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◆◇第二章 親友◇◆

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 王宮の書庫は、この国一番の蔵書を誇る巨大なものだった。そこには幼児が文字を覚えるために使う絵本から、国の最古の歴史書の原典までが所狭しと並べられており、そこにクレアも、彼女の守り役を断りきれなかったユーヌス・キオニアと共に時折足を踏み入れた。
「ああ、姫さまぁ、そんな、乱暴に本を引きださないでくださぁい」
「だって、取れないんだもんっ」
 クレアは彼女の目を引いた、美しい色で飾られた表紙の絵本を手に取ろうとしていた。しかし、それは薄いせいか他の本に圧力に負けてなかなか引きだすことはできない。
「だからと言ってですね、そんな……ああっ!」
 ユーヌスが駆けつける前にクレアは雪崩を起こした本の中にうずもれていた。
「姫さま、大丈夫ですかぁ? 姫さま、姫さま」
「ふにゃぁぁぁ……」
 情けない声を出して、クレアは手だけを伸ばしてユーヌスに助けを求める。
「助けて……」
「ああ、姫さま!」
 クレアはやっとのことで助け出された。薄く埃にまみれて、クレアは力をなくしたようにそこにへたり込んだ。
「はぁぁ、大変ね、本ってこんなに重いものだとは思わなかったわ」
「それは、姫さまが力任せに……」
「ありゃりゃ、大変ねー、片づけるの、手伝ったげよか」
 見渡すかぎりの本の海の中で途方にくれていたふたりに、救いの手が差し伸べられた。
「こりゃまた豪快にやったわね。本を粗末にすると誰かさんに怒られるよ?」
 クレアが見上げると、そこにはクレアよりはいくつか年下であろう少女が立っていた。晴れ渡る空のような色をした髪は、マインラードでは見ることもない珍しい色。彼女は、よく響く高い声で笑いながらあたりの本を手早く一まとめにする。
「それにしてもすごいわね、どの本が欲しかったの?」
「それ……」
 クレアは彼女が今まさに手に取ろうとしている本を指さした。紅色の表紙に、金色の文字が書かれている本だ。
「あ、これ?」
 彼女はクレアにそれを手渡し、残りをせっせと本の海を片づけ始めたユーヌスの持つ本の山の上に置いて彼ににこっと笑って見せた。
「きれいだね、それ」
「そう思ったから、見てみたいと思って手に取ったの」
「ふぅん」
 クレアは彼女を見た。薄暗い書庫の中でも、彼女の青い髪はことさらに目を引いた。それは長く伸ばされまっすぐに艶やかな色を放って、彼女の背を飾っている。
「変わった色の髪ね……」
 クレアは思わず口に出したその言葉が彼女の気に障らないか、そっと表情を盗み見たが、それは一向に気にされたようには思えなかった。
「あ、これ? うん、あたしの国じゃ珍しくはないんだけどね」
「国って、どこなの?」
 ふたりは傍らで働くユーヌスそっちのけで盛り上がる。ユーヌスは不満の声を上げた。
「姫さまぁ、ちょっとでいいから手伝って下さいよ。これじゃ全然仕事ができないですぅ」
 その有名ですらある行動の鈍さで、なるほどユーヌスに任せていればいつになっても片づかないように見えた。
「まぁ、そうね、ごめんなさい」
 クレアがユーヌスに肩をすくめて微笑みかけ、しゃがみ込んで床に落ちた本を取ろうとした時、鋭い声が響いた。
「こら、アーシュラ! なに油売ってるんだ?」
「あれ? ラーケンじゃないですかぁ」
 声の主を見て、ユーヌスはにっこりとほほえんだ。
「あ、ユーヌス? ……姫さまも」
 ユーヌスと同じ髪の色をしてはいるが、彼とは裏腹にきつい目をした青年がふたりの姿を見て気をそがれたように小さな声で言った。
「なにしてるんだ?」
