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東琴子・七
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琴子は大きな庭にいた。否、庭などというかわいいものではない。その広大な庭園は拝観料でも取って公開するべきだ、などとつまらないことをつい考えてしまったくらいに立派なものだった。
ここが日向家の庭園だということは琴子にもわかる。池のほとりに祐馬がいるからだ。沈んだ険しい表情で見下ろす先には大きな池がある。池というには大きすぎる、小さめの湖といってもいいくらいだ。水面は、晴れた日にはきっと鮮やかな青になるのだろうが、今は暗く澱んだ真っ黒な水だ。
画用紙に絵を描くときには、水面はいつも水色で描いた。それが空の青を映し込んでいるからだと気づいたのはいつだったか。晴れた昼なら水面に映るだろう祐馬の顔は遠目では暗く、その表情はわからなかった。
琴子の姿は祐馬の目には映らないのだから、近づいて顔を覗き込んでもばれはしないだろう。しかしそうする勇気がなかったのは、じっと水面を見つめる祐馬の姿にどこか空恐ろしいものを感じたからだ。
祐馬はふと顔を上げた。琴子が見えているとは思わないのに、こちらを向いたその目に、祐馬の押し殺した心を見たような気がした。
その手がゆっくりと動く。突き出した両手は何かを握っていて、それが誰かの首だということに気がついたとき、祐馬の目の前に頼子がいるのが目に入った。
頼子は大きく目を見開いて祐馬を見ている。祐馬はそのままゆっくりとしゃがみ、池のほとりに膝を突いた。呆然と祐馬を見上げている頼子は、体半分を池の中に浸かったまま、ゆっくりとつぶやいた。
「祐馬、さま……?」
祐馬の手に力がこもった。頼子の体が沈んでいく。頼子の締めた鈍い藍色の帯が水を 吸って濃い色になっていく。紅の着物の胸まで、そして首までもが水に浸かっていく。
祐馬の手は頼子の首をほどき、そして彼女の頭の上を抑えた。頼子ははっと口を開く。薄く紅の塗られた唇はふたつに開き、その間から水が入り込む。ごぼ、と音がして大きな空気の固まりがあふれ出た。
「お前のような女には……こうするしかないのだよ」
祐馬の手は頼子の頭を力任せに押さえつけ、水の中に沈めていく。最後に見えたのは、頼子の細い指先だった。しかしそれは助けを求めるでなく、むしろ祐馬に向かって別れを告げているように見えた。
「こうやって、そして私だけのものになっておくれ」
指先を震わせる頼子の心をわかっているのかいないのか、祐馬はそうつぶやいた。彼は、迎えた妻が淫婦であったことを知りながらもなお彼女を愛することをやめられず、迷う男の顔をしていた。
祐馬は肘までを水の中につけ、わななく手をほどこうとはしなかった。大きな波紋が何度も広がっては消える。そして水面は、やがて静かになった。
「……あ、ああっ!」
琴子は悲鳴を上げた。その場にしゃがみ込んだ。しかし琴子の姿が見えていない祐馬には琴子の声も聞こえはしないだろう。彼はただ、厳しい視線を水面に落としているばかりだ。小さな水の珠がたくさん浮かんでくる。水面に波が大きく形を作り、幾度か逆巻いた。それはだんだんと小さくなり、そして水面は静けさを取り戻した。まるで何もなかったかのように、
――水はどこまでも、灰色で冷たい。目は利かず足も立たず、水は重く、体を包み込むようにまとわりついてくる。もがく体が起こす波は黒く頭上までをも覆い、頭の上からぎゅうぎゅうと押されるような圧迫感に息が出来ない。
水面に逃げようと顔を上げると、ビー玉のように自分の鼻や口から水の珠が漏れていく。空気を求めて思わず吸い込んだ口には大量の水が流れ込み、胸に大きな石でも入り込んだようだ。しかし、吐き出しても吸い込んでも水しかない。圧迫されていく苦しさと、体中を駆け抜ける恐怖に体が自然に暴れた。
手足は、動かそうとしても、水の重さで緩慢にしか動かない。懸命に暴れれば暴れるほど、体のすべての穴から空気が逃げていく。肺に水が入り、しかし噎せて咳き込もうにも口を開ければますますたくさんの水が入ってくる。
酸素を失って胸を圧迫され、苦悶に頭が引きちぎれそうに痛む。体の外から中から水に押されて、眼球が飛び出しそうだと思った。
重くて、冷たくて、指先までもが痺れていく。水はどこまでも重く、冷たく、苦しくて、恐ろしかった。
それでいて逃げようとは思わないのだ。逃げられないからではない、逃げようとは思わない――それは。
「いや、ぁ……ああ、っ!」
自分の悲鳴で琴子は目が覚めた。気づけばそこは自分の部屋のベッドの上で、カーテンの閉め切られた部屋は真っ暗だ。
心臓が大きく打っている。耳までがんがんと痛み、口から飛び出そうだ。まるで何キロも走ったあとのように息が荒く、何度も大きく呼吸をする。額に触れると手のひらが濡れた。こめかみを幾筋も汗が伝う。頭が、見えない手に押さえつけられているかのように動かない。
体が落ち着くまでには長い時間がかかった。ようやっと自分の体が自由になるころには、すっかり疲れ切ってしまっていた。
起きあがり、目に入った鏡には琴子が映っている。疲弊しきっている顔は、まるで病み上がりだ。左目の下にはふたつのほくろ。鏡の中の自分の顔が頼子のものと重なった。
