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余話
番外編 貴族の結婚 6 ー妻は思い悩むー
しおりを挟む「旦那様は覚えていないと思うわ」
その呟きにウォレットは視線だけをオリビアに向けた。
お互い作業中で、背中合わせで視界に入らない方が集中しやすい質だ。
オリビアは陣を目に写し、解読内容を別途ノートに記載していく。魔術の素養が高ければただの転写ですむ。低ければ暗号解読だ。けれどこれを魔道具に活かすセンスはウォレットが群を抜いて凄い。
その後も図書館に通ったが、たまに見かけても恥ずかしくて声が掛けられなかった事。……綺麗な女の人と一緒だった事。五年も前の事だ。
オリビアが努力したのは実家の事があり、這い上がりたいと思ったからだが、人に優しくしたいと思うようになったのはリカルドの温かい手が嬉しかったからだ。
良い事をすれば彼に褒められているような気分になった。
だから必然的に立場の弱い者の味方になっていただけで、別にオリビア自身が優しい人間という訳ではない。
けれどオリビアが魔術院に合格してその実力を認められるようになっても、リカルドから受けたような幸福感のある衝撃には巡り会えなかった。
ずっと忘れられなかった初恋の人。
オリビアがそれを自覚したのは魔術院で一度だけリカルドを見かけたからだ。
その時も以前に見たあの女の人が隣にいた。お似合いだと思ったらまた涙が溢れて、胸の痛みに戸惑った。
やっぱり声を掛けられず、自分の執務室に戻り、ふと部屋の隅に立て掛けられていた姿見に目が留まった。
みすぼらしい。
研究しか取り柄の無い、性別だけは女の自分。魔術師長には、お前など魔術院で使ってやってるんだと侮蔑の目を向けられた事が唐突に胸を軋ませる。自分を評す沢山の蔑称が頭に響き、ぼろぼろと涙が溢れた。
◇ ◇ ◇
座り込んで泣いているオリビアに驚き、また親父が何か言ったのかたと、ウォレットは怒りを露わにした。
オリビアは首を振ってリカルドの事を話した。
ウォレットはオリビアを認めて、肩を並べて研究してくれる大事な相棒だった。
そしてニ年後、リカルドと図書館で会ってから五年後、リカルドとオリビアが勅令により結婚を命じられた。
オリビアは噂しか知らなかったが、リカルドが連れていたあの女性がディアナであると知った。第二皇子の元婚約者────だから噂は噂だけで無いと考えた。
断る手段はあっただろう。自分なんて死んだ事にでもすればいい。伯爵家との繋がりに実家の両親は喜んだが、別にオリビアの幸せを喜んだ訳では無い。彼らも考え方はあくまでも貴族なのだ。もっと利のある提供をすればきっと頷かせる事は出来る。
でも……
リカルドと夫婦になれる。
オリビアは自分の浅ましさに顔を歪めたが、この気持ちだけはどうしても消せなかった。
一度だけ会ってみよう。言い訳のように取り繕い、オリビアはリカルドに会える期待に胸を弾ませた。
◇ ◇ ◇
彼の目は冷たかった。何も写していないようにも見えた。
オリビアは愕然とした。家人たちが一生懸命オリビアを気遣ってくれているように感じたが、感謝できる余裕は無かった。
「婚姻をお断りしましょうか……」
気づけばそんな事を口にしていた。だがリカルドはその言葉に鋭い目を向けてきた。
「そんな事をすれば我が家の家名に傷がつく。それがどういう事か君に理解出来ないとは嘆かわしい。すぐ変わるように。教育が必要なら執事に用意させよう」
オリビアは身体を強張らせた。彼は自分を知っている。貴族令嬢らしからぬ醜聞まみれの自分を。
恥ずかしくなって俯いたオリビアに、リカルドは仕事があるからと退室して行った。
やっぱり会わなければ良かった。
リカルドの冷たい目や言葉よりも、自分が彼にどう認識されてきたかの方が悲しかった。彼もまた労働する貴族女性は嫌うのだ。あの時褒めてくれたのは、オリビアを平民だと思ったからだった。
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