「本をね、片づけてるんですよ」
「そりゃ、見ればわかる」
 呆れたように言ってラーケンは首をすくめた。
「アーシュラ、遊びに来たんじゃないって言ってるだろう? さっさと帰るぞ」
「えー、せっかく来たのにそんなに急いで帰らなくてもいいじゃん」
 ラーケンはちらりとクレアの方を見た。その視線にクレアは少し膨れて言い返す。
「そうよ、私、この方とお話ししてるのよ。もう少しいてくれてもいいでしょう?」
 そして、まだ名も知らぬ傍らの少女を瞳を見交わしてにっこりと微笑みあう。
「ねー」
 クレアは、この年若くして魔道師の最高峰にいるこの魔道師が少々苦手だった。いつもそっけない態度で人を見下したような態度がクレアには居心地の悪いものだったからだ。
「なに言ってるんですか、姫が興味をもたれるような者ではございません。行くぞ、アーシュラ」
「何よ、どういう意味よ、それ!?」
 ぷんぷんしながら彼に抗議する彼女の手に取りすがり、クレアはにっこり微笑みかけた。
「あなた、お名前はなんて言うのかしら? お聞きしてもいい?」
「アーシュラ・リン」
「アーシュラ?」
 聞いたことがある、とクレアは首をひねった。
「ああ、ラーケンが遠征の時に拾った孤児、ってあなたのことかしら?」
 その言葉にユーヌスも振り返った。
「ああ、あなたが噂のラーケンの拾った子ですかぁ」
「やめてよね、そんな、珍獣見るみたいな目つき」
 アーシュラが固く言ったのでユーヌスは慌てて謝った。
「あああ、すみません、お話には聞いていたのですが、何しろラーケンが子供の世話をするなんて、話だけでも驚いてしまいましてねぇ。実物を見るのは初めてと来れば……」
「こんなできの悪いやつ、見ても仕方がない」
 ラーケンが口を挟んでアーシュラに睨まれた。
「まぁぁ、ラーケン、これが噂のラーケンが世話している子なの? なぜ、もっと早くに私と会わせてくれなかったの? 私が王宮で退屈しきっていることは知ってたでしょうに」
「だから、お目にかけるもののほどではないと」
「ああっ、その言い方、ちょーむかつくっ!」
 そんなアーシュラに、ラーケンはしぶしぶと言ったようにクレアの方に手を指し示した。
「こちらは、一応このマインラード王家の第二王女、クレア・ナディ・シュザレーン様でいらっしゃる」」
「一応ってなんなの、一応って!」
 高い声で両方から責められて、ラーケンはうんざりと言ったように肩をすくめた。
「えええ、じゃ、この国のお姫さま?」
 アーシュラはいかにも驚いたというように口を開けた。
「ひぇぇ、まさかお姫さまに会えるとは思わなかったなぁ」
 手放しで感心されて、クレアは少し得意げに胸を張って見せた。
「さぁ、もういいだろう、アーシュラ。行くぞ」
 いらいらしたようにラーケンが言って、アーシュラは小さく舌を出して首をすくめて見せた。
「じゃね、クレア。あ、あんたのことクレアって呼んでもいい? 可愛い名前なんだもん」
「もちろんよ」
 クレアは言った。
「私も、あなたのことアーシュラって呼ぶわね」
「うん、いいよ。じゃ、またね。あたし、魔法研究院に住んでんの、また遊びに来てよ」
「是非、行くわ」
「姫さまぁ」
 ラーケンに半ば引きずられて行くアーシュラに手を振るクレアの、そのあまりにも堂々とした外出の宣言にユーヌスがおろおろしながら声をかける。
「いけませんよ、王宮の外にそう気軽に出られては。私たちがお叱りを受けます」
「ばれないようにするわ」
「そう言う問題では……」
 ユーヌスは本気で困った、と言うように眉尻を下げた。
「殿下から、姫さまを立派な姫にするよう、言いつかっているんですからぁ」
 その声に、クレアはアーシュラが立ち去ったあとをぼんやり眺めながら呟いた。
「ええ、わかってるわ」