ベッドから降りようとしたが、体がふらついた。そのまま再びベッドに沈んでしまう。ベッドに顔を埋めると先ほどの水に沈められる恐怖が蘇り、琴子は必死に悲鳴をかみ殺した。枕を、形が歪んでしまうくらいに抱きしめ、ただひたすらに恐怖と戦った。
ここが日向家の庭園だということは琴子にもわかる。池のほとりに祐馬がいるからだ。沈んだ険しい表情で見下ろす先には大きな池がある。池というには大きすぎる、小さめの湖といってもいいくらいだ。水面は、晴れた日にはきっと鮮やかな青になるのだろうが、今は暗く澱んだ真っ黒な水だ。
画用紙に絵を描くときには、水面はいつも水色で描いた。それが空の青を映し込んでいるからだと気づいたのはいつだったか。晴れた昼なら水面に映るだろう祐馬の顔は遠目では暗く、その表情はわからなかった。
琴子の姿は祐馬の目には映らないのだから、近づいて顔を覗き込んでもばれはしないだろう。しかしそうする勇気がなかったのは、じっと水面を見つめる祐馬の姿にどこか空恐ろしいものを感じたからだ。
祐馬はふと顔を上げた。琴子が見えているとは思わないのに、こちらを向いたその目に、祐馬の押し殺した心を見たような気がした。
その手がゆっくりと動く。突き出した両手は何かを握っていて、それが誰かの首だということに気がついたとき、祐馬の目の前に頼子がいるのが目に入った。
頼子は大きく目を見開いて祐馬を見ている。祐馬はそのままゆっくりとしゃがみ、池のほとりに膝を突いた。呆然と祐馬を見上げている頼子は、体半分を池の中に浸かったまま、ゆっくりとつぶやいた。
「祐馬、さま……?」
祐馬の手に力がこもった。頼子の体が沈んでいく。頼子の締めた鈍い藍色の帯が水を 吸って濃い色になっていく。紅の着物の胸まで、そして首までもが水に浸かっていく。
祐馬の手は頼子の首をほどき、そして彼女の頭の上を抑えた。頼子ははっと口を開く。薄く紅の塗られた唇はふたつに開き、その間から水が入り込む。ごぼ、と音がして大きな空気の固まりがあふれ出た。
「お前のような女には……こうするしかないのだよ」
祐馬の手は頼子の頭を力任せに押さえつけ、水の中に沈めていく。最後に見えたのは、頼子の細い指先だった。しかしそれは助けを求めるでなく、むしろ祐馬に向かって別れを告げているように見えた。
「こうやって、そして私だけのものになっておくれ」
指先を震わせる頼子の心をわかっているのかいないのか、祐馬はそうつぶやいた。彼は、迎えた妻が淫婦であったことを知りながらもなお彼女を愛することをやめられず、迷う男の顔をしていた。
祐馬は肘までを水の中につけ、わななく手をほどこうとはしなかった。大きな波紋が何度も広がっては消える。そして水面は、やがて静かになった。
「……あ、ああっ!」
琴子は悲鳴を上げた。その場にしゃがみ込んだ。しかし琴子の姿が見えていない祐馬には琴子の声も聞こえはしないだろう。彼はただ、厳しい視線を水面に落としているばかりだ。小さな水の珠がたくさん浮かんでくる。水面に波が大きく形を作り、幾度か逆巻いた。それはだんだんと小さくなり、そして水面は静けさを取り戻した。まるで何もなかったかのように、
――水はどこまでも、灰色で冷たい。目は利かず足も立たず、水は重く、体を包み込むようにまとわりついてくる。もがく体が起こす波は黒く頭上までをも覆い、頭の上からぎゅうぎゅうと押されるような圧迫感に息が出来ない。
水面に逃げようと顔を上げると、ビー玉のように自分の鼻や口から水の珠が漏れていく。空気を求めて思わず吸い込んだ口には大量の水が流れ込み、胸に大きな石でも入り込んだようだ。しかし、吐き出しても吸い込んでも水しかない。圧迫されていく苦しさと、体中を駆け抜ける恐怖に体が自然に暴れた。
手足は、動かそうとしても、水の重さで緩慢にしか動かない。懸命に暴れれば暴れるほど、体のすべての穴から空気が逃げていく。肺に水が入り、しかし噎せて咳き込もうにも口を開ければますますたくさんの水が入ってくる。
酸素を失って胸を圧迫され、苦悶に頭が引きちぎれそうに痛む。体の外から中から水に押されて、眼球が飛び出しそうだと思った。
重くて、冷たくて、指先までもが痺れていく。水はどこまでも重く、冷たく、苦しくて、恐ろしかった。
それでいて逃げようとは思わないのだ。逃げられないからではない、逃げようとは思わない――それは。
「いや、ぁ……ああ、っ!」
自分の悲鳴で琴子は目が覚めた。気づけばそこは自分の部屋のベッドの上で、カーテンの閉め切られた部屋は真っ暗だ。
心臓が大きく打っている。耳までがんがんと痛み、口から飛び出そうだ。まるで何キロも走ったあとのように息が荒く、何度も大きく呼吸をする。額に触れると手のひらが濡れた。こめかみを幾筋も汗が伝う。頭が、見えない手に押さえつけられているかのように動かない。
体が落ち着くまでには長い時間がかかった。ようやっと自分の体が自由になるころには、すっかり疲れ切ってしまっていた。
起きあがり、目に入った鏡には琴子が映っている。疲弊しきっている顔は、まるで病み上がりだ。左目の下にはふたつのほくろ。鏡の中の自分の顔が頼子のものと重なった。
ベッドから降りようとしたが、体がふらついた。そのまま再びベッドに沈んでしまう。ベッドに顔を埋めると先ほどの水に沈められる恐怖が蘇り、琴子は必死に悲鳴をかみ殺した。枕を、形が歪んでしまうくらいに抱きしめ、ただひたすらに恐怖と戦った。
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