年は経っている。
なのに、今僕の前にたっているまりんは子供を抱いていない。
まさか流れてしまったのだろうか…とすぐに無粋な質問をしてしまった自分に後悔する。

僕の表情を見たまりんは静かに首を振り、「大丈夫よ」と続けた。

「無事に生まれたわ、そんな顔しなくても。
女の子よ。聞かなかったの?父さんたちから」
「知らない」

実家に連絡なんて、1度もいれたことはなかった。
仁さんの家に押しかけるように居着いてからは、実家に帰ったことはない。
僕は高校を卒業をして、家族の縁を切られてしまったし。
僕の居場所は実家にはなかった。
あそこでの僕の扱いは空気であった。
空気が今更帰ったところで、両親は何も思わないだろう。


「まぁ、父さんも母さんも私の結婚にはまだ反対しているから、あえて言わなかったのかもしれないけど」
「反対していなくても、僕には言わないよ。あの人たちは」
「相変わらずね」

クスりと微笑むまりんに、目を逸らす。

相変わらず?
僕が実家嫌いなことがだろうか?
そんなの余計なお世話だ。

まりんと僕とは両親の対応はまったく違うんだから。
僕が家を出たってあの人たちはなんの感傷も受けなかっただろうし、今でもどうでもいいと思う。

「それで、何の用?お姉さま。
わざわざ嫌いな僕を呼び止めて、何か用?」

早く帰りたい。
まりんなんかよりも仁さんの傍にいたい。
早く帰らせて。

本当は、すぐに駆け出して逃げたかったけれど、なんとか踏みとどまる。
まりんの気分を害せば、〝どうなるか〟僕は知っていたから。

嫌いな赤が脳裏を過ぎる。
まりんと会えば、知らず知らずのうちに蘇る赤。


「用がないのなら、帰りたいんだけど…」

牽制の意味も込めてまりんを睨むと、彼女はそれまで無表情だった表情を変え、一瞬すっと目を細め僕を見据えた。

「…貴方、今、仁の家にいるのよね?
一緒に住んでいたりするの?」
声を潜めながら、尋ねられる。
聞かれているのに確信を得た言い方で。

仁さんのことを聞かれると予想していたのにまりんの口から直接仁さんのことを尋ねられれば、一瞬、息をのむ。

 あの電話で僕が仁さんのところにいると確信したらしい。

僕が仁さんの元へ行くことなど、まりんには御見通しだったのだろうか。


「〝約束〟はどうしたの…?」
挑発するように、まりんがいう。
「約束、破ったの…?」
尖った声で尋ねられれば、今まで以上にガタガタと身体は身震いし唇が震えた。

昔、二つの約束をした。
相反した二つの約束を。
まりんと、僕との約束。


『―いいわ、約束してあげる。仁を傷つけたりしないって。
その代わり…、』

「仁の傍に近寄らないでって、約束したわよね」

感情も抑揚もない声で静かにまりんは呟いた。
今更、だ。
震え倒れそう身体を叱咤し、拳を握った。

「先に破ったのは、誰ですか…」

怒りからか、自分でも意識せず低い声が出た。
挑むように睨みつける。

「先に仁さんを傷つけたのは、貴方でしょ?姉さん」

僕が先に破ったわけじゃない。
先に仁さんを傷つけたのは、まりんだ。
約束反故だというのなら、先に約束を破ったのはまりんだ。

「あんたが先に僕との約束を破ったんだ。僕はちゃんと守ってた…!あんたが…」
街中なのに、人目も気にせずまりんに叫ぶ。

「あんたが、先に約束を破ったんだ…」
感情のままに叫んだ僕に、まりんは少し驚いた顔をしていた。

昔、まりんと約束をした。
最初で最後の約束。
まりんは、僕が仁さんを想っていることを知っていた。そして、約束させられた。
仁さんの傍によるな…と。

その約束を守る代わりに、僕もまりんに約束をした。

「絶対に仁さんを傷つけるなって、約束したのに…」
僕が仁さんの傍によらないかわりに、まりんは仁さんを傷つけない。
そう、約束したのに。
約束反故というのなら、それはまりんが先だ。

仁さんをボロ雑巾のように捨てておいて、傷つけていないとはいえない。

まりんは仁さんと無意味に付き合った挙句、あっさりポイ捨てして傷つけたんだから。


「随分な言い方ね。私傷つけてなんて…」
「仁さんを弄んだくせに…」
「もてあそんだなんて酷い言い草ね。
私はただ仁と付き合っただけよ。先生と付き合えるまで。

仁はそれでもいいと言ってくれたわ…。
私のことを応援してくれると言ってくれたもの。傷ついたのなんて知らないわ」

「…っ。まりんが消えてから、仁さんはずっとまりんを引きずっていたんだよ。
荒れに荒れていたし、一回倒れもした」
「…そう…」
「ボロボロになったんだ。まりんが思う以上に仁さんはまりんを思っていたんだ…。真剣に愛していたんだよ。それを…」

激昂する僕を尻目に、まりんは
「知らなかったわ」
と小さく呟いた。

知らなかった…なんて、白々しい。
まりんが毒牙にかけなきゃ、仁さんは荒れることだってなかったハズなのに。
まりんに溺れることもなかったのに。
あんなふうになることもなかったのに。
まりんを思って悲しそうな顔する仁さんを見ることもなかったのに。


悔しい。
仁さんがまりんなんかに恋に落ちたのが。
まりんなんかより、僕はずっと仁さんを想っているのに。

ぎゅっと拳を握り締める。
爪が皮膚に食い込み、痛みを伴ったけど、それでも怒りにも似た感情が爆発してしまいそうで、拳を握り締めたまま、まりんを見据えた。

「僕と話していて、子供はいいの?」
それ以上会話を続けたくなくて、切り返す。
「子供は、世話している人がいるから平気よ」

子供の話を口にした途端、それまで余裕の笑みを浮かべていたまりんの瞳が揺れ、お人形のように整っていた顔が崩れた。

少し悲しげなその顔は、僕があまり見たことのないまりんの表情だった。


「子供は…」
「私は…いらないもの。私は…」
「まりん?」
「彼らにとって、私はいらないものだから…」

何か自分に言い聞かせるようにぽつりとまりんは呟く。
思いつめたような表情のまりんに少し困惑する。

「まりん?」
「それより、話があるの。
ついてきてくれるわね?」
まりんはそう言って、僕の了承も待たずに腕を取った。

ついてきてくれるわね?という言葉とは裏腹に、掴まれた腕は僕を逃がさないようにきつく握っている。

ついていくのは決定事項のようだ。
なにを、話すと言うんだ?

今までまともに会話すらしてこなかったのに
嫌な予感しかせず、足取りは始終重かった。


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