 クレアは、こんなふうに王宮に来て初めての友を得た。その組み合わせは、長く彼女の素行を見届ける任を預かったユーヌスの頭痛の種となった。


◆◇


 アーシュラとクレアが仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。互いに、自分の住むところからはあまり出ないようにと言われている者同士だったが、やはりお互いにそこから抜け出すのが好きな同士でもあった。
「おふたりが、あんまり仲良くならないといいんですけどねぇ」
 そうごちたのは、ユーヌスだった。そして、そのつぶやきはそれぞれの庇護者の心の内でもあった。
 クレアが王都に移り住んでからしばらく後。
「ク、レ、アっ」
 部屋にいたクレアは、扉のすき間からそう名を呼ばれて振り向いた。そこには、アーシュラ。にこにこしながら手招きをしている。
「まぁ、アーシュラ。よく来てくれたわね」
 彼女に負けずに笑顔を作って、クレアはそちらへ歩み寄った。
「えへへ、久しぶり」
 いくら仲がいいとはいえ、住まう場所は王宮と魔法研究院。ちょっと歩いて行くというには遠すぎる場所であったし、行動の自由を与えられていないふたりはそう頻繁に会うわけにも行かなかったのだ。
「元気してた?」
 心なしか、アーシュラは声を潜めている。クレアもそれにつられて小さな声を出した。
「ええ、アーシュラこそ、元気そうね」
「それだけが取り柄だから」
 ふたりは笑って、そしてアーシュラはクレアの部屋の中を見渡すと、言った。
「今、暇?」
「え、ええ」
 クレアは戸惑いながら言った。
「暇、と言うか……」
「お勉強は?」
 アーシュラはいたずらっぽく瞳を輝かせる。
「終わり?」
 実は、もうひとつの授業が待っていた。それは、アーシュラがもっとも苦手とする歴史学の時間。教える教師が、クレアの興味などお構いなしに、さっさと先を進めてしまう独りよがりの性質であったことも理由のひとつだった。クレアはうなずく。
「じゃ、ちょっと、外行こうよ」
 アーシュラはますます声を潜める。
「ちょっとだけだからさ。それに、クレアが抜け出したからって、誰もびっくりはしないでしょ?」
「まぁ、ひどい」
 クレアは唇をとがらせて見せたが、やがてすぐそれは笑いに解かれ、クレアはあたりを見回した。
「ちょっとだけよ」
「わかったわかった」
 アーシュラはクレアの手を引いた。そっと足音を忍ばせて廊下を抜け、そして中庭に出たとき大きく息をついた。
「はぁ、解放感」
 アーシュラは両手を広げ、伸びをして見せる。クレアもそれを真似た。
「毎日毎日、お勉強づくしなんだもん。拾ってもらったはいいけど、ただ飯は食わさん、って、魔法のお勉強ばっかり」
「いやなの?」
 クレアが尋ねると、アーシュラは首を振った。
「いやじゃないよ、楽しい。けど、たまにはこういう息抜きも必要」
「どこに行くの?」
 外の暖かい空気にさらされて、クレアはいささか大きな声で聞いた。
「街中の? それなら、喜んでお付き合いするわよ」
「うん、もちろん」
 外の空気に触れたからか、ふたりはクレアが授業を抜け出している身であることも忘れて声を潜めることを忘れていた。
「あのね、一度行ってみたいところがあったんだ。でも、ひとりでじゃ何だし、付き合ってくれる人もいないし」
「それで、私をお誘いくださったというわけね。光栄だわ」
 胸を張ったクレアは、ぎょっと肩を震わせて振り向いた。
「姫さま~っ!」
 向こうに見えるのは、ユーヌスだった。クレアの姿を捕らえ、大きな声で彼女を引き止めようとしている。
「うわ、やばっ!」
 アーシュラもそれを聞きとがめ、慌ててクレアの手をつかんだ。
「行くよ、強行突破!」
「ア、アーシュラっ!」
 ふたりの背後から声をかけた人物は、廊下ひとつ隔てたその距離を詰められず、ふたりを取り逃がした。
「姫さま、またお勉強をさぼっていらっしゃいますね? そんなことでは……」
 ああっ、と彼は悲鳴を上げ、転ぶ音が聞こえたが、アーシュラはクレアの手を放さなかった。
「ああ、ユーヌス……」
 彼女のお目付け役である彼の文官は、廊下の敷石につまずいて、彼女たちが走り去るのを見送る以外、できなかったらしい。
「なんか、悪かったね」
 とっさに逃げ出したとはいえ、彼のそんな姿を見てアーシュラが首をすくめた。
「でも、見つかったのがユーヌスで良かったかも」
 アーシュラは小さく舌を出して笑い、クレアもそれにつられる。
「ちょっと、大目に見てもらおうよ、ね?」
「そうね」
 王宮の門を抜け出したふたりの影は、肩を並べて足早に街中に消えていく。



 「アーシュラは、どうしてこの国に来たの?」
 道すがら、クレアはそう尋ねた。
「話に聞くところだと、ラーケンたちが騎士団の遠征訓練に行っているときに会ったって」
「そうそう」
 アーシュラはうなずいた。
「あたし、親とはぐれちゃってね、で、国境近くをうろうろしてたら、騎士団の集団と会ったのよ」
 こともなげにアーシュラは言った。
「はぐれた、ってどういうこと?」
 王宮を抜け出、ふたりはその城下町に当たる、マインラードでももっとも大きな街に出た。
「あたしの国で、戦争があったの」
 注意深く聞いていないと、言葉の意味を取り違えそうになるほどあっさりとアーシュラは言った。
「で、あたしたちの住んでた村はすっかり焼かれちゃってね。あたしたち、難民ってやつになっちゃったの」
「そうなの……」
 彼女の明るい語り口調からは想像もできないほどのその内容に、クレアはかける言葉をも失ってただそうつぶやいた。
「やだ、そう深刻な顔しないでよ」
 そんなクレアの背中をぼんと叩いて見せながら、アーシュラは笑った。
「で、避難してる途中にね、森の奥のモンスターに襲われちゃって。てんでに逃げたらあたしだけマインラードの国境を越えちゃったみたいなの。で、最初に会ったのがラーケンだったってわけ」
 アーシュラは高い声で笑った。
「ラーケンも災難よね、こんな孤児拾っちゃったもんだから、世話を押し付けられちゃって」
 かける言葉すら失って、ただ相づちを打つクレアは、そんなアーシュラの横顔に、ほのかに固いものが走るのを見た。
「だから、ラーケンには悪いと思ってるのよ。あんな、人の世話なんて似付かわしくない人が、あたしみたいな子の世話役仰せつかっちゃって。だから、せめてあの人には迷惑がかからないように、と思ってね」
「……アーシュラ」
 その声に、アーシュラはくるりと振り向いて、その表情にはもうすでに先ほどの影はなかった。
「あ、ここここ」
 アーシュラは歩みを踊らせて、街の中ほどにある一軒の店に近寄った。かわいらしく飾られたその建物は、窓に白いレースを飾って、ふたりを待ち受けるようにそこにあった。
「ほら、これ」
 アーシュラは飾り窓の中を指さした。そこには、小さな金のオルゴール。
「これ、かわいいと思わない?」
「ええ、本当に」
 クレアもそれに見とれた。手のひらに乗るような小さなものだが、彫り込まれた模様は手が込んでいて、一見してできのいい品だとわかるようなものだった。
「あれが欲しくってさ。お小遣い、ためたの」
 懐を叩いて、アーシュラは微笑んだ。
「結構節約したんだからね」
 アーシュラはクレアの手を引いて、扉に手をかけた。その向こうには、店の主とおぼしき老人が、大きな椅子に身を預けている。その顔は、機嫌が悪いのかもともとそういう顔の持ち主なのか、苦虫をかみつぶしたような表情のまま、動かない。
「おじさん、来たよっ!」
 その声に、彼は振り向いた。そしてアーシュラを見て、にこりと微笑む。
「ああ、いらっしゃい」
 途端崩れる表情に、クレアは驚いた。アーシュラは、彼のいかめしい表情をものともせずににこやかに話しかける。
「おじさん、今日こそ買うわよ、あたし」
 握りこぶしを作って、アーシュラは力強く言った。
「ああ、待っていたよ」
 低い声でそう言って、老人は立ち上がる。扉のところに立ったままのクレアを見て、そして首をかしげた。
「嬢ちゃんの、友達かな……?」
「うん」
 アーシュラはぴょんとクレアの隣に立って、そして彼女の肩を抱いた。
「クレアって言うの」
「初めまして」
 クレアが軽やかに膝を折ると、老人は首をかしげて彼女をじっと見つめた。
「どこかで、見たようだがね」
 首をかしげる彼を横目で見ながら、アーシュラはそっとクレアに微笑んで見せた。
「初めて会うような気はしないが」
 アーシュラは意味あり気な目配せを送ってくる。クレアも、それにつられて小さく笑った。
「ま、いいじゃん。それより、あれ。今日は足りるはずよ、よろしく!」
 窓際に手を伸ばし、アーシュラがせかすのを老人ははいはいとうなずいて、そして手にとった。
「よく頑張ったね、お前さんが買いに来るまで、取っておいたんだよ」
 机の上に置かれたそれは、窓越しに見たときより美しく見えた。そう、宝石が埋め込まれたりはしていない分、金の輝きが純粋に見え、クレアは息をついた。
「きれいね」
「うん」
 アーシュラもそれに見とれる。そして、老人を促した。
「えと、いくらだったっけ」
 おもむろに財布を取りだし、軽く振って中に入っている硬貨の音を立てる。そしてそれを開き、中身をすべて机の上に並べる。
「……あれ?」
 アーシュラは首をかしげた。オルゴールについている値札と、アーシュラの財布の中身がわずかに噛みあわないのだ。
「あ、ちょっと足りない」
 頬を膨らませてアーシュラは言った。値札を指先ではじいて、不満を隠そうともしない。
「もう、今度こそは足りる、と思ったのに」
 舌を出して見せるアーシュラに、クレアはごそごそと懐をまさぐった。
「これで、足りるかしら」
 きらりと光った金貨に、アーシュラが驚いて肩をすくめる。
「な、なによ、いきなり」
 クレアはアーシュラの方を向き直る。
「足りない分、私に出させて。ここまで、連れ出してきてくださったお礼に」
「お気持ちはありがたいけど、でも、駄目よ」
 きっぱりとそう言う声に、クレアは驚いてアーシュラを見た。
「自分で買いたいんだもん。自分でね、お金ためて買いたいの」
「アーシュラ……」
 クレアは肩をすくめて言った。
「でも、私は、アーシュラにお礼がしたいだけなの。アーシュラも欲しいものが手に入れば、私だって嬉しいのだもの」
 その鼻先で、アーシュラは指を立てて振って見せた。
「気持ちだけ、受け取っとくよ、気持ちだけ」
 そして片目をつぶって見せる。
「でも、これは自分で欲しいんだ」
 そして、老人に向かってオルゴールを指し示した。
「今日は無理だったみたい。ごめんだけど、また」
 にっこりと笑って、老人はそれを手にとった。
「わかったよ、これは、嬢ちゃんが買いに来るまで取っておくから」
「うん、ありがと」
 アーシュラはにっこりと微笑みを作って見せ、そしてクレアを促した。
「付きあわせてごめん。行こうか」
 そして老人に向かって手を振って見せる。
「できるだけ近いうちにまた来るね」
 クレアも彼に向かって会釈をした。
「また、お邪魔します」
 ふたりに挨拶を返しながら、それでも何かを思いだすかのようにクレアをじっと見ていた老人が、両手を打ち鳴らすのをふたりは扉の向こうで聞いた。
「思いだしたのかな、クレアのこと」
 アーシュラは笑う。
「でも、とっさにわかんないものかな」
「王女として皆さまにお目にかかるときは、正装しているもの。こんな格好だから、すぐにはわからないんじゃないのかしら」
「そうかもね」
 笑いさざめきながら、肩を並べるふたりの背後に、影が近寄ってきたのはその時だった。
「なぁ」
 いきなり太い声が振ってきて、ふたりは驚いて振り返る。
「お嬢さん、随分お金持ちみたいじゃないか」
 そこには、見上げるばかりの大男がふたり。小柄なクレアとアーシュラを囲むように、通行人の視界から遮るように取り囲んで立っていた。
「おれたちに、ちょっと貸してくれないか」
「そうそう、すぐ返すから」
 先ほどの店からはそう離れてはいない。クレアは息を飲んだ。
「あなたたち……」
 恐らく、先ほど店の中で、クレアが懐から出した金貨を見たのだ。店の大きな窓は、中をのぞき込むことなど容易だったから。
「ちょっと、なによ、あんた」
 アーシュラが憤慨して、クレアの前に立った。勇ましいその姿に、男たちは苦笑する。
「元気な姉ちゃんだな。でも、おれたちが用があるのは、そっちの方」
 男たちがクレアを、正確にはクレアの懐を指さした。
「大人しくしてりゃ、悪いようにはしないよ。ちょっと、貸してくれるだけでいいんだ」
 ふたりはクレアとアーシュラの方へ、また一歩歩みを進めた。後ずさりをすると、また一歩。男たちの身長が、周りの者に何が起こっているかを気づかせない。
「なぁ?」
「や、何をっ!」
 顎を指先でつまみ上げられて、クレアはそれを振り払った。
「何をするの、私は、第二王女のクレア・ナディ・シュザレーンです。私に危害を加えるつもりですの……」
「へぇぇ」
 男がにやりと唇の端を持ち上げた。
「王女様がこんなところにおいでとは、びっくりだね」
 もうひとりも、それに倣ってにやりと笑った。
「供も連れずに、そんなこと、信じると思うのか」
「なんですって」
 クレアは憤慨した。しかし、そう言われても、身を証明するものなどないのだ。この男がクレアの顔を知らないのなら、そうと信じさせる方法は思いつかなかった。
「王女様なら、たくさんお金もお持ちでしょうね」
 クレアをかばうアーシュラがはね飛ばされた。アーシュラは、地面に膝を突く。
「アーシュラ!」
「ったぁ……。何すんのよ、かよわき乙女にっ!」
 アーシュラは立ち上がり、そしてふたりに食ってかかろうとする。
「やったわねっ」
 男たちは、あーのそんな動きを軽くあしらうとでも言ったように嫌な笑みを作って構える。しかし、足を踏みだしたその先に、立ちはだかる影があった。
「女の子を怖がらせるとは、感心できないね」
 顔を上げると、そこにいたのは軽い衣装に身を包んだ長い髪。それは金色に太陽の光を反射して、眩しく輝いていた。背後から差す光線のせいで、顔はよく見えない。
「そのお嬢さんたちは、嫌がっているようだけど……?」
「何だ、貴様!」
 身なりは軽かったが、腰には細い剣が一振り、結わえられている。金の髪のその影は、その束に手をやって、そしていつでも引き抜ける体勢をとった。
「そちらが、そのつもりなら」
 男たちに武器はなかった。彼の剣を見てたじろぎ、そしてクレアとアーシュラに憎々しげに視線をやると、捨てぜりふを吐いてその場を走り去ったのだ。
「ああ、もう、腹の立つっ! 何なのよ、あいつら」
「でも、良かったわ、怪我がなくて」
 クレアはアーシュラの体を支えて立ち上がった。そして、剣の束からは手を放してこちらに手を差し伸べる彼の方を向いた。
「ありがとう、助かりました」
「お怪我はありませんか」
 優しい声は、低くなく高くなく、そしてクレアたちに向かって微笑んだ顔は、心臓がひとつ高鳴ったほどの美しさだった。
「え、ええ」
 クレアは言葉じりを震わせて言った。
「大丈夫よ、アーシュラも」
 アーシュラもうなずいて、クレアの言葉を継いだ。
「ありがとう、なんか変なやつらでさ。助かったよ」
 アーシュラはクレアの方に向かって、にっこりと微笑んだ。
「何しろ、王女様を預かっている身だから。うっかり変なことになったら大変だった」
「王女様……?」
 彼はちらりとクレアの方を見た。クレアは、思わず身を縮ませて彼を見た。
「そうですか、姫、供もお連れにならずに出歩かれるのは、感心できたことではありませんよ」
「……はい」
 やんわりたしなめられた言葉に、クレアが恐縮するその後ろで、何事かと集まってきた者たちの声が聞こえた。
「あれ、ラクシュ神族ではないですの?」
「ああ、そうだそうだ、金色の髪、銀の目、間違いない」
「最近、騎士団にラクシュ神族の若者が入隊してきたと聞きましたけど……」
 彼にもその言葉が聞こえたのか、さっと眉をひそめるのがわかった。
「じゃ、気をつけてお帰りください」
 挨拶もそこそこに彼が立ち去る。その後ろ姿を見送ったクレアに、アーシュラがささやきかけた。
「すっごく、きれいな人だったね」
「本当ですわね」
 彼の姿がその場から消えても、ささやき声はやまなかった。
「何でも、王太子殿下がラクシュ神族に肩入れしてて、それで騎士団に入隊することになったって話だけど」
「ラクシュ神族、ねぇ」
 ため息を付く者がいた。
「王太子殿下が何をお考えなのかは知らないけれど、何でまた、ラクシュ神族なんだろうね」
「ねぇ、クレア」
 アーシュラが小さく聞いた。
「ラクシュ神族、ってなに」
「……」
 クレアは口をつぐみ、そしてアーシュラの方を振り向いて、小さく言った。
「半神半獣、と言われている一族なの」
 アーシュラはよくわからない、と言ったように首をかしげた。
「その昔、神々の戦争でマインラードの神に味方したその功績により、神に引き上げられたと言われているの」
「ふぅん」
「もう、戻らなくては。ユーヌスも、心配しているでしょう」
「ああ、そうだね」
 ふたりは群がった人々もその輪を解いた、王都の大通りを歩き始めた。
「それは、伝説ですけど。でも、金の髪と銀の目を持ったラクシュ神族という人たちがいるのは事実で、その人たちはマインラードの辺境に村を作って住んでいるの。本当に半神半獣かどうは知らないけれど、もちろん外見は普通の人の形をしているのよ。でも、めったに一族以外のものとは交流は持たないし、姿形を見られるのも嫌うって聞いているわ」
「じゃ、何でさっきの人は王都にいるの?」
 アーシュラは好奇心を隠しもしない。
「お兄様の、お考えみたい」
 彼から直接聞いたことがあるわけではなかった。しかし、セラフィスが保守的な臣下からは非難を受けるような斬新なことをやり始めていることは聞き知っていた。
「辺境の民にも、王都のことを知ってもらいたいというところかしら」
「ふーん」
 王宮に近づくに連れ、ふたりの足は重くなる。
「でも、さっきの人、きれいだったよね。騎士団にいるみたいだし、また会えたらいいね」
「本当ね」
 ラクシュ神族の騎士が、美しかったのは疑いようもないことだった。美しい男とも、男装の女ともとれる不思議な魅力があった。
「ラクシュ神族は、みんな美しいのだって聞いたわ」
「へぇぇ、じゃ、一度その村って行ってみたいね」
 のんきなことを言って、アーシュラは笑った。それに、クレアもつられる。
「また、遊びに行こうね」
 アーシュラに送られて王宮に戻ったクレアは、さっそく兄に呼び出された。そして、あきれ顔の彼にこってり絞られることになる。
「まったく、お前は……」
 恐縮して肩をすくめる彼女に、セラフィスは大きく息をついて見せたのだった。
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